暁の英雄と冒険者


リムサ・ロミンサは、ラノシア地方にあるエオルゼアの都市国家のひとつで、ロータノ海に浮かぶバイブランド島の南部を領有する海洋都市国家だ。
港湾内に点在する無数の岩礁の上を行く鉄橋からなる美しい町並みは海の都と称される。
そんなリムサ・ロミンサ国の同名の首都。
国際通りの傍にある八分儀広場の傍にあるストリートカフェ。
並べられた小じゃれたテーブルから歓声が上がる。
青年は、その焦げ茶の体毛に覆われた顔から伸びた口吻の端に涎を滲ませていた。

「ほ、ホントにええんですか?」
「いいんよ、遠慮せんで。」

見るからに香ばしい狐色に焼き上がったパンと、湯気をあげるシチュー。
空腹を耐えかね、急かす様に視線を向けると、彼はにっこりと笑顔を浮かべどうぞと手を広げて見せた。
なんとも言えない良い匂いに、思わず零れそうになるヨダレ。
手に取ったパンを、おそるおそる曲げると、軽快な手応えとともに二つに裂ける。
焼き上がったばかりのパンと、漂うシチューの香りが鼻先で混じり合い、食卓に幸福な瞬間を振りまいた。
温かいシチューの湯気は、スプーンを握りしめている青年の心を否応なしに躍らせる。

――ん〜ッ!やっぱ温かい食事はええなぁっ!

口の中に広がるシチューの優しい味に、思わず涙が零れそうだ。
食卓にはシチューとパンの他にも、赤身魚のムニエル、子羊の香草焼き、ハイランドキャベツのサラダなどが所狭しと並べられ、視覚と嗅覚の両方から、青年の身体を誘惑していた

――こんな旨いもん、食わせてくれるなんて、ホント都会の人は親切やなぁ……

「ここは、『ビスマルク』の姉妹店に当たるとこでね。店主はギルドマスターと一緒に外洋船交易船にのって、厨房で料理を作っていたこともあるそうでの。」
「そうなんですなぁ」

低く渋い男の声に、適当な相槌を返しながら、俺は程よく茹でられたポポトを口に放り込む。
ふわりと崩れ、広がるバターの香りに思わず相貌を崩してしまった。

「それで、君は、何所から来たって話だった?」

料理から顔を上げれば、自分をこの食事にありつかせてくれた老年のロスガル族――自分と同族だ――の顔がこちらを見ていた。
自分に、どう見ても自分とは分不相応な食事を奢ってくれた老人だ。

希望に胸を膨らませ、チョコボキャリッジに乗って大都会、リムサ・ロミンサに到着して数時間。
人の波に押され、目的にしていた斧術師ギルドもまるでどこやらわからず。
空腹に途方に暮れていたところ、一人の老人に声をかけられた。
それが、ついさっきの事だ。
自分と同族をみかけて、つい声をかけたとのことだけれど、確かにロスガル族は珍しい。
この大都会でも、顔を見かけたのがこの老人が初めてだったのだから。
ロスガル族は、半世紀ほど前にガレマール帝国の侵攻により故郷を追われた種族だ。
この老人は、もしかしたら自分の知らないその故郷を知っているのかもしれない、等という考えが一瞬だけ脳裏を過った。

「えっと、すんません、飯食うのに夢中になっとって」
「若い者はそれぐらいでちょうど良いわ。久々にボズヤ訛りも聞けたしの。」

老人は、口吻の白い髭に軽く手を当て、笑みをさらに深くする。
釣られて、自分も笑ってしまった。

「それで、何のお話でしたっけ?」
「ん、あぁ……そうじゃのぉ、お前さん、斧術士になりにきた、と言うておったな」
「ええ」

斧術師というのは、リムサ・ロミンサという国における戦士の総称である。
近年、戦技法手継文書なる秘伝書がみつかり、その武技の質を上げているとかといううわさ話はあるのだけれど。
田舎者の自分にしてみれば、何が何やら、というところだ。

