おうちに帰ろう




 ある梅雨時の日。
「ヨシキ。」
 雪山にある、寂れた温泉宿。
「ヨシキ。」
 夕食が終わってから。
「ヨシキくん。」
 寝室に戻って。
「ヨシキ。」
 俺は何故か、他の全員から詰め寄られていた。
 話の内容はある意味とても単純で、かつとても重要な話。
旅館に集団で泊まりこむとなれば、きっと誰もが経験した事があるだろう。
あるいは言葉に出して。
あるいは無言の圧力で。
誰もが争ったことのある。
寝る場所の奪い合い。
「俺はヨシキの隣だ。」
 虎の顔をした男、ランスが言い放つ。
珍しく、非常に目つきが悪い。
というかこういう顔初めて見る。
ああ、こういうのもなかなかかっこ良くていいな…。
「何言ってやがる、俺が隣だ。」
 大神くんがランスを睨みつけた。
こちらはその名の通り、狼の顔。
というかその顔から大神くんと呼ばれているんだけど。
 二人の間で妙な火花が散る。
…そういえば大神くんはなんで俺に固執してるんだっけ?
「私がヨシキくんの隣に行く。」
 珍しくそういうのは風神さん。
相変わらず熊のメイクはバッチリだ。
彼の場合、俺が好きと言うより他に何か思惑がありそうだ。
…え、あるよね?
「私もヨシキの隣がいい。」
 風花は、珍しく語気が弱い。
まあ積極的に俺がいいと言うよりも。
確かに、この面子の中では安牌だろう。
まともな人間の顔をしているのは、俺と彼女だけなのだから。
風神さんは父親だけど、熊だしなあ。
「で。」
「誰の隣で、寝るんだ?」
 大神君の言葉を、ランスが引き継ぐ。
え、いやそりゃあ…。
しばらく考える。
誰の隣がいいって言われれば、それはもちろんランスだ。
でもこの場合家主である風神さんや、実質的な権力者の風花の顔を立てるべきだろうか。
…大神君はいいとして。
「ヨシキくん?」
 熊の顔が、ぬっと近寄ってくる。
その顔に別に驚くわけでもない。
顔自体は慣れたものであるから。
ただ、そのプレッシャーが予想外に強くて。
「え。あ、えっと…。」
 思わず口ごもる。
「ヨシキ!」
 風花が苛立った様に叫んだ。
「あ、あとで考える!」
 それだけ言って。
俺は大慌てで部屋を飛び出した。




「…逃げた。」
 ぽつり、と風花が呟いた。
確かに事象としてはそれは厳然たる事実である。
だがヨシキが逃げるよう追い詰めたのは間違いなく俺達なのだ。
そこは認めて、反省するべきだろう。
…ついムキになってしまった。
「ちぇ。
じゃあ俺さっさと寝ようっと。」
 そういいながら大神は適当な布団に滑りこむ。
全くもって幸せな思考回路の持ち主のようだ。
せめてヨシキにもこの十分の一でも能天気さがあれば。
「…私はもう一度お風呂に。」
 そういって風神さんが立ち上がる。
熊の姿をして、タオルを首にかけるのは…。
この国ではずいぶんとシュールなのだと、最近理解した。
熊族の獣人なら祖国で何度となく見てきたが、確かにプロポーションは大きく違う。
胴が長く、足は非常に短い。
とてもではないが二足歩行する形態ではないだろう。
「じゃあ私は散歩にでも。」
 そういって風花は立ち上がる。
いつもと違い、髪を上げているからだろう。
浴衣の襟からうなじが覗いて見える。
…まあ、色っぽいんだろうな。
あまりそういうことを感じること自体が少ないから俺自身はなんとも言えないのだけれど。
どうしてうなじ、つまり首元という部位に色っぽさを感じるのだろう。
素肌かつ、背中の一部というか延長という部分から、服を着ていないシーンにまでイメージが及ぶからだろうか。
