一太刀
春日井久作は一角の剣格であった。
師はおらず、我流の剣であったが、郷里には敵もなく。
かといって慢心することもなしに、ただひたすらに高みを目指していた。
毎日父の形見を手に、狭い庭で剣を振り続け。
時には山の中を走り。
常に自らを磨き続けていた。
元々、久作は雪国の生まれである。
幼いころは雪を掻き分けて遊び、また雪の上を跳ね回るようにして遊んだ。
そのためか久作の足腰はとても強く、それは剣を振るう際の強さとして久作を支えていた。
疑問に思ったのは、とある風の日のことである。
その日は朝から風が強く、隣の洗濯物が庭先に引っかかっていた。
久作はそれをとり、隣の家へと届けてやることにした。
途中、近くの子供たちとすれ違う。
笑いながら駆けていく子供を振り返りながら、その時に久作は疑問を抱いたのだ。
子供たちを見ながら、自分の子供時代を思い返し。
自分が、この世に何を残せるのかと考えたのだ。
洗濯物を隣人に返し、お礼の野菜を受け取りながら久作は考えた。
自分が人に誇れるものと言えば、剣しかない。
しかしこの村は平和そのものだ。
剣道場を開いたところで誰も習いはしないだろう。
なにより自分が誰かに物を教えられるとは思えない。
ならばどうするか。
ただ、より高みを目指すことしか久作には思いつかなかった。
そのためには自らを知り、そしてより高みを知るべきである。
そう考えて。
久作は旅立ちを決意した。
心残りは母のことであった。
年老いた母を一人残して家を離れるのは未練が残る。
かといって過酷な旅に、母親を連れていけようはずもない。
散々悩んだ末、久作は本人に相談をすることにした。
母の答えはあっけないほど簡単なものだった。
ただ一言「言って来い。」とだけ母は答えてくれた。
考えて見れば、郷里に戻ったとはいえ彼女も武士の妻である。
息子が武芸に進みたいと言えば、反対するようなヒトではなかった。
結局母の賛成を受け、郷里を発つこととなった。
これが6年前の夏、久作が15の時である。
久作は、凛々しい顔をした狸の青年であった。
「きゃあああっ!」
大通りに女性の叫び声が響き渡った。
何事かと周囲の人々が振り向く。
視線の集まった先には、蕎麦屋から飛び出してきた女性の姿。
震えながら指差されたその先には、抜き身をちらつかせた一人の狼が立っていた。
その姿を見ても何があったかはわからない。
しかし何が起ころうとしているかは容易に想像がついた。
女性は腰を下ろしたまま、助けを求めるように辺りに視線を配る。
しかし周りの人間たちも抜き身を恐れてか、さりげなく視線をそらすばかりである。
そんな中、一歩踏み出す男がいた。
「街中で暴れるのは止してもらおう。」
そう言って狼と女性の間に割って入ったのは一人の青い犬だった。
渋い色の着物を着こなした、まだ若い男だ。
「なんだてめえ!」
狼はそう叫びながら、抜き身を携えて踏み込んでくる。
男は小さくため息をつき、左手で鯉口を切る。
その瞬間。
まさに刹那の時。
わずかに、白刃が閃いた。
常人の目にはとまらないわずかの時。
次の瞬間には、勝負が決まっていた。
ゆっくりと刀を鞘へと仕舞う青犬と、何が起こったかわからぬまま倒れる狼。
「てめえ…。」
空を見上げながら、狼は呟いた。
いまさらに、気づいていたのだ。
この街で、もっとも相手をしてはいけない男であったことに。
「御庭番衆…。」
街を守る、将軍お抱えの集団。
治安を守るために戦う、最強の集団とも聞いている。
そのような男を相手に喧嘩をうって、無事に済むはずがない、
「羽州真之介。
覚えて置け。」
そう言って、男は振り返る。
呆然とした表情でこちらを見上げる女性にそっと手を差し伸べた。
「お怪我はありませんか。」
呆然としたまま、女性はがくがくと首を縦に振る。
目の前で起こったことが理解できていないのだろう。
それに関しては、周囲にいる人々の反応も同様である。
ある意味いつもどおりである反応に、真之介は満足げに頷く。
女性を立たせ、懐から紐を取り出し倒れている狼を鮮やかに縛りあげる。
あとはもうしばらく待てば、騒ぎを聞いた御庭番衆の見周りが駆けつけてくるはずである。
その彼らに引き渡せばいいだろう。
ふと、視線を感じ振り返る。
真之介の視線の先には、狸の青年が立っていた。
年のころは二十前後だろうか。
ぼろの着物を着ているが、目はまっすぐに真之介を見ている。
その瞳は、先ほど起こったことをすべて見抜いている目であった。