「強くなって、ここで身を立てたいんですわぁ。英雄、なんて無理だろうから……」
「ほほぉ」
「だから、イエロージャケットに入りたいんですわ。んで、ウチの村に金を送ってあげたいんす」
「衛兵隊かぃ? んむ、確かにあそこに入りゃぁ、稼げるが、のぉ……」

すっと、視線を外した老人の視線を追うと、揃いの黄色の外套を着た者たちが、市場の奥から走ってくるのが見えた。
抜き身の剣を片手に、宿屋の裏口から飛び出してきた男を追っている。

「おいおい、もう無駄だよ。大人しく捕まっちまえって」

笑声に皮肉を混ぜて忠告するが、男の方では止まるつもりはないらしい。
髪を振り乱し、片足は裸足のまま、必死の様子で逃げている。

「誰か!助けて!」
「面倒くせぇなあ」

外套の男は、屋台で果物を商っていた婆さんが文句を言うのも聞かず、赤く大振りなリンゴを一つ持ち上げ腕を振りかぶる。
その手から放たれたリンゴが、勢い良く目の前を飛んで、鈍い音を立てて逃げる男の後頭部ぶつかった。

「うわぁ!」

情けない悲鳴を上げながら、男が前につんのめる。
必死に走っていただけに、前へ進みたがる足の勢いを止めることが出来ず、そのまま無様に地面に突っ伏した。
その倒れた背に、黄色の外套の男が馬乗りになる。

「助けて!俺は何もしてない!」
「こっちに逆らった時点で何かしてんだよ!大人しくしやがれ!」

必死に抵抗する男と、目が――

『俺は、何もしていない!』
『犯人は、俺じゃない……』

眼前のヒューラン族の男から、絶命の声が放たれるのを、無表情に見守る人物。
男の周囲は暗い。
濃密な夜の闇に、更に濃密な血の匂いが満ちて男の皮膚にじわりと付着していく。
男の持つ小さな明かりに灯されて、広くはない室内に満ちた血の香が鼻孔を犯すようで。
ぼんやりと、倒れた人影が歪み、光の粒になって消える。
隠れたクローゼットの中、ドアの隙間から見える男の顔が……

「……おい、おい、青年、聞いておるか?」
「へ?」

我に返ると、老翁がこちらを覗き込んでいた。
少しぼぉっとした視界で、二重三重に見える白い髭に隠れた口元が、何か言葉を結ぶ。
頭を二度、三度と振ると、まだもやもやとしているが声の残響が抜けていった。

「いや、ちょっと、変な声が聞こえて」
「何か、見たんだな?」
「あ、いや、その、見たというか聞こえたというか……」

今見た光景について話をすると、ずいと、老翁は身を乗り出す。
鼻づらがくっつく位の距離で、にぃ、と笑みを浮かべた。

「でかした若いの。しかし、超える力とはなぁ。これはこれは……」

一人で納得している老人に、首を傾げてみせると、彼は笑みを深くする。
一度椅子に座りなおし、着ている衣服の乱れを直し、一度パチリと指を鳴らした後、口を開いた。

「青年、ちょーっと一緒に調べてみんか? 何、悪いようにはせん。」
「……はい?」

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

宿屋「ミズンマスト」は、リムサ・ロミンサの伝説の建国船「ガラディオン号」の後尾のマスト、すなわち、ミズンマストの位置に建てられたため命名されたという。
いや、正確に言えば、この宿屋が入っている建物全体を指してミズンマストというのだそうだ。

「おい!!」
「まぁ、ここに宿をとっておる連中は、揺れない寝台が欲しい連中……大体商人か冒険者だけだろうて。それも、それなりに懐具合の暖かい奴やの。」
「おい、爺さん! 爺さんって!こっち向けよ!」