確かに背中は服を脱がない限りそうそう見る場所ではないが…。
 そんなことを考えている間に、風花も部屋を出てしまった。
部屋の中には俺と、布団の中でいびきをかいている大神の二人だけ。
これではこの部屋に居てもしょうがない。
ヨシキでも探すか。
 のっそりと立ち上がる。
浴衣の裾が大きく広がっていた。
もともとサイズが若干あっていないのだ。
これでは前合わせの部分が大きく広がってしまう。
しばらく考えて。
まあ、他の客もいないようだしいいだろうと結論付けることにした。
それに、ヨシキはこういうコスチューム的なものが好きみたいだし。
なら多少はだけていた方がヨシキの機嫌も早く治るだろう。
本当は、肌を出すのは余り好きではないんだけれど。
 とりあえず部屋を出る。
後ろ手に扉を閉めようとして、鍵をどうするかを悩んだ。
このまま出れば、中は寝ている大神だけだ。
それは無用心かもしれない、と一瞬だけ思う。
が、冷静に考えれば特に必要もなさそうだ。
 大神に勝てる人間が、果たしてこの世界に何人いるというのだ。
銃だろうがナイフだろうが、当たらない攻撃に意味はない。
そして寝ているからといって、異邦者の存在に気づかないほど鈍感な男でもないだろう。
少なくとも少し前までは、そんなことでは命を落とす生活をしていたのだから。
 大神に勝つなら…。
そうだなあ、アイツが知らない兵器をもってくればいい気もする。
例えばミサイル。
だがそれは少し現実的じゃない。
ヒト一人と相対しようという時に範囲兵器を用いるのは一般的ではないだろう。
ならば火炎放射器とか?
だが流石に炎を見れば回避はする。
それに何よりそういった兵器は俺たちの世界にはなかったが、代わりに魔法が存在した。
そういう意味では、結局個人間での戦闘において大神を上回るのは難しいだろう。
やはり、敵意を感じさせた時点でアウトだ。
使う人間が目の前に居る以上、アイツ以上の早さで動かないことにはどうしようもないのだから。
となると、俺が使う魔法は相性がいいと言うべきなのかもしれない。
さすがにただの喧嘩にそこまでするつもりはないけれど。
 …などと考えていると、どうやらすっかり道に迷ってしまったようだ。
辺りをざっと見渡してみる。
どうやら中庭に出てしまったらしい。
この奥は確か離れがあるということだったから、そちらに泊まっていない限り普通には踏み込まない場所だ。
まあ、中庭を散歩する分には止められることはないだろうけれども。
 ひょっとしたら、ヨシキはここを歩いているかもしれない。
どうせあてなどないのだ。
試しに歩いてみよう。
そう思い、縁側から沓脱ぎ石の上に降りる。
散歩用だろうか、木製のサンダルがいくつか並んでいた。
俺の足には少々きついが、こればっかりは仕様がない。
さて、どちらの方向に歩いたものか。
そう思っていたところに。
「ランス。」
 不意に、声がかけられた。




 部屋を飛び出し、あてもなくふらふらと歩いて。
中庭を歩き、一人で月を見上げて。
ああ、今日は満月なんだとようやく気づいた。
ぼんやりとそれを眺め。
くしゃみをして、我に返った。
どうもしばらく意識が飛んでいたようだ。
すっかり身体も冷えてしまっている。
「さむ…。」
 梅雨時、6月とはいえ山奥である。
部分的とはいえ、雪も大量に残っている。
こんなところで、浴衣姿では身体も冷えようというものだ。
…そういや車の中はぐっすりだったし詳しく話聞いてなかったけど。
ここ、どこなんだ…?
6月で雪が残ってるって言ったら…結構な高さだよね…?
