「神の左手」


 煌々と輝く満月に向かって、真っ直ぐに伸びる摩天楼。
 窓は愚か、入り口すらないそれは、まるで空を支える一本の柱。
 なぜそこにあるのか、なんのためにあるのか誰も知らない。
 

「じゃあな、お疲れさん!」
 そんな摩天楼を背負って空を翔る影が二つ。
屋根の上を飛ぶように走っていく影が、振り返って叫んだ。
眼下に見える道には、沢山の人達がひしめいている。
「まちやがれええええ!」
 人ごみから怒声が聞こえてくる。
が、追われている者がそんな言葉で待つはずもない。
屋根の上に居る影は小さく笑うと、あっという間に姿を消した。
 この二人こそ、今街を騒がせている怪盗。
『朧月』の二人であった。




「いやあ、楽勝だったな!」
 熊人の青年がソファに体を投げ出しながら言った。
仕事が終わった後の、心地よい疲労が体を支配する。
「なあ、スチール?」
 満面の笑みを、傍らに立つ忍装束の狼人に向けた。
スチールと呼ばれた狼は、心なしか嬉しそうな顔をしている。
やはり仕事が上手くいったことが嬉しいのだろうか。
何事にも真面目に取り組むスチールは、あまり表情を表に出したがらない。
こういう表情を見るのは珍しいことだった。
「まあ今回は邪魔となる者もほぼ居なかったしな…。
とはいえ大輔、今回上手くいったからといってあまり調子に乗るなよ。」
 嬉しそうな表情を噛み殺しながら、スチールは呟く。
「へいへい。」
 また始まったな、とスチールは適当に返事を返しながら聞き流した。
スチールも半ば諦めているのか、それ以上深く追求することもない。
 実際、スチールは大輔よりも2周り以上年上である。
おまけにガサツな若者と、生真面目な年配となればスチールの小言が増えるのも当然といえた。
「わかっとるのか。
あまり気を抜いていては『怪盗』なんぞ務まらんぞ?」
 先ほどまでにじみ出ていた嬉しそうな表情はすっかり影を潜め。
スチールはいつものように苦虫を噛み潰したような顔に戻っていた。
もちろん大輔もおとなしく小言を聞いてやるつもりはない。
むしろ、そういった表情を崩すことの方が好きなのだ。
「まったく、『月』の方はいつまでたっても堅物だな。」
 わざと怪盗としての俗名で呼んでやる。
優等生タイプであるスチールは、そうしてやれば仕事としての立場を強く意識することをよく知っているからだ。
「まあそういうところも可愛いんだけどな。」
 大輔がにやりと笑いながらスチールに手を伸ばした。
ソファから立ち上がり、スチールの忍装束の隙間にゆっくりと手を伸ばす。
スチールの体が一瞬こわばるのがわかった。
それでも手を止めるつもりはない。
その瞬間の表情を見るために手を進めているのだから。
「だ、大輔…。」
 スチールの上ずった声が聞こえる。
みるみるうちに真面目な仮面は剥がれ落ち、目尻がぐっと下がった。
「い、いいのか?」
 そう呟きながらスチールは思わず周囲を確認した。
フローリングの床に簡素な箪笥。
やや大きめのソファと、床が透けて見えるガラステーブル。
誰かが家に忍び込んで隠れているはずもない。
「ほれ。」
 再びソファに体を預け、スチールを誘うように腕を広げてみせる。
その仕草を見て我慢出来なくなったのか、スチールは思い切り大輔の腕の中に飛び込んだ。
「だいすけえええええ。」
 先ほどまでの真面目な表情はどこへやら。
大輔の胸に飛び込み、思い切り頬擦りするその表情は完全に甘えた子供のそれになっていた。
大輔もそれをしっかりと抱きとめ、頭を撫で回してやる。
