ボルシチともう一人のボルシチ
必要があった。
どうしても、彼にきかないと場所が判らない書類があった。
だからノックして、扉を開けたのだ。
いつもそうしていた。
部下のボルシチはノックしても返事をしない事が多いし、返事があってもいつもどうぞ、と言っていた。
だから今日も、ノックをした後に開いたのだ。
どうせいつもの様に寝ているだろうと思って。
「うう…ん。」
間違ってはいなかった。
確かにベッドの中で眠っていた。
だが、予想していた人物ではない。
金の頭髪に金の髭、全身に生えている体毛も金色で。
豪快にいびきを掻いて寝ているのは、どうみても普通の人間で。
彼がよく知る部下の狼ではなかった。
「ボル…シチさん…?」
呆然と呟く虎の顔をしたタルン、寅兵衛。
自分でも自信はあった。
大抵の状況に、冷静に対応できる自信は。
だがこればっかりは予想外だった。
まさか部下のベッドで、裸の男が寝ているなんて。
これはつまり。
…情事の後、ということだろうか?
部屋を出るべきなのだろう。
なんにせよ、彼の全裸をいつまでも見ているべきではない。
そう思いながら思わずボルシチを思い出したのは、サイズの問題だろうか。
「ん…?」
固まっている間に、男は目を覚ましたようだ。
ゆっくりと身体を起こし、頭を掻く。
寝ぼけたまま寅兵衛をじっと見つめて。
「どちら様で…?」
寝ぼけた口調でそう呟いた。
むしろ聞きたいのはこちらの方である。
「…ボルシチさんはどちらに?」
そう尋ねる。
覗きこんで見ても、ベッドの中にボルシチの姿は見当たらない。
「えーと…俺がボルシチだけど。」
違う。
寅兵衛が知っているボルシチは、青い毛をした狼顔のタルン。
彼は金色の毛をした人間である。
「…私が探しているのは貴方ではないのですが。」
寅兵衛の言葉に彼は首を捻る。
そして大きくあくびをして。
ようやく自分が裸であることに気づいたらしい。
「あ、これは失礼…。」
そう言いながら手近なもので股間を隠そうとして。
「あれ、ここどこだ…?」
とりあえずベッドシーツを腰に巻きつけながら、彼は呟いた。
「本当に、どちら様ですか?」
寅兵衛は尋ねる。
ようやく自分の頭が回ってきた気がした。
「ボルシチ、と申します。
すみません、ここは一体…?」
どうやら本当にボルシチという名であるらしい。
もっとも彼も自分がおかれている現状を理解できていない様で。
寅兵衛とボルシチは視線を合わせたまま、しばらく困った顔をするのだった。
ひとまず、服を着てもらった。
ボルシチの物では若干サイズが合わなかったので、寅兵衛の物を貸した。
ズボンとシャツだけであるが、とりあえずは落ち着いたようだ。
「ええと、ボルシチさんとお呼びすれば?」
はい、と目の前の青年は答える。
なんとなく慣れない。
寅兵衛にとってボルシチは彼ではない。
「そういえば、同名の方をお探しでしたか。」
寅兵衛の表情から、違和感を感じていることを読み取ったのだろう。
そういう細かいところに気を聞かせてくれるはありがたい。
「まあ、今は当の本人がいませんから…。
しかしどこに行ったんでしょうねェ。」
そもそも彼がいればここまでややこしいことにならなかった…だろうか?