考えないことにしよう。
地理は苦手だ。
実際、都道府県も全部言えないし。
「いいや、お風呂でも入ろう。」
 独り言を呟きながら、露天風呂へと向かう。
たしかハンドタオルであれば自由に使えるはずだから、手ぶらでいっても問題ないはずだ。
そう思い、露天風呂の扉をくぐる。
ざっと見回すと…籠が一つ使用中。
この宿は確か俺たち位しか泊まってないはずだから、ここに荷物があるってことはランスか大神君か風神さんか…。
正直顔を合わせるのは気まずいけれど、誰が居るかは気になるのでそっと籠を覗いて見た。
毛皮の山が入ってた。
「え、何これ。
マタギでも来てるの?」
 呟いて、それを手に取って。
それがようやく、熊の毛皮であることに気がついた。
…風神さん!?
え、脱いでるのん!?
どうしよう、すごい見たい!
 もはや悩む暇もない。
俺は急いで服を脱ぎ捨て、籠に投げ込むと浴室へと走りこんだ。
「…ん?」
 騒がしかったのだろう。
温泉に浸かっている壮年の男が振り返った。
ああ、見覚えある…!
初めて会った時に、一度だけ見た。
四角い顎に団子鼻、フルフェイスの髭。
間違いなく、月嶋風神その人だ。
「ふ、風神さん?」
「おや、ヨシキくんか。
脱いでるところ見られちゃったなあ。」
 言いながら彼は笑う。
俺は迷わず近づいて、かけ湯をしてから隣に入る。
「え、あれそんな簡単に脱げるんですか?」
「いや、簡単には脱げないよ。
ただまあ、たまには皮膚の下も洗いたくなるから…。」
 そういって太い腕をゴシゴシとこすって見せる。
その腕も、胸板も濃い体毛に覆われていた。
…脱いでも熊じゃん。
「どうかした?」
 不思議そうな顔で覗きこんでくる。
「あ、いえ。
別に脱いでも熊だとか思ってるわけでは。」
 思わず漏らした。
「あっはっは。」
 乾いた笑いを上げる。
俺が言う事が楽しかったというよりも、ただ笑うべきと考えて笑ったといった感じだ。
…こんな人だっけ。
確かにもともとマイペースな人だったけど…。
なんていうか、つくりものみたいな笑い方だ。
「もともと、役者だからねえ。」
「えっ…。」
「そういうこと、考えてたんじゃないかい?」
 まさにそうなんだけど。
読心術…じゃないよな、まさか。
「色々やってるうちに、自分が良く判らなくなってね。
だから日ごろから仮面をつける様にしてるんだよ。
演じれば、簡単に作れるから。」
 俺の思考に割り込む様に風神さんが口を開く。
仮面、というのはまさに言葉どおりだろう。
熊の仮面。
「…別に熊じゃなくてもいいんじゃ?」
「ああ、それはそう。
動物になってるのは趣味だよ。」
 立派な自分あるじゃん!
とは流石に言えなかった。
今の風神さんを見ていては何も言えなかった。
本当に虚ろな目をしていて。
作り物のような笑顔だったから。
「熊が好きだったんですか?」
「らしいよ。
いや、昔の記録を見る限りだけどね。」
 答えも、伝聞系。
自分の記録を見て、そう判断したのだろう。
だとすれば今まで俺が風神さんだと思っていたのは。
ずっと触れ合ってきた「風神」というキャラクターは。
ただの、作り物なのか。
 なんだか急に寂しくなった。
俺が知ってる風神さんは、風神さんじゃないってことじゃないか。
演じていた、ただの役柄で。
 不意に、手を握られた。
大きな手が、包み込む様に。
まるで、ランスに握られたようだ。
「風神さん…?」
 裸で、隣り合って座っている。
手を握られている。
シチュエーションとしては非常にドキドキするものかもしれないけれど。
…なんだろう。
普段ならともかく。
なんだか今はそんな気にならない。
なれない、と言うべきか。
「どうかした?」
 優しく微笑んでくれる。
「なんか、父親みたいだなあって。」
 そう、今の風神さんを表すならば。
その言葉が一番ぴったりな気がする。
俺の言葉を聞いて、風神さんは微笑んでくれた。
「ごめんな。」
 風神さんは少しだけ悲しそうにそう言った。
表情とは裏腹に。
なぜそう感じたのか判らないほどに、乖離していた。
「…?」
 俺は思わず首を捻る。
だが風神さんは特に説明するつもりもないようだ。
そのまま無言で空を見上げる。
 違うことでも聞いてみるかなあ…。
「風神さんて、その。」
 視線を逸らしながら口を開く。
「なんていうか…。」
 言いづらい。
「再婚?」
 風神さんから察してくれた。
この状態の風神さん、なんか鋭すぎる。
むき出しだから敏感ってこと?