宿屋の受付の横にあるカウンターから身を乗り出して叫ぶ男。
顎髭を蓄えたヒューラン族の男が、巻いたバンダナを正しながら、必死に手を振っている。
その手には、指がすべて揃っている。
いや、確かに、普通の人間ならば揃っているだろう。
だが、彼が傭兵上がりであるという経歴を知れば別だ。
大きな怪我一つせず、引退してこれるほどの腕前。
ついた二つ名は「十指」

「やれやれ、人が説明をしておるのをみておらんのか…相変わらずじゃの、バデロン。えーと、酔いどれ椎平亭の方は繁盛しとるか?」
「海豚だ! 溺れた海豚亭!! ったく。白髭の爺さん、今更冒険者ギルドに用ってわけでもないだろう? 何しにきやがった。」
「呼び止めておいて随分な物言いではないかい。まったく、小便垂れのチビ助も偉くなったもんで……」
「うるせぇ! いや、なんだ、爺さんがコッチに顔出してるなんて、珍しくて。」

旧知らしい二人が話をしている間。周囲に目をやる。
巨大なホールの一室を丸々貸し切った形で、所せましと並べられた机には、何組かの集団がたむろしている。
不揃いな、思い思いの装備に身を固めた彼らは、おそらく、冒険者。
報酬を、あるいは名誉を求め、危険な任務と冒険に身を投じる者たち。
冒険者ギルドと呼ばれる場所には、危険な魔物退治から職人の仕事まで、毎日、多種多様な依頼が寄せられ賑わうのだという。
ここが、そうなのだとしたら。

「冒険者、かぁ……」
「どうした青年、許可はとった、ほれ行くぞ」
「あ、うん」

促され、その背を追う。
鍵束を持った店主と、その横に並んだ老翁は、一つの部屋の前に来るとカギを開けた。

「ったく、嗅ぎつけるのがホントはえぇんだから。ネコなのか犬なのか、どっちなんだかね」
「ワシも知らんのでねぇ、知ってるなら教えてもらいたいところじゃが。」
「雲海蔓で酔っ払ってたし、ネコなんじゃねぇかって説が……」

がちゃりと開けられた部屋は、シングル・ベッドといくつかの大きな本棚。
木製の机に、椅子。
奥のクローゼットは大きく開いているが、服はほとんどなく、無機質な部屋だ。
机上には花瓶があり、薔薇が一輪生けてある。
二組のティーカップとソーサー、中には冷えた紅茶。
机上には広げられた手紙の束。

「長期滞在してた客で、商人って触れ込みだったんだが……物言わぬモンになっちまってな」

よくよく見れば、室内のあちこちに飛び散ったとみられる赤い雫。
指さした先には、大量の血の跡。
絨毯に半ば染み込んだそれは、少し赤黒くなってはいたが、未だに色褪せない鮮烈な赤色を示していた。
これだけ大量の出血をしたとしたなら、生きている事はまずないだろう。

「さっきの大立ち回りは、悲鳴に気づいて踏み込んだイエロージャケットの連中が、ここに居た犯人を追いかけてったもんさ。」
「ここに居た、か?」
「そう。衛兵と踏み込んだ時、この部屋にはあいつと死体しか居なかったからな。」
「ほぉ」

店主の言うことには、その犯人というのは、結構有名なコソ泥だそうで。
あちこちで盗みを働いていて、目をつけられていたらしい。
このミズン・マストでも、被害にあっていたらしく、内側からしか開けられないカギをつけて、カギを二重にして対応したんだそうだ。

「ついに、殺しにまで手をつけたかってとこだなぁ……」
「衛兵に期待なんぞしとらんが、弛んだもんじゃの、お前さんも。」
「な!」

老人は、スタスタと歩を進めると、開いたクローゼットに近づいた。
かかった衣服と、その周囲をちらりと一瞥し、小さく頷く。

「青年、お前さんの見た通りだなぁ。ここに隠れてた誰かが居たのは間違いない。しかも、これだけ濃く臭いが残っておるんだ、相当長い時間じゃろうな。」
「お、おい、誰かって」
「イエロージャケットが追いかけた犯人。そのコソ泥とやらさ。返り血も浴びとらん、な」

