ボルシチと温泉宿




 それが、一般に周知されたのは予定日の二週間前だった。
中庭にある掲示板に、一枚の紙が張り出されたのだ。
普段であればそこまで人だかりができる事もない。
基本的に急ぎの連絡が貼られることは少ないので、ヒトが多ければ時間を置いて見にくればいいからだ。
今回の事態は、その異例な内容にある。
「…なんだ、あれ。」
 人ごみを見てそう呟いたのは、テンプラーのタルン。
熊の獣性をもった彼はとても体が大きい。
人ごみを掻き分けることもなく、近づけばその内容を確認することができた。
「…。」
 思わずその内容に絶句する。
「あ、クロス先輩!」
 後ろから声がかけられる。
ふわふわした毛並に、犬の顔をしたタルン。
後輩の魔戦士、クリス。
最近はクロスになついていて、何かと行動が一緒になる。
クロスとしても悪い気はせず、よく可愛がっている。
「この人だかりどうしたんです?」
 うーん、とクロスは腕組みして悩む。
別に普通に話せばいいのだが、いまいち信じ難いのも事実である。
自分の目で見てもらうのが一番だろう。
クロスはクリスを子供の様に抱え上げる。
「わっ…。」
 思わず驚いて声をあげるが、すぐに意図を理解して声を止める。
じっとしていれば得に危なげもなく、人だかりの向こうが覗けた。
「え…。」
 そして彼も絶句する。
やはり信じられない内容であったようだ。
「どいた、どいた〜!」
 そう言いながら一人の男が走ってくる。
振り返れば、見覚えのある狼が、荷物を抱えて走っていた。
彼もまたクロスの後輩にあたる。
丁度いい、彼なら事情を知っているだろう。
「ボルシチ、ちょっと待て!」
 人だかりから離れ、クリスを抱えたまま彼の前に立ちはだかる。
走っていたボルシチは、ギリギリのところで足を止めた。
「っと…!
なんだ、クロス先輩。
どうかしました?」
 なんだ、はないだろう。
そう言いかけて慌てて口を閉じる。
今はそういったじゃれあいよりも、詳しい話が聞きたい。
それに何より、向こうはとても急がしそうであるし。
「あれ、どういうことだよ。」
 そう言いながら人だかりを指さす。
「…みんな、気になる情報があるんじゃ…?」
「そうじゃねえ。」
 もちろんクロスが言いたいのはその気になる情報。
掲示板に貼られていた張り紙の内容である。
「内容…。
慰安旅行のこと?」
 そう。
そこに張り出されていたのは、慰安旅行の案内であった。
普通の会社ならともかく、この傭兵団においてはクロスが知る限り初めてである。
人だかりを見る限り、それは周りの傭兵達も同じだったのだろう。
「今まであんなの、なかったろ!」
「だから、今年から始めたんじゃねーの?
俺はここ長くないし、企画段階では噛んでねえから詳しいことはしらねえよ。」
 確かにボルシチの言うことはもっともだ。
彼が入団したのはまだ半年にもならないし、こうやって事務処理の手伝いを始めたのはつい数日前である。
詳しく知らなくても不思議ではない。
「まあそうだが…隊長や副官はなんかいってなかったのか?」
 ボルシチはぶるぶると首を横に振る。
まあ疑問を抱いていない相手に説明をするほど二人は暇ではないだろう。
「じゃあ、俺急ぐから!」
 そう言ってボルシチは荷物を抱えたまま走りさる。
その背中をみながら、クロスはようやくクリスを抱えたままであることに気が付いた。
「あ、わりい。」
「いえ…。」
 照れながら視線を逸らすクリス。
そこでふと気が付いた。
「あれ、お前ボルシチと同時入団じゃなかったっけ。」
「ええ、そうですけど…。」
 不思議そうに見上げてくる。
今度はその表情に、思わずクロスが視線を逸らした。
「いや、ボルシチは短いからって言ってたけど。
お前も驚かなかったっけ。」
「…普通に考えて、面倒ごとを解決するような傭兵団に、慰安とかないと思ってましたけど。」