「今の所は考えてない…というかするつもりはないな。
女性とは恋愛する気がない、と言う方が正しいか。
風花が母親を必要とするならそういう契約を結ぶ可能性はなくはないから。
でも、もうそういう歳でもないしな。」
 すらすらと答えてくれる。
女性と…ってことは。
「男性との恋愛をするつもりはあるんですか?」
 その言葉に、風神さんは横目でこちらをちらりと見る。
それでも。
それでも、俺はそこに性的な意味合いを見出せなかった。
「日による、というか。
仮面によるな。」
「でも、それ…。」
 思わず言葉に詰まる。
仮面を変えたら、恋愛も終わるってこと?
それって本当に好きになってるのだろうか。
「だから、するつもりはないと言うのが本当の所かな…。」
 そういうことか。
ようやくわかった。
もうできない、と言っているのだ。
考えれば判ることだ。
自分が判らないから、仮面をつけて演じている。
そんな中で恋愛なんてできるわけがない。
仮に出来たとして、仮面を外してしまえば全て消えるわけで。
風神さんがそんな無責任なことをするとは思えない。
…ひょっとして人間じゃなく動物を被っているのも。
そういうことなんだろうか。
人と恋愛をする気なんかない、と。
「いつから、熊を被ってるんですか?」
「えーと、15年…もうちょっとかな。
20年はたってないと思う。
妻が亡くなって、最初は違うものを被っていたから。
それからしばらくして、熊に変えた。」
 聞きたい事も、やっぱり伝わっているようだ。
もう隠し事なんてしない方がいいのかな。
 たぶん、いや、ほぼ間違いなく。
風神さんが仮面をかぶり始めたのは、自分がわからなくなったのは。
奥さんが亡くなってからなんだろう。
それほどまでに、奥さんを愛していたのだろうか。
一緒に持って行かれるほどに。
一緒にいたいと思って、自分から切り離すほどに。
 ランスのことを考える。
いつか。
もし、いつか。
いや、明日にでも。
ランスがもとの世界に返れるとなったら。
その時、俺は笑って送り返さなきゃいけないのだろう。
ランスが向こうの生活に戻るために。
…できるんだろうか。
俺も風神さんみたいになってしまうんじゃないだろうか。
 いや…。
冷静に考えれば、ランスは行くのではない。
戻るのだ。
だとすれば。
向こうに、すでに風神さんの様になってしまった人がいる可能性だってあるのだ。
あれだけの男前なのだから、恋人やそうでなくても片思いしてきていた相手がいる可能性だってある。
「ヨシキくん。」
 ぎゅっと、手を握られた。
「焦らなくて良いよ。」
 優しく、そういってくれた。
「はい…。」
 そうだ、そんなに急に必要な答えじゃない。
ならゆっくりでいい。
「風神さん。」
「ん?」
「ありがとう。」
「ああ。」
 何に対してのお礼かはわからない。
考える機会をくれたことか、落ち着かせてくれたことか。
ともあれ。
しばらくは大丈夫な、気がした。




 声のした方向を向いて見れば。
「風花。」
 浴衣を着た、女性の姿。
しなやかな身体のラインが服の上からでも見てとれる。
「ヨシキは見つかってないの?」
 言いながら彼女は歩み寄ってくる。
ああ、と答えながら俺は頷いた。
口の端を小さく持ち上げて彼女は笑う。
余り気づかれていないようだが、彼女はよくこうやって笑う。
小さく、隠すように。
まるで笑う事が罪悪だとでもいうように。
「まったく、あの場で本気だったのは大神君くらいだってのに…。」
 あの場、というのはヨシキが逃げ出した原因の。
皆で奪いあったヨシキの隣。