言葉を一度切ると、中に残っていたブーツをひょいと取り上げ、こちらに放ってきた。
受け取って、はたと気づく。
あの時追われていた男の靴と同じものだ。
思わず老爺の顔を見ると、合格、とでも言いたげに頷いた。
そして、くるりと向きを変え、机上に残った紅茶を指さす。

「客が来てたんじゃよ。この手紙を見せていた相手がの。クローゼットに隠れてたのが、何をする気だったかは知らんが、その一部始終を見ていたんじゃないかの。」
「じゃあ、その客ってのはどこに……」
「わからんさ、お前たちが入ってきたのに紛れて出て行ったのか、それとも先に居なくなったのか。とはいえ、一つ言えるのは。」

すっと、店主を、いや、正確にはその横の扉を指さして言う。

「内カギがかかっておらんかったんだろう? 壊れとらんかったのだから。」
「確かに、俺たちは普通に扉を開けて入った。」
「誰かとすれ違ったか? どうみても返り血を浴びた誰かと。」
「いいや、誰とも……イエロージャケットの立ち回りの後、死体を運び出して、俺がカギを閉める迄、誰とも」
「さて、ならば、だ。青年、わかるかの?」

唐突に話を振られ、店主と老翁の視線が自分に向く。
二人の眼光が思っていた以上に強い。
思わずたじろぎ、後ろにあとずさってしまった。

「え、えっと、いや、その」
「バァデロォ〜〜〜〜ン。若いのを脅すンでないわ。」
「俺じゃなくアンタ……いや、わぁったよ」
「ほれ、青年、ええから思った事を言ってみぃ。」

促す彼の目は柔和に弧を描き、一瞬前に見えた強い光はない。

――いや、別に、怒られたり、せーへんよね……?

クローゼットの中に居たのは犯人ではなかった。
残っていたのは、犯人と被害者だけだった。
犯人と店主は出会わなかった。
なら

「その、いや、犯人はどうやって、部屋から出たんですかね……」

尻すぼみに小さくなる声。
店主が何かにはっと気が付いたように、老翁の顔を見る。
視線の先の彼は。
笑みを浮かべたままゆっくりとうなずいた。

「その通りじゃ。さて、バデロンよぃ……聞くが、お前さん、死体はしっかり確認したのか?」
「……あれだけ全身血塗れで、腹にナイフが刺さってれば、見なくたって致命傷って……」
「じゃろうな。なぁ、若いの。お前があの時してくれた話、もう一回頼めるか?」
「話?」

――話って言うと、あの時見えた、被害者が殺された時の……

「あ、そうか。刺された方は光になって消えた……」
「光になって消えた? おいおい、死体は消えねぇだろ――」
「でも、俺が見たのは、光の粒になって、刺された人が消えていく姿で……エーテルにでもなった?」
「おい、お前本気で言ってるのか?たしかに、全ての物はエーテルでできてるさ。」

エーテルとは、この世界の全てを構成すると言われている物質だ。
人も動物も植物も、魔物ですらエーテルから形作られていると言われていて、学者は、エーテルは「星の『血』に等しい」ものであると表現している。

「だが、死体は消えない。物質は時間をかけてエーテルに還るものなんだよ。」
「いや、そらそうですけど……」
「普通はそうだろうよ、じゃが、時にそうでもないものもある。」

店主の言葉を遮るように、老翁は口を挟んだ。
見るべき物は見たと、スタスタと部屋から出る彼の背を追う。
その横に並んだ。

「うんむ、満点だ若いの。よく気付いた。」
「あ、あんがとさんです。いや、その、一体?」

背を曲げ、老爺よりも低い位置から上目遣いにその顔を見上げる。
真っ白な髭に覆われたその口吻に邪魔されて、その表情全体は伺い知れない。

「減点1.さっき言ってた死体はどこに行った?」
「……警備隊の事務所を経由して墓行きのキャリッジ。置いておかれてる間に、逃げられるかもしれへん。」
「正解、急ぐかの。」