 確かに言われて見ればその通りである。
彼らがいなくなれば、困るヒトはいるはずなのだから。
「つまり…あのアホ、なんも考えてないってことか。」
 クロスの言葉に、クリスは深々と頷いた。




「副官殿〜!」
 両手に荷物を抱えたままボルシチは一つの部屋に飛び込んだ。
バタン、と大きな音を立てて扉が開く。
中で机に向かっていた虎顔のタルンが迷惑そうに顔を上げた。
「…ボルシチさん。
アレほど扉は静かにと。」
「あ、すいません!」
 そう言ってビシッと姿勢を正すボルシチ。
今彼の目の間にいる虎は、この傭兵団の副官を勤めるサマナー。
寅兵衛である。
「先ほど仰せつかった資料、全てピックアップして来ました!」
「…もうですか?」
「はい?」
 思わず呟いた寅兵衛の言葉に、ボルシチが不思議そうに返す。
いえ、と寅兵衛は小さく首を振った。
彼が頼んだ資料は、結構な量である。
実際今ボルシチが抱えている量をみれば推測が間違っていなかったことはわかる。
にもかかわらず、彼は予想の倍以上の早さで帰ってきたのである。
「ありがとうございます、とりあえずそちらの机に置いておいて…。
いえ、この書類の内容と関連のある部分を引いてもらっておいていいですか?」
 どうも彼は思ったより事務処理能力が高かったようである。
両腕の怪我により、しばらく事務仕事として自分付きにしたのだが、これは嬉しい誤算だった。
おかげで仕事もはかどり、例の慰安旅行計画も早いうちに発表が可能となったのだ。
「わかりましたっ!」
 そういうと若干ぎこちない手で、資料を片っ端から開いて行く。
彼の手は、骨折と火傷による傷が多く付いている。
骨折に関しては粗方治ったが、火傷の治りは芳しくない。
怪我の原因を考えれば自業自得ではあるのだが、心情的には理解できる部分もある。
だからこそ寅兵衛がつきっきりの治療をしているし、今回の慰安旅行も彼の怪我に対する治療的な意味合いを含んでいる。
つまり、湯治である。
今回の慰安旅行の行き先は温泉であり、触れ込みとしては骨折や火傷に聞く場所である。
一日二日でどれだけ効果があるかは判らないが、どうせ行き先も決まっていなかったしいいだろう。
慰安という意味では他の隊員にもちょうどいいはずだ。
 と、ノックの音が響いた。
「どうぞ。」
「失礼します。」
 そう言って扉から姿を表したのは、テンプラーのクロス。
ボルシチはちらりと視線を向けると、軽く会釈をして再び資料に目を向ける。
「えっと、あの張り紙は…。」
 珍しく言いにくそうな口調である。
まあ確かに慰安旅行の件となればそうなるだろう。
「うちも、福利厚生に少しは力をいれてみようかと思いましてね。
前々から案はあったのですが…、ああボルシチさん、これもお願いします。
ようやく実行に移せそうなんですよ。」
 手を止めずに説明する寅兵衛。
途中でボルシチに新しい指示を出しながら、どんどん手を進めて行く。
「一応自由参加ですし、反対であれば不参加でも構わないですよ。」
「いえ、そういうことじゃなくて…。
逆に、全員参加であった場合どうするんですか?」
「つまりここがもぬけの空にならないか、ということですか?」
 クロスが頷く。
「一応管理職クラスの方には何人か残ってもらう予定です。
また、先に話を通した彼らの部下も何人かは行かない方もいらっしゃいますし。
梅雨時にかかってきますから、モンスターの動きもあまり活発ではなくなっています。
それほど心配することはありませんよ。」
 他にもいくつか空けても大丈夫な理由はあるが、これだけ説明すれば大丈夫だろう。
正直、今の彼はその説明をする時間も惜しいのだ。
「はあ、わかりました…。」
 クロスもそういう雰囲気は察したのだろう。