ふと、脳裏に知り合いの狸の爺が思い浮かぶ。
もちろん目の前にいるのは、その爺とは似ても似付かぬ立派な若者である。
同じ狸でも、これほどまでに違うものかと真之介は少し感心した。
「う、羽州さん!」
そういいながら若者は腰の刀に手をかける。
声を上げた青年から離れる様に、周りにいた人々がざっと離れた。
それをみた真之介の眉が、ぴくりと跳ね上がる。
しかし敢えてこちらは刀に手を伸ばすことはしない。
目の前の青年に、殺気がないことに気づいているからだ。
おそらくは腕試しの類だろう。
真之介程の高名な男ともなると、そういう輩も少なくはない。
「勝負、してください!」
予想通りの発言に、思わずため息をつく。
とはいえ、中には何も言わず辻斬りのように斬りかかってくるものもいることを考えると、彼はまだおとなしい方とも言えた。
「だめだ。」
そういいながら、ちらりと目で先ほどの狼を見る。
騒ぎを聞きつけた御庭番衆が、すでにその身柄を確保している。
もはやこの場にとどまる意味はないだろう。
「御庭番では私闘を禁じている。
あきらめろ。」
そう言って真之介はさっさと歩き去ってしまった。
後に残ったのは狸の青年と、野次馬たちのみ。
その野次馬も、騒ぎが収まると各々散って行ってしまった。
「なるほど、これはいい尻じゃ。」
突然青年の尻が何者かになでられた。
あわてて振り向けば、自分の腰ほどの背しかない狸の翁。
「え…と…?」
「お主…。
逃げるとか止めるとかせいよ…。」
未だに尻を撫でながら、老人はあきれたように呟く。
老人は青年を見上げながら、鼻をひくりと動かした。
「はあ…。」
そう言いながらも呆然としたまま見詰め合う二人。
「相当に変わった奴じゃのう…。
どうじゃ、飯でも食わんか。」
その言葉に、青年はしばらく考えた後に頷くのだった。
「ここの蕎麦が美味くてのう。」
そういいながら老人はずるずると蕎麦をすする。
確かに、つやつやとした麺と香ばしい山葵の香りは、それだけで食欲をそそる。
勧められるまま箸を手にとり、蕎麦を一つかみすると、それをつゆにくぐらせる。
口に含むと、一気に蕎麦の風味が口の中に広がった。
雪国生まれである青年は、蕎麦と言えば温蕎麦の印象が強かった。
しかしこの国では蕎麦と言えばざるをさす場合が多いらしい。
なんとなく印象で避けていたのだが、なるほど、確かにこれはうまいと青年は箸を進める。
老人はさらに酒を追加で頼み、蕎麦を食う青年をみながらちびちびと舐めるように酒を飲んでいた。
そのまま無言で二人は食べ続け、やがて二人は蕎麦をたいらげた。
「さて、本題に入ろうかの。」
「は。」
すっかり蕎麦の美味さに気をとられていた青年は、老人の言葉に呆然としてしまう。
「とりあえずお主、名はなんと言うんじゃ。」
「春日井久作、と申します。
剣の腕を磨くため、全国を回っているところです。」
「それで、先ほどの真之介と剣を交えてみたい、と…。」
その言葉に久作は頷いた。
あれほどの使い手は、全国を回ってもそうはいない。
自らの腕試しという意味ではもってこいの相手といえる。
「もっとも、今の僕では敵わないと思います。
相当の使い手のようでしたから。」
その言葉に老人は頷く。
「せっかく国をでて、武芸の道を選んだのですから。
この道を極めたくは思いますが…難しいものですね。
戦えば戦うほど、自分の弱さが見えてきます。」
そういって青年は弱々しく微笑む。
その中に、どこかしらあきらめのようなものが見えた気がした。
「流派はなんなんじゃ?」
「恥ずかしながら、完全に我流なんです。
誰かに師事したこともなく…」
しかしそれでも全国を回りながらの武者修行をしているのである。
我流とはいえ、よっぽどの腕前なのだろう。
「どうじゃ、わしの知り合いを紹介してやろう。
そこで真之介と戦えるまで修行してみんか。」
思わず眉を顰める久作。
久作にしてみれば、ありがたい話には違いない。
しかし出会ったばかりの相手にそこまでしてもらっても構わないものだろうか。
何より。
「どうして、そんなに良くしてくれるんですか?」
「なに、同じ狸のよしみじゃよ。」
そういって老人はにっと笑って見せた。
老人に連れられて歩くこと約半刻。
町外れの、さびれた道場にたどり着いた。
看板は表に下げられているものの、もはや汚れていて何と書いてあるか読み取ることはできない。
「御免。」
そういいながら老人はずかずかと上がりこんでいく。
道場の中には、酒を呑み散らかしたまま眠っている一人の男がいた。