顔はどう見ても老爺だが、その歩みはカクシャクとして、まるで老いを感じさせない。
挙句、その歩く速さと来た日には、自分が結構急ぎ足じゃないと追いつけないくらいだ。

――都会人という奴は、歳をとってもこうなんかぃ。

少しため息をつく。
都会ってのは、本当に魔境だ。
考えもよくわからないし、何故かこんな風に連れまわされてしまっている。
美味しいものを食べさせてもらった礼としては、安いくらいのもんだけれど。

そんなことばかり考えて、必死にその背を追っていた。
だから

「遂に尻尾を掴んだぞ……天使いめ」

耳に入った言葉の意味を、深く考える事など、しなかったのだ。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

ゼファー陸門は、リムサ・ロミンサの街の最大の門である。
西風を心地よく感じられるという理由でこの名前がついたそうだが。
皮肉な事に、今、西風が運んでくるのは血の香りと悲鳴だった。

「爺さん! これ、なんなんだ?!」
「大方、死体が蘇ったって話だろうさ……間に合わなんだか。」

――あれは……

陸門の方から逃げてくる人の波。
その波に座礁したように一台の横倒しになったチョコボキャリッジ。
その近くに黒い球体が浮かび、そこから何かが湧き出している。

ヴォイドと呼ばれるそれは、空間の裂け目であり、別の時空へと通じている。
総じて、これが生じている場所からは、魔物と呼ばれるモノが出現するのだ。
そう、今、いくつも影が浮遊しているように。

「あ、あれが魔物。」
「そうだなぁ。こんな場所で出てこられても困るが……」

老爺からは、まるで危機感の無い反応。
先程までの急ぎぶりはどこかへ行ってしまったようで。

「じ、爺さん?」

何の為にここまで来たのか?
あの人たちは助けないのか。
なんとかする、という訳ではないのか。

――俺は、どうすればいい?

聞きたいことが喉元まで出かかったその瞬間だった。

「助けて……」

声が聞こえた。
聞き覚えがある声だった。
倒れたキャリッジの傍、今朝別れたばかりの人。
下敷きになって、動けない。

「わぁぁぁぁぁぁ!!!」

無我夢中だった。
必死に走り出す。
助けてと、延ばされる手。
その傍に、黒い襲撃者がふわりと舞い降りた。
ソレ、は、こちらに向き直って……

――あ

「使え!」

足元に滑り込んできた、自分にはまるで合わない大きな剣。
必死に柄を掴んだ。
勢いに引きずられるように、たたらを踏みながら、剣を振り回す。

「いやぁぁぁ!!!」

大きく振りぬいた剣は、偶然にも魔物に直撃する。
さすがに、これだけ重たい剣の一撃を受けて、無事ではいられないのか、魔物がひるんだ。

「逃げて!」

重さに引きずられながら、もう一度、もう一度。
振り回す軌道から魔物が離れていく。

「早く!」

ボンッと音がして、傍で火が爆ぜる。
魔物の魔法だろうか。
運よく身体には火の粉が少し当たるだけだったけれど。
次は、どうなるか、わからない。

「足が挟まって……」
「抜けないの?!」

思わずそちらを向くと、確かに巨大なキャリッジが、彼の足を踏みつぶしていた。
あれを動かさないと、どうしようもない。

――誰か、人を、いやでも……

一瞬の躊躇は、戦場では命とりだと。
吟遊詩人の歌ではよく歌われていたけれど。
物語の英雄は、いつだって大丈夫だった。
そう、英雄は。
俺は英雄なんかでは、ない。

「あ」

我ながら間抜けな声だったと思う。
動きを止めた俺の目の前に、黒い影がすっと滑り込み、流れるような動きで、爪がこちらの胴めがけて振り下ろされるのが。
スローモーションになって見えた。

――ダメだ!