いればいたでややこしい話であったように思う。
「とりあえず、お茶でも入れましょうか。」
そう言って立ち上がる。
が、ボルシチの部屋にはお茶をいれる道具など見当たらない。
そういえばどこにもなかったな、と思いつつ寅兵衛はいつもの背嚢からティーセットを取り出してくる。
「え、そこから…?」
人間のボルシチは不思議そうな顔をした。
今更気にする人も少なかったので、改めてツッコミをいれられると新鮮な気がした。
そう思いながらも、適当に笑顔で流してお茶をカップへと注ぐ。
アールグレイの強い匂いが部屋に広がる。
「ありがとうございます。」
そう言って差し出されたカップを受け取るボルシチ。
なんとなく、感動してしまった。
「…どうかされました?」
「いえ、常識的な受け答えがずいぶん久しぶりな気がして…。」
そう言いながら、そっと涙を拭う寅兵衛。
「苦労されてるんですね…。」
同情の言葉が胸に染み入る。
もっともそんなことで感動している場合ではない。
とりあえず、ここからどうするかだ。
「先に、そちらのボルシチさんを探しますか?」
その言葉に少し迷う。
ひょっとしたら事情を知っているかもしれない。
だが彼の素性を明らかにしておく方が先決ではないだろうか。
万が一にもスパイの可能性もありえるのだ。
「…先に、貴方のことを伺ってもよろしいですか?」
寅兵衛の言葉にボルシチは頷いた。
「ボルシチ・ビーツと申します。
ウィンダス出身の冒険者をしています。」
聞き慣れない地名だ。
というか、ファミリーネームまで同じなのか。
「すみません、恥ずかしながら存じ上げないのですが…。
その、ウィンダスというのは?」
寅兵衛が地図を取り出しながら確認する。
彼の知る限りそのような地名はない。
よっぽど田舎なのだろうか?
「ええと、ミンダルシア大陸の南部に…。」
言いながら彼も地図を覗き込む。
ミンダルシア?
そのような大陸は存在しない。
「なんだこの地図…?」
ボルシチは不思議そうに呟いた。
彼が知る世界は、こうではないらしい。
「…本当に、どこから来られたんです?」
「どこでしょう。」
寅兵衛の問いに、ボルシチも困った様に答えた。
金の髭を撫でる様にして、何かを考えている。
「…ひとまず、こちらのボルシチさんを探してみましょうか。
このまま話していても埒が開かない気がします。」
そう言って立ち上がる寅兵衛。
「…そうですね。
私は、寅兵衛さんと一緒に行動していれば大丈夫ですか?」
自分が疑われている可能性も含めての発言だろう。
本当に、常識のある人間とは会話が進めやすい。
「ええ、一緒にいてくれると助かります。」
もっとも彼は特にこちらに害意はないようだ。
そこまで警戒することもないだろう。
ひとまず探すことに集中するべきか。
しかし本当にどこにいったのだろうか。
まったく、いて欲しいときにはいないのだから。
まずは、もっとも可能性の高そうなところから。
彼がいそうな場所と言えば自分の場所か、隊長の場所だろう。
仕事であってもプライベートであっても。
何かと自分達の周りにいることが多いからだ。
「隊長、失礼します。」
扉をノックする。
中から返事が聞こえるのを待ち、扉を開いた。
「どうした、寅兵衛侍祭…。
そちらの方は?」
視線が後ろにいるボルシチに向けられる。
さて、どう説明したらいいものか。
ひとまず面倒な説明は避けたい。
「…ボルシチさんです。
ボルシチさんのご友人だと思うのですが。」
奏焔の顔が一気に曇る。
それはそうだろう。
言っているこちらとしても何を言っているのかわからないのだから。
「始めまして、ボルシチと申します。
同じ名前の縁もあり、こちらのボルシチさんと仲良くなったのですが…。
なぜか今朝から彼の姿が見当たらなくて、寅兵衛さんに案内して頂いております。」
そう言ってボルシチは膝を付き、深々と頭を下げる。
慌てて奏焔も立ち上がりきちんと敬礼をする。
「ああ、すみません。
うちの若いのがお世話になっているようで…。」
奏焔はこういった改まった姿勢は苦手なのである。
いきなりそういった様子を見せられては慌てるのもしょうがないだろう。