風神さんと風花が何故張り合ってくるのかが俺にはどうにも読めなかったのだが。
どうやらただのノリ、雰囲気を楽しむために調子を合わせていただけらしい。
「珍しいな、そんな冗談。」
 俺の言葉に彼女は再び笑う。
本当に、今日は上機嫌のようだ。
「せっかくの旅行なんだから楽しまないとね?」
 そう言って上目遣いにこちらを見上げてくる。
それは、本当にいつもの彼女とは違って。
年相応の可愛らしさが見て取れた。
まったく、いつもこういう顔をしていればいいだろうに。
もちろん口が裂けてもそんなことは言えないが。
いくら今機嫌がいいと言っても、後で思いだして怒らないとも限らないのだ。
「少し歩こうか。」
 言いながら風花は俺の手を取り歩き出す。
決して強く引かれたわけではないから、拒否できないわけじゃないだろう。
だがたまには風花と二人で話すのもいいか、と思っていた。
あの家にいると、いつも誰かがそばに居る。
ヨシキに限らず、大神や風神さんがいることも珍しくない。
だから、風花とゆっくり二人きりで話す、というのは初めてかもしれなかった。
「どうなの。」
 歩きながら、風花が口を開いた。
「帰る方法、見つかりそうなの。」
 …覚えてたのか。
実際の所、あまり真剣に探していないのは事実ではあるけれど。
それでも忘れていたわけではない。
だから。
「…見つかりそうなんだ。」
 正直に、そう答えた。
「へぇ。」
 全く意外でもなさそうに彼女は答えた。
それはつまり、続きを促しているのだろう。
「今日の昼間、獣人に会ったんだ。」
 流石に意外そうな顔をした。
が、それでも余計な口は挟まない。
「誰かとはぐれた、と言っていた。
つまり移動中だったんだろう。
意図的か、あるいは偶然か。
この世界に紛れ込んだんじゃないかと思ってる。
…今なら、調べに行けば何か方法がわかるんじゃないかとも。」
 そこで言葉を切る。
風花の返答を待つが、何も答えない。
何か考えているのか、それとも俺の続きを待っているのか。
「…帰る気は、あるの?」
 やがて、彼女は口を開いた。
こちらを振り返らないままに。
「正直、あまりない。
だからさっきの話もヨシキには伝えてないんだ。」
 しばらくの沈黙。
なんだか、責められているように感じるのは俺が罪悪感を持っているからだろう。
「…向こうに未練はないの?」
 少し寂しげな声。
こちらの人間である彼女が寂しく感じることはないはずだ。
あるとすれば、残された人間としての感傷。
突然居なくなった俺は、向こうからして見れば死んだも同然。
帰ってこないというなら尚更だ。
風花は、やはり母のことを思っているのだろう。
「…ないな。
向こうでも、出世がどうの権力がどうのとドロドロとした世界でな。
正直そんな話に興味はなかった。
家族も、恋人も居なかったしな。」
 何処の世界でも上層部の考えることはそう変わらない。
俺がそれを知ったのはこっちにきて、すぐの頃だ。
文化を知る内に、すぐに理解した。
結局どこも同じなのだと。
獣人も人間も変わらないのだと。
ならばどこにいてもいいのではないか、と思ったのだ。
それならば、愛してくれる者が傍にいるほうがいい。
ドロドロとした、自分を利用しようとする人間よりも。
「それでも、それでもさ。」
 風花の声に熱がこもる。
「せめて、一度くらいはチャンスがあってもいいんじゃない。」
 それはきっと彼女の願望なのだろう。
もう一度母親に会いたかったと。
最期の時に別れを告げたかったのだと。
「…そうかも、しれないな。」
 だが俺は誰にチャンスを与えればいいのだろう。
俺を利用しようとする上司?