危ない、と思う前に、どうしようもない、と思ってしまいそうになって。
諦めたら、それで終わり。
必死に身を丸める。
怪我はするかもしれない、でも、真っ二つにでもされない限りは。

――まだ、何かできる!

迫る鉤爪を、必死に目で追い、息をのむ。
鉤爪の先で黒い光が弾けた……次の瞬間、それは空に舞った。

「合格だ、若いの。」
「ひ……?」

いつの間にか、俺の傍らには老爺が立っていた。
色褪せた鬣に真っ白な髭。
黒い魔物に立ちふさがる白い姿。
巨大な、身の丈よりも長い、奇怪な剣を肩に担ぎ。
先程と変わらない調子で言葉を紡ぐ。

「初めてで、しかも斧を使うといいながら剣で。その動きができれば十分よ。」

ひょう、と空気を切る音だけがした。

残心

俺の目に見えない速度で振りぬかれた大剣は、淡い白光を放っている。
今、まさに俺の命を奪おうとしていた黒い異界の魔物を、一瞬で消し飛ばしたのだと。
そう理解するまで、しばらくかかった。

「どういう……」
「うんむ、説明は終わらせた後でしようかね。」

世間話でもするような気楽さでそう言ったその姿が霞む。
否、駆ける。
その踏み込みに耐えかねた石畳に罅が入り、石が爆ぜた。

「二つ目」

ポンと間抜けな音を立てて、老爺の右手の先に居たモノが弾けた。
左手に大剣、右手からは魔法。
人間と比べれば大柄なその身体は、敵からすれば随分な的だろうに。
真っ白な獣の毛皮の外套を翻す彼にはかすりもしない。

「三つ、四つ……五つ」

視認できているハズだろうに、それを認めた次の瞬間には絶命している。
彼が走り抜けたその背で、走り抜けた背後で魔物が爆ぜた。
たまらず、魔物が放った大量の魔力の光条も、その服の裾を少し焼く事しかできない。

「最後ッ!」

大きく跳ねると共に、大剣の重さのまま空中で一回転。
轟音と共に、最後の魔物が真っ二つの開きになる。
同時に、その剣閃に切り裂かれた黒い球体が捩じれて消えた。

一瞬の沈黙の中、ひゅんと回転させた大剣を老爺が背に戻す。
同時に、わぁと、歓声が上がった。

「さて、若いの。ちょっとした話をしようかね」

見下ろすその表情は。

――……?

本当に、嬉しそうに見えた。

〜〜〜〜〜〜〜〜

「……お待ちください!」

老爺を呼び止める声に、彼は肩を竦めて見せ。
我知らず、と言った風情で。
後片付けをする人々、混乱と喧騒。
そういったものを尻目に、スタスタと歩き出してしまった。

――『暁』の英雄、か。

人目を避けるように港へ向かって歩いていく彼の背を追う。
段々と漁網なんかが多くなり、桟橋と石畳の割合が逆転し始めた。
ふと、老爺が足を止める。
遠くに大きな灯台が見える、風を全身で感じられる場所。

「爺さん、英雄なんて呼ばれる人だったんだな。」
「英雄? よしてくれ、ワシは一介の冒険者にすぎんのだ。」
「冒険者」
「そう、冒険者。どこにでもいる、誰とも同じ。ただ、未知と道を求めるそんな男にすぎん。」

そっと、その表情を見る。
その言葉を語った彼の表情は誇らしげで、虚勢や見栄によるものだとはとても思えなかった。

「なぁ、青年。お前さん、斧術を学んでイエロージャケットに入るという意志は固いかね。」
「……いや、その」
「イエロージャケットに入りたいのなら、ワシが紹介してやれる者もおってな。そこを聞こうと。」

正直、わからなくなっていた。
衛視になって、実家に金を送れれば。
村の役に立てるだろうから、その程度の考えだったのだ。
力自慢の自分の役に立てること、それを考えて。
ただそれだけで。