「まったく、いい歳した親父にはみえねえよなー。んー?」
 そう呟きながら大輔はスチールの顔を持ち上げ、顔を覗き込んでやる。
年齢を追求され、恥ずかしくなってスチールは思わず視線をそらす。
できれば顔を背けたいところではあるが、大輔がスチールの頭を固定しているためそれもできない。
「スチールは今年で何歳だ?」
 にやにやと笑いながら問いかけてくる。
もちろん大輔はスチールの年齢を把握している。
あえて自分の口から言わせて、本人を恥ずかしがらせるためである。
「よ、四十八…。」
 スチールが顔を真っ赤にして呟いた。
ちなみに大輔はまだ十八歳である。
「よーし、よく言えた。」
 思い切り自分の胸にスチールの頭を抱え込む
スチールも大輔の背中に腕を回し、強く抱きつく。
頭を撫でていた大輔の腕がゆっくりとスチールの腰へと下りていった。






 それとほぼ同時刻。
『朧月』が姿をくらませた直後。
街の片隅にある道場で、一人瞑想をする犬人の老人がいた。
柔道着を着たまま座禅を組み、夜の道場に座る。
そのまま、夜明けを迎えるはずだった。
「誰じゃ。」
 何者かが、道場の入り口に立つまでは。
老人の声にこたえて、その者は道場の中に姿を見せた。
「久しぶりじゃな、ロジ。」
 人影は入ってくるなりそう口を開いた。
ロジははじかれるように視線を上げる。
そこにはかつてともに勉学に励んだ学友、狸人のジンが立っていた。
「ジン!いつ戻ったんじゃ!」
 思わず立ち上がり友人の下へと駆け寄る。
「なに、今日の昼頃じゃよ。」
 そういいながら狸は辺りを見回す。
板張りの壁に、畳を敷き詰めた純和風の柔道場。
決して新しい建物ではないが、丁寧に掃除してあるのだろう。
古臭さは感じさせない。
「なかなかいい建物じゃな。」
 そう言いながら視線をロジに移す。
ロジは当然だとばかりに胸を張って見せた。
「まあ、門弟こそ少ないがのう。」
 自嘲気味に笑ってみせる。
実際柔道を習いに来ている人間など数えるほどしか居ない。
それでもロジは生活が成り立てばそれでいいのだが。
「どうじゃ、ゆっくりしていかんか。」
 その言葉にジンは残念そうに首を振る。
「残念ながら、今日は仕事の話じゃ。」
 その言葉をきいたロジも、大げさにため息をついた。
もちろん今から柔道を教えてくれというわけではない。
ロジが営んでいる、いわば裏の顔。
「お主がどこで知ったか知らんが…まさかお主とその話をすることになるとはのう…。」
 ジンの顔つきが変わる。
ふさふさとした眉で目元が隠れた好々爺から、鋭い視線が覗く仕事の顔。
「巷を騒がす二人組みの怪盗、『朧月』。
その頭領がロジ、お前だったとはな。」
 何かの間違いであってくれれば言いと、ロジは思っていた。
孫を柔道場に入れたいとか、そういった類の話であればいいと。
だがジンの口からは予想通りの言葉が出た。
『朧月』として仕事をすること。
それはつまり、盗みの依頼だ。
「街の中央部にあるでかい屋敷は知っとるな。
ターゲットはそこじゃ。」
 言われて、ロジは思わず脳内で地図を思い描いた。
街の中央部は他のエリアと違い、比較的大きな屋敷が集まっている。
ジンが言っているのはその中でも一際大きな屋敷だろう。
「そこでな…、俺がもう一人用意する。
こっちと、盗みで勝負してほしい。」
 その言葉にロジは眉を顰めた。
何かを盗んでくれというのはスタンダードな依頼ではある。
だがその過程において、勝負して欲しいなんて話は聞いた事がない。