茶色の毛皮がぼさぼさに乱れたその男は、どうやらすっかり熟睡しているようだ。
老人が歩み寄り、その頭を軽く蹴飛ばす。
「ん…。」
それでも起きず、老人がもう一蹴り。
そこでようやく男は体を起こした。
毛並みは乱れ、表情もさえないため年齢がわかりづらいが、おそらく久作よりは年上だろう。
「なんだ、また厄介事もってきたのか?」
あくびをしながら男が不満そうに呟いた。
その言葉に老人も不服そうな顔を見せる。
どうやら老人が何か話をもってきては、男がそれを引き受ける、という関係らしい。
「馬鹿者、今回はお主の商売に手を貸してやろうというに。
ほれ、新弟子じゃよ。」
そう言って老人は久作を振り返った。
あわてて久作は頭を下げる。
「春日井久作と申します。
よろしくお願いいたします。」
とっさにそうは言ったものの、久作はやはり心配だった。
目の前のこの冴えない男は自分よりも強いのだろうか?
「爺さん、だめだよ。
こいつ俺より強いじゃん。」
そういって男は首を振る。
どうやら向こうも同じように考えていたらしい。
「なに、本腰を入れて基礎を教えろという話ではない。
三ヶ月で、あの羽州真之介と戦えるようにしてくれればよい。」
その言葉に男は目をひんむいた。
「羽州って…無理に決まってるだろう!
爺さんついに呆けたか?!」
「そんなわけなかろう。
ともかく、足腰の筋肉はしっかりとしているようじゃし…。
本人には時間がなさそうじゃしな。
いつもどおり、何か抜け穴的なことを考えてくれればよい。」
ああ、それで尻を触られたのか。
久作は妙に納得した。
同時に、老人は気づいているのだと知った。
ぎゅっと自分の胸元を握りしめる。
「時間って…なんか急ぎか?」
「本人もわかっとるから言うが…病じゃよ。
薬湯のにおいをこれだけさせて、この顔じゃ。
もって三月じゃろうて。」
老人の言葉に驚いた顔を見せる男。
思わず久作は目を伏せた。
自らの病を悟ったのは三ヶ月ほど前。
その段階で、すでに久作の病は手に負えないものであった。
なんとか薬で騙しながら、自らの目標を求め。
ようやく、ここにきてその目標は決まったらしい。
「三ヶ月で羽州真之介ねえ…。
まあやるだけはやって見るが。」
男の言葉に老人は満足そうに頷いた。
「よし、じゃあとりあえず動きみせてもらおうか。」
そう言いながら、男は壁に立てかけてあった木刀を掴む。
「お前は抜き身でいいぜ。」
そう言いながら男は片手で木刀を構えた。
老人はあわてて道場の隅へと走り去る。
少し躊躇しながらも、久作は腰の刀を抜いた。
男はまっすぐ木刀をこちらに向けている。
先ほどまでとは違い、真剣な表情でまっすぐにこちらを見つめてくる男。
久作は少し迷いながらも、一気に間合いを詰めて横薙ぎに刀を振るう。
必殺、とまではいかなくとも普通の相手であればまずかわせない速さである。
しかし、男は一歩さがりわずかに体を開きながら、木刀をわずかに動かした。
ただそれだけで、久作の刀の動きが逸らされる。
即座に地面を蹴り、間合いを離す久作。
それを見て、男は木刀を下ろした。
「よし、もういいぜ。」
そういった男の顔は、先ほどまでの腑抜けた顔に戻っていた。
どうやら確認したかった部分はもう十分らしい。
「どうじゃ、ものになりそうか。」
老人がひょこひょこと歩み寄ってくる。
その言葉に男は少し首をひねってみせる。
「うーん…。
そうだなあ…羽州に対するには…いや、でもどうせ勝てるわけでは…なら引くよりは…」
何事かぶつぶつと呟く男。
どうやら老人の声はもはや届いていないようだ。
「そういや名乗らせておらんかったな。
此奴は武光。
まあ、名前よりは切れる男じゃよ。」
そういって老人は久作の尻をぽんぽんと叩いた。
「三月、がんばれそうか?」
脳裏に思い出すのは、先ほど見た真之介の姿。
おそらく常人では目にも止まらなかったであろう、刹那を斬るような抜刀術。
あれを超えられたら。
あの人物と、戦えたら。
「…はい。」
久作の手に、力がこめられた。
それから三月、武光に教えられるとおりに久作は体を鍛えていた。
なぜかただひたすらに横薙ぎに剣を振らされ、目の前に彫られた溝を跳ばされる。
延々とそんな練習だけが続けられた。
その間にも、少しずつ久作の体は病に蝕まれていく。
少しずつ体力は落ち、もはや集中して立っていられるのは四半刻もない。
それでも久作は、武光に言われるままに修行を続けていた。
「で、どうするんだ。」
久作の修行をみながら武光が口を開く。
「段取りか?