しかし、適当に言ったでまかせにすんなりと合わせてくれるあたり、こちらのボルシチは機転も利くようだ。
「…私としてはこちらのほうが。」
「何か?」
「いえ、別に。」
思わず心の声が漏れていた。
聞き咎めたボルシチのツッコミを、笑顔で受け流す。
「そういうわけでボルシチさんを探しているんですが…。
隊長、心当たりはありませんか?」
その言葉に奏焔は首を振る。
「いや、ワシんところにはまだ来とらんのぉ。
クリスのところやないか?」
二人が話している間に、ボルシチも立ち上がる。
「そうですね、行ってみましょうか。」
「どれ、ワシも…。」
立ち上がったボルシチに、視線を向けて。
奏焔は言葉を飲み込んだ。
一瞬の間に、視線を走らせて。
「いや、仕事があるんじゃった。」
逃げるように机の向こうへと走りこむ。
状況がわからなくてボルシチは困った顔を寅兵衛に向ける。
さて何があったのか、とボルシチをみて。
股間が膨らんでいるのに気がついた。
別に大きくなっているのではなく。
単純にサイズの問題だろう。
それに気づいて、奏焔は逃げ出したのだ。
「コロネ。」
寅兵衛の言葉にびくっと奏焔が跳ね上がる。
「ななななな、なんの話じゃ?」
視線を合わせない様にしながら、怯えた様にいう。
「いえ、何でもありませんよ。
それではまた後程…。」
状況がわからないままのボルシチを連れて部屋を出る。
まったく、いつまで怯えているのか。
「あの、私は何かまずいことでも…?」
心配そうに後ろからボルシチが声をかけてくる。
流石に奏焔のコンプレックスまでは見抜けていないらしい。
まあこの場合、見抜かれた方が問題ではあるが。
「いえ、何でもありませんよ。
それよりも、こちらの話に合わせて頂いてありがとうございます。」
歩きながら礼を述べる。
いえ、とボルシチは首を振った。
如何にして自分が円滑に動くか、という術を身に付けているのだろう。
やり易くはあるが、油断もしていられない。
少しだけ、気を引き締めて廊下を歩く。
次は友人、クリスの部屋である。
「いえ、ボルは来てませんが…。」
不思議そうな顔でクリスは答えた。
突然の上官の訪室に、少し慌てた顔をしている。
後ろのボルシチを気にしていないのも、それどころではないからだろうか。
なんとなく不自然さを感じた。
「では心当たりはありませんか?」
正直な話、他に行き先が思いつかない。
まさか、朝から山にでも登っているのだろうか。
「うーん、ポトフさんの店かタイタニアさんのところか…。
あんまり行き先も思い付きません…。」
もともと気が付けば一人で突っ走っている彼のことである。
確かに行き先を把握するほうが難しいだろう。
「わかりました、ありがとうございます。」
そう言って頭を下げる。
「あ、あの。
少ししたら僕も探しに出ますんで…。」
慌てた様にクリスが言う。
だが寅兵衛は首を振った。
「いえ、結構ですよ。
中の方とゆっくりしてください。」
寅兵衛の言葉に、クリスは真っ赤になって俯いた。
誰が来ているのかはなんとなく想像がつく。
どこまで関係が進んでいるかは判らないけれど、反応を見る限りは思ったより進んでいそうだ。
「…こちらのボルシチさん、ずいぶん動き回るんですねえ。」
後ろでボルシチが呟いた。
確かに、落ち着きのある彼から見ればそう見えるかもしれない。
「ええ、振り回されっぱなしです。」
「…お察しします。」
そう言ってくれる存在のどれだけありがたいことか。
本当に、取り替えられればいいのに。
「で、どこに行きます?」
言われて気が付いた。
そうだ、考えに浸っている暇はない。
「…いえ、止めておきましょう?」
「え?」
予想外の言葉にボルシチは思わず聞きかえした。
ここにきて捜索を止める理由はないはずなのに。
「…探すのは、本になってからでも遅くはありませんよ。」
「はあ…。」
思わず気のない返事を返して。
ボルシチは、本になるのを待つことにした。
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