「悪いが…そのようなイレギュラーな話はのう…」
「報酬はこれじゃ。」
 断ろうとしたロジを遮ってジンは口を開いた。
後ろ手に持っていたらしいずだ袋から酒瓶を取り出す。
元々味にうるさいジンだが、特に酒に関しては一際うるさい。
その酒のおこぼれをいただく形でロジもよく美味い酒を飲ませてもらったものだ。
そんなジンが、報酬と言って出すほどの酒である。
どう考えても、その味は折り紙つきだろう。
「ほれ、呑むぞ。」
 そういいながらジンはその場に座り込む。
ロジが止めるまもなく、ジンは封を切った。
「こ、ここで呑むのか?」
 その言葉に答える代わりに、ジンは瓶の口をくわえて傾ける。
ジンの喉が動き、中の液体が流れていくのが分かった。
「ほれ。」
 口を離し、瓶を差し出してくる。
ロジは少し迷ってからそれを受け取り、同じように口をつけた。


 確かに酒は美味かった。
酒は美味かったが。
「ううぅ…ジン…。」
 ロジの弱々しい声が道場に響いた。
それとともに、濡れた音が小さく聞こえてくる。
 道場の中で仰向けに倒れるロジと、その上にのしかかるジン。
ジンの顔はロジの胸元にうずめられ、はだけられた胸元に吸い付いている。
「ダメじゃあ…こんな所で…」
 かすれるような声でロジが呟いた。
普段は柔道を教えるための場所で、今は昔の男に押し倒されている。
日常とは異なるシチュエーションに、ロジの体は簡単に反応を返した。
覆いかぶさるジンの腹を、硬い何かが押し上げる。
「そういいながら喜んでおるじゃろ。
まったく、相変わらず淫乱な体をして。」
 嬉しそうに呟くジンと、応えるように体を震わすロジ。
ロジの腕を押さえつけ、無理やり襲っているようにも見える。
だがロジの抵抗は口だけのもので、とても嫌がっているようには見えなかった。
それどころか積極的に腰をジンの腹に押し付けてくる。
両手を開放し、ロジの帯を解きながらゆっくりとジンの頭が降りていく。
「ああ…ジン…。」
 ロジは手でその動きを押さえようとするが、もちろん力は入っていない。
ただ添えているだけのその手は、むしろ促しているようにさえ見えた。
大きく膨らんだ腹を揉みながらジンの舌がへそを捕らえる。
えぐるように侵入してくる舌に、まるで腹を犯されているような感覚だった。
「ううう…。」
 へそを舌で犯し、片手で腹をもみ、空いた片手で腰や脚を撫で回す。
じっくりと昂ぶらせながら、それでも核心部分には触れない。
そんな刺激がロジはもどかしかった。
「どうした、もっと犯して欲しいのか?」
 ジンが顔を上げてにやりと笑った。
内心を見透かされたロジの顔がさっと赤く染まる。
「そ、そんなことは…。」
 思わず視線を逸らしながら否定するロジ。
「さっさと楽になったほうがいいと思うがなあ。」
 呟きながら、再び腹への愛撫に戻るジン。
手が脇腹を撫で上げ、跳ねるようにロジの体が動く。
刺激が欲しくて腰を突き上げるが、ジンの体は既に腰から離れている。
擦り付けることも出来ず、熱くなった芯をもてあますロジ。
そっとジンの肩に手をかけて下方へと誘導しようとするが、ジンの抵抗にあってそれも敵わない。
「ジン…その…。」
 恥ずかしくて次の言葉が出ない。
「まったくしょうがない。
口で言えないなら、態度で示せるか?」
 そういいながらロジから体を離し、ジンは仰向けになって見せた。
ロジの顔に戸惑いの色が浮かぶ。
ジンの言っていることは分かる。
つまり、して欲しいことをさきにしろというコトなのだ。