それこそわしの得意分野じゃろ。」
そういって老人は隣で茶をすする。
「彼奴とて、なんのかんの言っても剣客じゃからの。
久作の強さを、見せ付けてやればよい。
さすれば、向こうも抜かざるを得んよ。
久作は、わしが知る限り真之介に勝てる唯一の人物じゃ。
向こうもそれを感じれば、やりたくてたまらんといった顔になるわい。」
そういってにやりと笑う老人。
「相変わらず性格悪いな、お前。」
それを見ながら武光はあきらめたように呟いた。
「で、お前の今回の狙いは何よ。」
「はて、なんのことじゃ。」
「お前が無償で他人の世話なんか焼くわけないだろ。
もちろん金なんかで動くわけもないだろうし。
今回の勝負で、お前は何を見ようとしてるんだ?」
武光の視線が鋭い物に変わる。
しかし老人はそれを笑って受け流す。
「なに、若い男の命がけの争いに性的興奮を覚えるだけじゃよ。」
「変態め…。」
うんざりとした顔で武光が立ち上がった。
「では、三日後の昼に真之介を呼び出すぞ?」
「あー、たぶん大丈夫だろ。
久作はもう出来上がってるよ。
あとは病気の問題だ。」
なるほど、それならば逆に急ぐべきなのだろう。
その言葉を聴いて、老人は立ち上がった。
情報が入ったのは、つい先ほどのことだ。
街中を見回っているときに、知り合いの老人から話を聞かされた。
街のはずれで、どうやら謀反の企てがあるらしい。
自分は他の御庭番衆を呼んでくるからと、その老人は真之介を一人先に向かわせた。
なんとなく嫌な予感がしながらも、真之介は街外れに向かう。
そこにあるのは、古びた道場だった。
そっと歩み寄り、用心しながら中の様子を伺う。
道場の中には…どうやら一人、いるらしい。
すこし聞いた話と違うように思い、縁側に上がり用心しながらもゆっくりと戸を開く。
そこには、一人の剣客が静かに座っていた。
まるで切腹でもするかのように、白裃を着こみ刀を目の前に置いている。
「君は…。」
どこか見覚えのある顔であった。
だがどうにも思い出せない。
いつだったか出会ったことがあるはずだが…。
「勝負を、お願いします。」
そういって目の前の青年は肩衣を脱ぎ、小袖からも腕を出して半身を露出する。
そして目の前の刀を抜くと、ゆっくりと中段に構えた。
ようやく思いだす。
確かしばらく前に、真之介に勝負を挑んできた若者だ。
「春日井久作。
春日井流、次の太刀。」
そう言って、すっと間合いを詰めてくる久作。
「待て、私闘は…」
言い切る前に、刀が空を斬った。
咄嗟に間合いを外し、薙ぎを避ける。
だがまるでそれを追うようにして、久作の体が迫る。
ありえない速さで、二度目の斬撃が真之介を襲う。
とっさに後ろに飛ぼうとして、縁側から足を滑らせた。
目の前を久作の刀が過ぎる。
地面に手を着きながら、さらに間合いをはなす真之介。BR>
おそらく、今の斬撃は手を抜かれたものだろう。
それでも真之介の目に止まらぬほどの太刀筋であった。
久作が追求したのは、後の先を取る手段である。
先ほどの横薙ぎの斬劇も、一太刀目が振るわれている間に、それを追うようにして次の太刀が迫っていた。
手を抜いていたとしても、常人であればまずかわせない。
真之介だからこそ、今再び目の前に立っているのである。
「勝負を。」
久作はもう一度そう言った。
何も言わず、真之介は刀の鯉口を切る。
説得をあきらめたのか、それとも真之介もこの戦いに惹かれたのか。
だがここまで来た以上、何も語る必要はなかった。
久作は地面を蹴り、間合いをつめながら一太刀目を薙ぐ。
それを紙一重でかわす真之介。
次の太刀が迫る前に、抜刀を狙う。
しかし、次の太刀は先ほどよりもさらに早く。
一太刀目が消えたと感じる前に、既に迫る次の太刀。
