ボルシチとお花見



 煌々と輝く満月の下。
はらはらと、無数の桜の花弁が舞う。
大きな桜の木のそばに立つは、二人の男。
一人は、狼の獣性を持つ神殿騎士、ボルシチ。
彼は大きく伸びをしながら桜を見上げ、とても気持ち良さそうに笑っていた。
「ボルシチさん。」
 いつもどおりの優しげな声が後ろからかけられた。
ただ気になったのは、その声に少しだけ潜む不安げな音。
いつもの穏やかな声と、何かが違う。
ボルシチはそれを感じて、不思議そうに振り返る。
 そこに居るのは、虎の獣性をもつ魔術師。
ボルシチの所属するギルドにおいて、隊長の副官を勤める男。
寅兵衛である。
彼は満開に咲いた桜を見上げることもせず。
ただ真っ直ぐに、ボルシチを見つめていた。
その瞳は、声と同様に――それ以上に、動揺していて。
それが何故か判らなくて、ボルシチは首を傾げたまま小さく微笑んでみせた。
「私に――」
 びゅう、と一陣の風が通り抜ける。
地面から巻き上げられて、あるいは枝から離れて。
二人の間を、周りを。
取り囲む様に、まるで空に花が咲くかのように。
その空間は、桜に満ちた。
 風に遮られたように、寅兵衛は言葉に詰まる。
それでもボルシチは何も言わない、動かない。
寅兵衛が、言ってくれるのを待っているのだ。
彼が尊敬する、敬愛する副官は、ボルシチが知る限り何時だってそうやってきたから。
何があっても、きちんと一人で乗り越えてきたから。
 そっと、寅兵衛が目を伏せる。
ボルシチから、目を逸らすように。
「私に、グリモアを見せて頂けませんか?」
 風にかき消されそうな小さな声で。
寅兵衛は、そう呟いたのだった。