命を狙うライバル?
仕事が忙しすぎて十数年会っていない友人?
誰が。
今更、誰が俺を求めてくれるのか。
「貴方が何を選ぶのかは、間違いなく貴方の自由。
だけど、その選択の影に誰かがいるのは判っていて。
向こうの人か、ヨシキや私達か。
それはわからないけれど。」
 そう言って彼女は今度こそ口をつぐんだ。
俺もなんと声をかけていいか判らない。
だからしばらく、俺たちは無言で歩いていた。
月だけが、煌々と輝いていた。
「風花は。」
 思い切って口を開く。
「風花は、寂しいのか。」
「まさか。」
 俺の言葉に彼女は即答する。
「こんなに騒がしい毎日、寂しいはずがないよ。
…ただそれでも、考えない日はない。」
 それを寂しいと言うのではないだろうか。
未だに囚われている彼女は。
本当は、とても寂しいのではないだろうか。
「…ヨシキを探してくるよ。」
 その言葉に彼女は微笑んだ。
いつもの様に、隠すように。
その笑顔を、取り戻してやりたいと。
その時、初めて思った。




「ランス!」
「ヨシキ!」
 俺たちが叫んだのはほとんど同時だった。
廊下の端と端で互いの姿を見つけて、二人で駆け寄る。
誰の目もないことをいいことに。
俺たちは廊下の真ん中で抱き合った。
俺の頭がランスの胸にうずまる。
柔らかい獣毛が頬や鼻をくすぐる。
とても心地いい。
なんだかずいぶん久しぶりな気がした。
「まったく、あんな冗談間に受けて飛び出すなんて。」
 …冗談だったの?
うーん、あんまり間に受けちゃダメだったのかなあ。
「まあ、そういうところがヨシキのいいところか。」
 言いながらランスは俺の頭をぐりぐりとなでまわす。
少々力が強すぎるので、俺の頭はあらゆる方向にぐいぐいと振り回されるけど。
それはそれで心地よい。
「ヨシキ。」
 手を止めて、ランスが言う。
「少し、歩かないか?」
 もちろん俺が断るはずもない。
ランスに手を引かれるまま、中庭へと下りる。
サンダルを引っ掛けて、月明かりの下へ。
「満月、キレイだねえ。」
「ああ。」
 二人で手をつなぎ、夜空を見上げる。
明るすぎる月は、逆に星が見えにくいけれど。
「ヨシキ。」
 ランスが月を見たまま口を開く。
「俺たち、会ってからどれくらい経つんだっけ。」
「え、えーと…。」
 言われて口ごもる。
なんだかずっと昔から一緒に居るようで正確なところが思い出せない。
「あ、いや。
いいんだ、正確な日数が気になったわけじゃない。」
 ランスが慌ててそう言ってくれる。
助かった。
正直記憶力は余り良くないほうだから。
「ただ、なんだかヨシキと一緒に居るのがとても当たり前になっているな、と思ったんだ。」
「そうだね、俺もランスがいるのが当たり前だよ。」
 それは、改めて口にすればとても幸せなことだと思えた。
ランスがいてくれる、好きな人がずっと傍にいてくれる。
これ以上のことは何もないのではないだろうか。
「だからさ。」
 ランスが言い難そうに口ごもる。
珍しい反応だ。
「帰ろうと、思うんだ。」
 …え?
「…なんて?」
「元の世界に、帰ろうと思う。」
 視線を合わせずに。
ランスはそう言った。
ああ、まだ先だと思っていたのに。
考えなくていいと思ったのに。
それはこんなにも身近で。
こんなにも目の前にあったのか。
なら、俺にできることは。
「…そうか。
気を、つけて。」
 悔いが残らない様に。
後悔しない様に。
笑って、送り出すことだけだ。
「ヨシキ…。」
 申し訳なさそうな声。
「いつ、行くの?」
「…早い方がいい。
可能であれば、今からでも。」
 そんなに、早く?