真之介の予想を超えた速さである。
「くっ!」
刀を抜くことができず、とっさに鞘で斬劇を受け止める。
再び間合いを離し、真之介は久作を見つめた。
久作もそのままの位置から真之介を見つめる。
相手の連撃の速さはまさに異常といえる。
どのような力があればそれが可能になるのか。
だがそれを考えるのは今ではない。
今はそれを、どう破るかだ。
「…っ。」
後の先を確実に取られる以上、先の先を取るしかない。
しかし久作の一撃の早さも相当なものである。
それを超えるには。
「…一式。」
目にも見えないほどの、真之介が扱う最速の抜刀術。
相手が動く前に、敗れたと感じる前に。
すべてを葬り去る居合術である。
だがこれは威力が高すぎる。
言葉どおりの必殺剣である。
放てば、ほぼ間違いなく目の前の青年の命を奪うだろう。
だが使わねばおそらく自分がやられる。
たとえ一式を使わなくとも、久作はまた刀を振るうだろう。
次の一撃…いや、ニ撃を避けきれる保障はない。
ならば。
「…行きますっ!」
痺れをきらした久作が、刀を構えて間合いを詰めた。
迷う暇も、考える暇もなかった。
「壱」
感情を、思考を殺し。
手と、刀だけの生命体と化す。
もはや何も見えず、何も聞こえず。
ただ敵を葬るために。
真之介の刀は、世界を斬る。
「式!」
言葉を発した時には、すべてが終わっていた。
ゆっくりと刀を戻す真之介。
そして、その場に崩れ落ちる久作。
「…まさか、防がれるとは思わなかった。」
崩れ落ちた久作の手には、折れた刀が握られていた。
次の太刀を出さず、咄嗟に防御に構えたためだろう。
本来なら真之介を襲うはずの斬劇を、一式にぶつけて来たのだ。
しかし始めから放つつもりであった一式と、とっさに起動を変えた次の太刀。
勝負は、着いた。
「参りました…。」
倒れたまま久作が呟く。
立ち上がることも、脇差を抜くこともできない。
例え命を落としていなくとも、もはやいつ追い討ちを受けてもおかしくない状態である。
いまさらこの状態から戦えるはずもなかった。
「せめて一太刀、あなたに残せればと…。」
それだけを呟く。
自らの人生をかけて作り上げたその一太刀。
命を込めた、次の太刀。
結局、真之介には届かなかった。
「…来年、同じ日にもう一度仕合おう。
次は、決着を着ける。」
そういって真之介はこちらに背を向ける。
真之介は知らないのだ。
久作の余命がどれほどかを。
「…わかりました。
次こそは…。」
久作はそう答える。
生きられるだけ、生きてやる。
そして今度こそ、一太刀を残すのだ。
「三太夫。」
道場を離れながら、真之介は呟いた。
草むらから、小柄な狸の老人が姿を現す。
「今回ばかりは、貸しにしてもらうぞ。」
「なんじゃ、冷たいのう。
わしゃ、あの若者の夢をかなえてやろうとじゃな。」
「そんなに。」
三太夫の言葉をさえぎる真之介。
その目は、刀を構えるときと同じ目をしていた。
「一式が見たかったか?」
三太夫はいつもどおり、無言で微笑みを浮かべている。
「…食えない狸だ。」
「年寄りじゃからの。」
不満そうにため息をつく真之介と、笑いながら後に続く三太夫。
今回も結局この爺の思うとおりかと、真之介はうんざりしながら足を進めた。
ふと、一瞬だけ後ろを振り返る。
春日井久作。
あれほどの使い手には、おそらくそう出会うこともないだろう。
次に出会う時には。
彼の次の太刀は変わっているかもしれない。
彼の太刀は次に進んでいるのかもしれない。
そうなったら。
ひょっとしたら一式を超えることすら――。
だが。
それでこそ、真之介が求める相手とも言える。
再び会い見える日を期待して。
真之介は少しだけ微笑んだ。