内容もそうおかしな部分もないし、自分が心配するまでもない、と思えたのも理由の一つだ。
結果、彼は頭を下げて退室したのであった。
「…みんなお堅いですねえ。」
「えっ!?」
 ポツリと漏らした寅兵衛の呟きに、ボルシチは思わず手を止めたのだった。




「はーい、順番に並んでくださいよー。
もうすぐ地下鉄きますからねー。」
 慰安旅行当日、地下鉄の駅でボルシチが声を張り上げていた。
先輩にも遠慮なく指示を出している辺り、こういうのは適任なのかもしれない。
「ボルシチ、生き生きしてるなあ…。」
 クリスが呟く。
後ろでクロスも静かに頷いている。
「もういっそ、ずっとああいう仕事でいいんじゃないか。」
 その言葉に思わずクリスは笑った。
確かに事務仕事に移れば無茶もせず、怪我もしないかもしれない。
本人は不満だろうけれど。
「18、19、20…。
はい、じゃあこれ以降のヒトは後ろの車両に〜。」
 ボルシチが人数を数えながら歩く。
「まて。」
 彼が示したのは、丁度クリスとクロスの間。
つまり、クリスとクロスは別車両ということだ。
「なんだよ。」
 不満そうな顔をするボルシチ。
おそらく忙しいのだろう。
だがクロスとしてもここは譲れない。
「なんで、クリスと別車両なんだ。
一人くらいいいだろ。」
「だめー。
例外作ったら、俺も俺もってなるだろ。
今回は我慢してくれよ。」
 そう言ってボルシチは歩き出そうとする。
その肩を捕まえ、必死で止めるクロス。
「そこを何とか…。
俺とお前の仲だろうがあ!」
「そんな仲になった覚えはねえっ!」
 クロスの手を振り解き、走り出すボルシチ。
列の先頭にいる寅兵衛のところへと急ぐ。
後に残されるのは、絶望したクロス。
「あ、あの…クロス先輩…。」
 心配したクリスが思わず声をかける。
だがその声も届かないレベルで落ち込んでいるらしい。
その場にがっくりとうなだれたまま動きもしない。
そうこうしているうちに、地下鉄がホームへと滑り込んできた。
「はーい、じゃあ順番に乗り込んでくださいよー。
他のお客の迷惑にならないようにー!」
 ボルシチが声を張り上げている。
子供ではないのだから、言わなくてもわかりそうなものだ。
そう考えると、張り上げているあの声こそ他の迷惑ではないのだろうか。
そう考えながらクリスは地下鉄へと乗り込む。
適当に空いている席を探し座る。
相席になったのは、あまり会話したことのない先輩だった。
「お、クリス。」
 後ろから聞こえたのはボルシチの声。
振り返れば、後ろのボックス席にはボルシチたちが座っていた。
「あ、ボル…。」
 思わず言葉を飲み込む。
その席はボルシチと、副官の寅兵衛。
そして、なぜか不機嫌そうな隊長の奏焔が座っていた。
奏焔の出身について、クリスは詳しくない。
ただ知っているのはタルンということくらいだ。
もっとも、それすら何の獣性をもっているかはわからない。
もはや雑種としか言い様がないほどの混ざり具合だからだ。
「ボルシチさん、きちんと座っておいてくださいね。」
 後ろを向き、席の上から覗きこもうとするボルシチを寅兵衛がたしなめる。
はい、と返事をしてボルシチは座りなおした。
基本的にボルシチは空気を読めない。
もっとも意図的に読まない場合も多いが。
ただ、今回ばかりは彼でも判る。
この席は、今非常に居心地が悪い。
隊長はずっと不機嫌そうだし、副官はずっと本を読んでいる。
これでどうしろというのだ。
「なあアンタ…最近ずっと機嫌悪くないか?」
「何がじゃ!」
 ボルシチの言葉に奏焔が答える。
「なんか不満があるなら言えよ、子供じゃあるまいし。」
「おま…」
 ボルシチに言われるのはもっとも屈辱であろう。
彼ほど子供な人物は、この傭兵団でも見当たらない。
思わず叫びだしそうになるのを止めてくれたのは、寅兵衛だった。