別れを惜しむ暇も、もう一度体を重ねる暇もないなんて。
ダメだ。
顔にでる。
涙が流れる。
慌てて後を向く。
「なら、急いだ方が良いよ。
チャンス、逃せないんでしょう?」
「ヨシキ。」
 言いながら、ランスが俺の肩を抱き。
振り向かせながら、強引に俺に口付けた。
「ごめんな、行ってくる。」
 ランスは優しく微笑んで。
そのまま、着の身着のままで走り去ってしまった。
後には、その場に座りこんだ俺がただ一人。
何時までも。
何時までも、座りこんでいた。




 いつまでそうしていたのだろうか。
とても寒くて意識も飛んだのかもしれない。
いや、そもそも意識なんて最初からあったのだろうか。
いたはずのランスはもうどこにもいなくて。
どうやって帰ったのかなんて、どうでもよかった。
ただ、もういないのだと。
もう会えないのだと。
その事実だけが、脳内にあった。
最後に触れ合った唇だけがほんのりと温かくて。
それだけが、現実だと教えてくれるようだった。
抱き合ったはずなのに。
話していたはずなのに。
手を繋いで歩いたはずなのに。
もう、何も残っていない。
 夢のような日々だった。
毎日が。
一分一秒が。
宝物のような日々。
なのに俺はいつの間にかそれを漫然と過ごしていて。
どうしてもっと大切にしなかったのか。
限られた時間であることは最初から判っていたはずなのに。
いずれ帰るってことは知っていたのに。
ランスが優しいから。
ひょっとしたら帰らないんじゃないかって、思ってた。
どこかでいつまでも一緒にいれるんだと期待していた。
そんなはずなかったのに。
俺が何処へ行っても、何処まで行っても日本人なのと同じ様に。
ランスは何処へ来ても、何処から来ても。
この国の人間ではない。
この世界にいる人間ではないのだ。
「ランス…。」
 小さな声が零れた。
まるで誰か、別の人間の声が聞こえたようだ。
「ランス…!」
 押さえ込まれた、だけど迸るような声。
ダメだ。
他に客はいなくても、従業員はいるのだ。
「ランス!」
 だが俺の声はもはや俺の意思で出ているのではない。
何かに引き出される様に。
あるいは、何かに押し出される様に。
叫びとなって溢れていた。
溢れて。
溢れて。
でなければ、壊れそうだった。
「ヨシキ!」
 聞こえた声に顔をあげる。
かけよってくるのは、ちいさな人影。
ランスじゃない。
ランスじゃないんだ。
いつの間にか顔中をべたべたにしていた涙を拭いながら。
俺は、風花が差し伸べてくれた手に縋り付いた。




 一晩。
涙が止まるのにかかったのは、一晩だった。
だがそれは涙が止まっただけで。
俺が立ち直る時間じゃない。
だが決まっているのだ。
この宿に居ることができるのは、僅か二日。
一泊二日の旅行だったのだから当然だ。
だからどんなに俺が立てなくても。
やはり宿はでなくてはならないのだ。
「ヨシキ、手伝えよー。」
 大神君が荷物を抱えながら車に詰めていく。
もちろん俺も手伝っているけれど。
さっきから躓いたり落としたり、なんだかむしろ邪魔してるような有様で。
大神君がそう言いたくなるのも良く判る。
 風花が無言で大神君の頭を殴る。
といってもいつもみたいに強烈な奴じゃない。
平手で、ぺしりといった程度。
だからだろう、大神君も不思議そうな顔をしている。
というかランスが居ないことには気づいて居ないのだろうか。
風神さんはいつもどおり。
熊の顔をして、黙々と出発準備をしている。
まるで昨日とは別人のような顔をして…。
いや、別人なのか。
素顔の風神さんと、今の風神さんは別人。
「まったく、ランスも手伝えよなあ。」
 大神君が不満そうに呟いた。
思わず俺の手が止まる。
今度は、風花の攻撃もより強かった。
音を立てて大神君がその場に倒れる。
「なんだよ、ランスばっかひいきかよ!」
「馬鹿!」
 風花が叫ぶ。
気を使ってくれているのが判る。
判るから、辛い。
 風花が大神君の耳をちぎるような勢いで引っ張る。
そのままごそごそと何かを呟いた。
もっとも聞かなくてもその内容は判る。
「へ?」
 大神君が不思議そうな顔をした。
そりゃそうだろう。
そもそも帰る方法が…。
「でも俺、さっき見たぜ?」
「え?」
 不思議そうな顔をするのは、今度は俺の番。
確かに、昨日いなくなったはずだ。
確かに、昨日帰ったはずだ。
俺はそれを知っている。
なのに。
「いつ!?」
 俺は思わず、大神君に詰め寄っていた。
「え、だからさっき…、中庭のほう…。」
 中庭…。
まさか、まさか!