「くそ、解けん…!」
 部屋の中で見たのは、なんともシュールな光景だった。
そこは、彼の上官の執務室だった。
そして相棒の部屋でもある。
仕事も終わり相棒の部屋を訪れて見れば、そのような光景である。
思わず視線を逸らしたくなっても、誰も文句は言えまい。
「何を、しているんです…。」
 彼は思わず呟いた。
できれば関わりたくないな、と思いながら。
「と、寅ぁ!
見るなぁ、見んといて〜!」
 顔を真っ赤にして叫びながら、バタバタと暴れる男。
未だになんの獣性をもつか判らない。
自分たちの部下の言葉を借りるなら「究極の雑種」。
この国を代表するギルド「臥薪嘗胆」の隊長、奏焔である。
所属する人数はもはや千人を越え、その規模は比肩するもののない程になっていた。
 その隊長が、である。
何故、部屋の中で一人で亀甲縛りされているのだろうか。
どんな娼館だ。
「できれば私も見たくありませんがねぇ。」
 思わず頭を抱える。
とはいえ、放置しているわけにもいかないだろう。
明日の朝にはまた山のような仕事が待っている。
彼の縄を解かねば、その仕事の全てが滞るのだ。
 それに、今彼が着ているのはゆったりとしたローブだけ。
下手をすれば、簡単に肌が見えてしまう。
奏焔は自分の肌を露出することを極端に嫌がる。
ならば自分が解かねば誰が解くと言うのだ。
閉めた扉から奏焔に向かって歩み寄り。
「…おかしな魔法がかかってますね。
これは…」
 言いかけたところで、どんどんと乱暴にドアがノックされた。
「隊長、いるんだろ?」
 聞こえてきたのは若い男の声。
思わず扉を振り返る寅兵衛。
だが、開けなくても判る。
この声は、彼らの部下。
竜騎士、ボルシチ。
 一瞬迷うがすぐに思いだした。
彼は二人目の例外。
この部隊において、奏焔が肌を見せられるもう一人の存在だ。
「どうぞ。」
 寅兵衛は言いながら扉を開く。
「あれ、寅兵衛侍祭。
こんばんは。」
 部屋に入ってから、ぺこりと頭を下げる。
随分と礼儀正しくなったものだ。
入団したてのころは、礼は愚かノックすらできなかったと言うのに。
「ほら、隊長。
解いてやるからさ。」
 感心している間に、興味の対象は既に奏焔に移っていたらしい。
いいながらボルシチは奏焔へと歩みよっている。
「いや、ええ。
自分でなんとか…」
「その縄。」
 否定しようとする奏焔に、寅兵衛が割り込む。
奏焔もボルシチも不思議そうにこちらを振り向いた。
ゆっくりと歩み寄りながら、話を続ける。
執務室の中でありながら、プライベートエリアになっている衝立の裏はとても汚くて。
まともに歩くのも一苦労だった。
「その縄、何か魔法がかけられていますね。
恐らく胡燕さん辺りの仕業なんでしょうけど?」
 寅兵衛の言葉に、二人が大きく頷いた。
胡燕というのはこの部隊にいる術士の一人である。
寅兵衛同様に回復魔法を得意とする術士…のはずだ。
正直、彼の口からマトモな会話がでてくることの方が稀なのだ。
「普通には、解けなくなっていますね。
まあそうでもしなければ、隊長ならなんとかしてしまうと思ったのでしょうが。」
 その言葉を聞いて、奏焔の顔が不安そうに曇る。
「せ、せやけど…寅兵衛侍祭のカウンタースペルやったら…。」
 縋るような目をする奏焔。
彼が言うカウンタースペルとは。
寅兵衛のような術士が扱う、アンチマジックの一種。
特に寅兵衛が扱うものは効果が高く、以前はあの「魔女」の魔法すら無効化してみせた。
「残念ですが、物体に既にかけてしまっている魔法に対してはちょっと…。」
 言いながら残念そうに首を振って見せる寅兵衛。
大嘘だ。
寅兵衛のカウンタースペルであれば、それくらいは造作もない。
だが、今はそれをいう必要はない――言うべきではない。
「私よりむしろ…ボルシチさんが、なんとかしてくれるのでは?」
 横目でちらり、と青毛の青年を見る。
名前を呼ばれると思っていなかったのだろう。
きょとんとした顔でこちらを見ている。
「俺?」
 自分を指差し、首を捻ってみせる。
ボルシチは神殿騎士。
簡単な補助魔法は使えても、他人の魔法を無効化するなどできない。
もちろん常識で考えれば、だ。
 魔道大典グリモア。
ボルシチがもつその本は、恐らく異界の魔術・技術が膨大に収録されているのだろう。
寅兵衛を助けに駆けつけた時に。
そして先述した魔女の、魔法を防いだ時。
彼は魔法を使って空間を越え、そして自らが持つ防御の魔法を拡大してみせた。
どちらも見た事も、聞いたこともないものである。
 寅兵衛はそれが見たい、知りたいと。
ずっとそう思ってきた。
だがそれを悟られてはいけない、とも思っている。
一つの理由は、彼の警戒心の高さに過ぎない。
自分の感情や願望を知られることは、つけ入られる隙を作る事となる。
 そしてもう一つ。
ボルシチのグリモアが特別であるコトを知られてはいけない。
グリモアを知らない人たちにはもちろん、隊長である奏焔や、ボルシチ本人にすら知られてはいけない。
悪用する人間の存在を恐れるているというだけではない。
強すぎる力はヒトを歪ませ、そして争いの火種を起こす。
ボルシチですら、それは例外ではないだろう。
 だが、自分は力が必要で。
そしてそれを悟られたくない。
ならば盗み見るしかないのだ。
彼が使うところを、見るしかないのだ。
 ボルシチが持つグリモアの存在に気づいて数ヶ月。
生活において、魔法が必要な場面などそう多くはなかった。
だから、今までは大人しく様子を伺っていた。
だが今のこの状況は、恐らくチャンス。
それとなく、魔法が必要な場面へと誘導し。
「うーん。」
 ボルシチが唸る。
その声で、寅兵衛の思考が途切れた。
「でも俺、魔法とかあんまり使えないしなあ。」
 その言葉に寅兵衛は思わず耳を疑う。
あれだけの大魔法を使って見せておいて、使えないなどと。
「な、何を言うとるんゃ!
お前、なんか…そう、グリモア持っとるやろ!
あれをつこたら…。」
 慌てた奏焔が叫ぶ。
そんな大きな声で、アレの名前を呼ぶなど…。
寅兵衛は一瞬だけ顔をしかめた。
幸い、この部屋から声は外には漏れないようになっている。
今ので誰かが気づいたということはないだろうが。
「えー?
それよりナイフで切る方が早いんじゃない?」
 ボルシチは、言いながら手近な机から果物ナイフを拾い上げる。
「ちょ、お前、絶対ワシの服…どころか皮膚も切るゃろ!」
「大丈夫大丈夫、なんとかなるって。」
 ナイフを片手ににじり寄るボルシチ。
そしてそれを見ながら後ずさりしていく、亀甲縛りされた奏焔。
どうみてもレイプ魔とその被害者である。
「無駄ですよ、そういうことができないように強化されてるんですから。」
 とりあえずボルシチを押さえてやる。
少し不満そうな顔をしながら、ボルシチはナイフを収める。
…楽しんでいたのだろうか。
「そ、そしたらワシのこの縄は…。」
「…本になったら魔法も切れるんじゃないですか?」
「うえぇ…。」
 嫌そうな顔で奏焔が呻いた。
だが、一度できないと言った以上今更自分が解除してやるのもおかしな話だ。
申し訳ないが、彼にはこの話が本になるまでこのままで居てもらおう。
いたずらでかけた魔法なら、そう長くも持つまい。
「それでは、今晩はごゆっくりどうぞ。」
 寅兵衛はボルシチの肩を抱き、奏焔に背を向ける。
さすがにあの状態の奏焔を放置するのはすこし可愛そうだが。
なによりも、ボルシチを放置しておきたくない。
 普段なら、彼はその存在を意識していないのだろう。
だが、先ほど奏焔がグリモアの名を出してしまった。
今の彼なら、口を滑らせても不思議ではない。
それは、防がねばならない。
それゆえに、せめて部屋に戻るまでは監視しておく必要がある。
本になるまで待てば、彼のことだ、すっかり忘れてしまうだろうから。
 
 
 
 →続きは本誌にて!