「電車の中なんですから、静かにしておいてくださいよ。」
 本から視線を上げず、そう呟く。
何よりも破壊力のある一言は二人の言葉を止めさせた。
「…なあクリス、トランプでも…」
「ボルシチさん。」
 立ち上がって振り返ろうとするボルシチ。
それを、寅兵衛は本から視線を上げぬまま諌める。
しょうがなく座りなおすボルシチ。
しかし寅兵衛はずっと本を読んでいるから声をかけづらい。
となれば自然奏焔に声をかけることとなる。
「…えーと。
ほら、向こう付いたらマッサージでもしてやるからさ。
機嫌直してなんか遊ぼうぜ、な?」
「別に揉んでもらわんでもええわい。」
 そこで会話が止まる。
やはり気まずい。
ボルシチですら声をかけるのに困るのは相当なレベルだ。
「なあクリス、せめてしりとりでも…」
「ボルシチさん。」
 パタン、と本を閉じて寅兵衛が声をかける。
「そんなに暇なら、少しお相手してあげますよ。」
 そういって寅兵衛はいつも背負っている背嚢に手を入れる。
いつも背負っているというか、今日もあの袋一つだけである。
果たして荷物はあれだけで足りるのだろうか。
…どうみても、着替えすら入りそうにないのだが。
「崩し将棋でもしますか。」
 袋からでてきたのは、将棋板と駒。
「え。」
「おや、普通の将棋ができましたか?」
「いえ、そういうわけでは…。」
 確かに将棋のルールをボルシチは知らない。
崩し将棋のほうがありがたいのは事実であるが。
問題はそこではなく。
どこから将棋板がでてきたのか、である。
「さあ、隊長も一緒に。」
 寅兵衛に誘われては奏焔も断りようがない。
「こ、この揺れる車内でか…?」
 その言葉に寅兵衛がにやりと笑う。
「では賭けでもしますか。
負けたヒトは何でも言うことを聞く、というのはどうです?」
 ぞくり、と奏焔の背筋に悪寒が走る。
寅兵衛がこういうことを言い出すのは珍しい。
余興ということなのだろうが、正直寅兵衛に勝てる気はあまりしない。
「いいですよー、やりましょうやりましょう。」
 ボルシチが安請け合いをする。
おそらく何がどうなるかを全く想像していないのだろう。

――――結果。
「ぬう…。」
「なんでそんな…。」
 大方の予想通り、寅兵衛の圧勝となったのである。
別にボルシチや奏焔が特別不器用というわけではない。
ボルシチは手の怪我があってやや巧緻な動作は困難ではあるが、崩し将棋くらいは可能である。
ただ、寅兵衛が異常に強かっただけである。
なぜこんなにも揺れる地下鉄で、ほぼミスなく動作が可能なのか。
正直見ている二人にもそれは全く判らなかった。
「さて、私の勝ちですね。」
 そういって寅兵衛はにっこり笑う。
少しだけ座る位置をボルシチから離すと、ぽんぽんと膝を叩いて見せた。
「ボルシチさん、頭を。」
 ボルシチと奏焔が固まった。
「ま、まて寅兵衛侍祭!」
 先に叫んだのは奏焔。
寅兵衛が言っているのは、いわゆる膝枕である。
まさか自分の目の前で。
「じゃ、じゃあ失礼して…。」
 窮屈そうに体を折り曲げ、寅兵衛の膝に頭を乗せるボルシチ。
悔しそうな表情でそれをにらむ奏焔。
それを知ってか知らずか。
寅兵衛はにやりと笑いながら、一本の棒を取り出した。
「…寅兵衛侍祭。」
「さあ、耳掻きでもしましょうかね。」
 にこにこ笑いながらボルシチの耳を掴む。
「ええええええ!
ちょ、ふ、副官殿!揺れる!列車超揺れるから!」
 だが寅兵衛は止めようとする気配はない。
むしろ、だからこそやるといった顔である。
「大丈夫、ここから先は本になってから、ですから。」
「な、なりたいようななりたくないような…!」
 寅兵衛の言葉に思わず複雑な表情で、ボルシチは呟くのだった。
 
 
 
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