俺は大神君も抱えていた荷物も放り投げて。
一目散に中庭に向かう。
ひょっとして、上手く帰れなくて、とか。
結局間に合わなくて、でも道に迷って、とか。
中庭に飛び出した。
「ランス!」
 だが、そこには人影はない。
「ランス!?」
 辺りの植え込みを、岩陰を、曲がり角の向こうを。
どんなに探しても、やはり見慣れた縞模様も太い尻尾も見つかるはずもなく。
「ヨシキ!」
 風花が、慌てた顔で走ってきたのも。
結局、俺を心配してのことなのだろう。
「そっちじゃない、玄関!」
 え?
そっちじゃないってことは…。
再び、走る。
玄関の前。
車を止めたところに。
「ランス!」
 大きな背中があった。
黄色の毛皮。
黒い縞。
丸い耳。
太い尻尾。
大きな手。
優しい瞳。
「ヨシキ!」
 飛びついた俺を、慌てて抱き止める。
「ランス、ランス!」
 名前を呼びながら必死でその体にしがみつく。
いてくれたんだ。
俺の傍に、いてくれたんだ。
もう離さない。
離したくない。
やっぱり、ずっと一緒にいたいから。
「どうしたんだ、ヨシキ。
そんなに慌てて。」
 ランスが嬉しそうな、困ったような顔をしてみせる。
そんなにって。
そりゃいなくなったと思ってたんだもの。
「いや、でもすぐ戻るつもりだったし…。」
「え?」
 すぐ…戻る?
戻るって、ここに?
「…言わなかったっけ。
いったん戻るって。」
 ランスの顔に、珍しく焦りが見える。
だがそんなことは正直どうでもいい。
今の俺は、それ以上に動転しているだろうから。
「言ってない、言ってないよ!」
「あー…。
いや、せめて向こうの人に別れの挨拶とか、必要な荷物だけ取りに戻ろうと…な?」
 ランスの視線が泳ぐ。
ランスはあの時言ったはずだ。
元の世界に帰る、と。
それはつまり。
俺たちが学校で「ちょっと一旦うちかえるわー」くらいのニュアンスだったって、こと?
なに、それ。
あんなに泣いたのに。
あんなに落ち込んだのに。
あんなに我慢したのに。
「ううう…。」
「わ、悪い…。」
 俺の唸りにランスが気まずそうに呟く。
「許さない!
許さないけど、大好き!」
 ランスの首に腕を巻きつけて。
俺は思い切りキスをした。




「…ランス。」
 風花が呆れたような声で呟く。
「荷物って、ひょっとしてコレ?」
 風花は眉間に皺を寄せて、ランスの後を指差している。
そこは丁度俺や風神さんからは死角になっている場所で。
「ちょっと、余計なもんが混ざったんだが…だめか?。」
 余計なもの?
俺は不思議そうに首を巡らせ、ランスの後を覗きこみ。
「…。」
 ビシっと敬礼した姿勢のままで固まる。
鎧を着た、獅子獣人の姿を見たのだった。