「俺は……」

子供の頃から聞いていた英雄譚。
目の前で自分の言葉を待つ老爺は、英雄と呼ばれ。
自分を冒険者だと言い張る。
魔物に出くわすなんて経験は、物語の中でしかなかったはずだった。
時計が動き出したように、自分の周りが何か変わっていく感覚。
自分が大きな流れの中にいるような……

――俺が、本当になりかったのは……

「俺、冒険者になりたい。」

素直に言葉が出てきて、自分でも驚いた。
そう、自分のなりたかったのは。
憧れだった、世界を渡る冒険者。
その回答に目の前の老爺は大きく頷く。

「ならば、だ。青年、ワシと一緒に行かんかね?」
「え」

首元の髭を撫でつけながら、その先に続ける言葉を思案し。
片方の手を懐に入れ、何かを弄ぶ。
やがて、ふむと呟いた。

「ワシは、これから三国の彼方此方を回ってこようと思っておってな。旅の道連れを探しておったんだ。」
「でも、俺は旅なんかしたことなくて……」
「なに、その辺は一から教えてやるわぃ。無論、剣の技も。」
「どうして、俺なんです?」

思わず、そう尋ねる。
そもそも偶然出会った相手と、トントン拍子にこんな形で旅を共にすることになるとか。
何故と、聞きたくもなる。

「偶然ではあるんだがね。ある意味、必然だったのかもしれん。」

ふぅとため息をつき、懐に入れていた手を取り出した。

「お前さんに声をかけたのはね、最初は、コイツが反応したからだったんだよ。」
「それは……」

彼が取り出したのは、一つのみすぼらしい石だった。
街の外で歩いていればどこでも見かけるような、クリスタル。

「これは、ソウルクリスタル。一つの思いを繋いできた、思いの結晶。」
「……」
「色を喪っちまったこいつが、やっと、後継を見つけたんだと、の。」

確かに、それは醜くくすんで、色褪せていた。
ソウルクリスタルというものが何かはわからないが、きっと、こんなみすぼらしい代物ではないのだろう。、
でも、俺には、ただ、それだけだとは思えなかった。

――なんだか、不思議な感じがする。

『助けて』
『助けて』
『助けて』

豪奢なホールに浮かぶ影。
その手から、次々と巨大な火球が飛来する。

「やめんか!なんで、なんで!!」
「頼む、お前は生きて……」

自分を庇った男の身体が、爆音の度にピクリと震える。
ルガディン族の屈強な肉体であっても、強大な破壊の力の前には屈するしかない。
血と皮膚の焼ける臭い。
金属が身体を焼く音。
笑みというのは、人を安心させるための物ではなかったのか。
そんな、微笑みは……

「……おい? 聞いておるのか?」
「あ、えっと……はい?」

飛んでいた意識が戻ってくると、訝しげな表情の老爺。
今の光景が何かはわからないけれど、今、それを見たことも含め口にしてはいけない気がした。

「いや、なんか、腹へっちゃって……」
「……あれだけ食って、か。」

老爺が焦りの表情を見せるのは、今日初めての気がする。
奢ってもらった食事代が幾らだったのか、聞かなかったのはよかったのだろうか。

「とりあえず、だ。バデロンのところで酒でも一杯やろう。これからの事も話さんといかんしな。」
「わかりました。」

そう答えた俺に、老爺は足を止め、向き直った。
なんだろう、と足を止める。

「コホン……改めてだが、冒険者の世界へようこそ、若き同輩よ。これからよろしく頼む。」

老爺の差し出した手を、俺は、ぐっと握り返す。
桟橋の向こうに沈んでいく夕日が、リムサ・ロミンサの街を赤く染める。

「こちらこそ、よろしくお願いします。」

この出会いこそが、その後の俺の人生の転機だったのだと。
そう気が付けるのは、もっともっと後になってからの事で。

この時の俺は、期待に胸を膨らませ、変わり始めた日常に心を躍らせていただけだったのだ。


To be continued...?