 しばらく悩むが、やがておずおずとロジの手が伸びる。
大きく盛り上がった股間にそっと触れる。
だがジンは何も言わない。
そのままゆっくりとロジの手が動き、ジンのズボンを脱がしていく。
どうやら下には何も穿いていなかったらしい。
ズボンが少し下りると、既に大きくなったものがすぐに飛び出してきた。
大きな玉の上から、太い血管が巻きついた太いモノが天を衝くようにそそり立っている。
それを見たロジの目の色が変わる。
先ほどまでの恥ずかしさは既に消えてしまった。
ただ目の前にあるそれが欲しかった。
「おおっ…。」
 迷わずむさぼりつくロジに、ジンは思わず声を漏らした。
熱くぬめぬめした粘膜がジンを包み込む。
息を荒げながら、ロジはジンのモノを激しく吸い上げた。
ぐちゃぐちゃと、先程よりも大きな音が響き渡る。
先端からあふれ出る体液を味わいながら、ロジは必死にそれを吸い上げる。
「まったく、素直になれば可愛いな。」
 そういいながらジンはロジの頭を撫でてやる。
ロジは嬉しそうに顔を上げ、唾液にまみれたモノに頬擦りをした。
ざらざらとロジの髭がこすり付けられる。
その刺激で先端からだらだらと先走りが溢れた。
慌ててそれを舐め取るロジ。
ジンは体を起こし、路地の頭を掻き抱く。
「ほら、立ってみろ。」
 耳元で囁かれた言葉にロジは素直に従った。
座るジンの目の前に、大きく膨らんだロジの下半身がある。
そっと手を伸ばし紐をとくと、重力に引かれて下衣が落ちた。
既にしどしどに濡れた褌が大きく盛り上がっている。
ジンはにやりと笑いながら、その先端を指で撫で回した。
「ジンっ…あっ…。」
 ビクビクと体を震わせ、さらに先端から先走りを漏らしていく。
あっという間にジンの指先は濡れてしまった。
「本当に淫乱な体じゃ。
弟子にも食わせてたんじゃなかろうな?」
 褌の紐を解きながら、見上げるようにジンが呟く。
ロジは慌てて首をふった。
「まさか、そのような事をワシが…あああっ!」
 否定の言葉が嬌声に遮られる。
見下ろせばジンの頭は既にロジの股間にうずめられている。
舌がロジの竿全体に絡みついてきた。
同時に濡れた指が後ろの穴に侵入してくる。
膝が崩れ落ちそうになるのを、ジンの肩に手をついて必死にこらえる。
「あっ…あああっ、あああ…。」
 ずるずると飲み込まれていく自分の竿を見下ろし、肩を掴む手に力を込めながら必死で耐える。
しかし前と後ろを同時に攻められてはそう長く耐えていることもできない。
ジンにもたれるようにして、少しずつロジは崩れ落ちていった。
「まったく、もう耐えられないか?」
 ジンが優しくロジを横たえてやる。
リードされるままに床に横たわるロジ。
下衣も褌も既に無く、ただはだけた上衣を羽織っているだけの道場主。
そんなロジを見下ろしながら、ジンは素早く服を脱ぐとロジに覆いかぶさった。
脚を抱えて広げさせ、自らの太いものをあてがう。
「欲しいか?」
 先端でぐりぐりとロジを刺激する。
ロジはジンの言葉に素直に頷いた。
「ほれ、口で言ってみろ。」
 頷いただけでは満足せず、ジンは意地悪な笑みを浮かべながら路地に囁く。
顔を真赤にしながら、ロジはその腕をジンの首元に回した。
「入れて…くれ…。」
 顔が見えないようにジンに抱きつきながら囁いた。
その言葉を聞いてジンは体を離し、真っ直ぐにロジの顔を見つめる。
さらに顔を赤くして視線を逸らすロジ。
満足したように、ジンはゆっくりと腰を進めた。
「おおおっ!ジン、ジンっ!」
 じりじりと押し広げられる感覚に、ロジは思わず声を上げた。
強く抱きつき、久しぶりの犯される感覚を必死でこらえる。
しばらく使っていなかった部分にはジンの竿は少々大きすぎたらしく、ロジの顔は苦痛に歪んでいる。
「少し我慢しろよ。」
 そういいながらロジの頭を抱え、ジンはロジの口に自らのそれを重ねた。
舌が口内に侵入し、蹂躙するように暴れ回る。
その間にも片手で脚を抱え、さらにゆっくりと腰を進めていくジン。
「んっ…、むうう、んんん!」
 口を塞がれあえぐことも出来ないロジが、与えられる刺激に耐えられず必死に声を漏らす。
上下でつながり身も心も蹂躙されながらも、ロジは積極的にその快感を受け入れていた。
意識的に力をいれ、ジンの太いものを締め上げてやる。
「ぬっ…相変わらずお前は具合がいいな…。」
 咄嗟に口を離しジンが呟く。
さらに締め付けながら、ロジはゆったりと腰を振った。
「全く淫乱な…。
本当に、他の男に許しとらんだろうな?」
 にやにやと笑いながらジンが再び訪ねた。
「馬鹿な…。
こんなこと、お主としか…あああっ!」
 突然強く突き上げられ、ロジの言葉が途切れる。
「それを聞いて安心した。
お前は俺だけのものであればいい。」
 そういいながらも、ジンは激しく突き上げる。
腰骨がぶつかって、ガツガツと鈍い音が響くようだった。
「ああっ、はっ、ジンっ、ジンっ!」
 突き上げられるリズムに合わせるようにロジの声が漏れる。
必死に求めてくるロジに、ジンは濃厚な口付けを返してやった。
 内面を擦り上げられ、ロジのモノもこの上なく大きくなっている。
二人の腹の間で体液を撒き散らしながらロジ自身が暴れていた。
頭を抱えていた手を離し、優しく擦るようにその先端を握る。
突然与えられた強い刺激にロジの目が見開かれた。
「んあああああっ!ジンっ!!」
 ロジの絶叫とも取れるような声と、ほぼ同時に精が放たれた。
ビクビクと暴れながら、腹の上に体液を撒き散らす。
ロジが果てたのにあわせ、ジンも腰の動きを激しくした。
「ロジ…俺も…出すぞッ!」
 激しく締め付けられ、ジンもあっという間に絶頂に達した。
最奥で動きを止め、中に白濁を送り込む。
快楽を吐き出し、やがて全身の力を抜いて二人は繋がったままその場に崩れた。
「まったく、いきなり襲い掛かりおって…。」
 少し酒が抜けたのだろうか。
ロジが不満そうに呟いた。
「そういいながら喜んどったのは誰だ?」
 ジンが笑いながら返す。
覗き込んだロジの顔は、少し赤らんでいた。
「うるさいわい。
ほれ、早く抜かんか。
次はわしの番じゃ。」
「まあそういうな。
俺も久しぶりじゃからな…。」
 そう言いながらジンは、ロジの胸に顔をうずめる。
ロジも不満そうな顔はしているが、その頭をそっと抱きしめてやった。
「ああ、これコミで報酬だからな。」
 姿勢を変えずに呟くジンに、ロジの動きが止まった。
そういわれれば、あの酒はそもそも依頼料という話だったはずだ。
さらに言えば、恐らくこの情事も報酬ということなのだろう。
「お主…っ!」
 酒を飲み、存分に楽しんでしまった身としては何も言い返せない。
「まあそう怒るな。
今からは依頼関係なしだ。
朝まで付き合ってやるわい。」
 にやりと意地悪い笑みを浮かべながらジンが唇を重ねた。
「まったく、絶倫なジジイめ。」
 ロジの言葉に、未だ中に残っていたジンが動く。
「お前もな。」
 ジンの手の中で、ロジは再び硬さを取り戻していった。
そして、二人はどちらからともなく何度目かの口付けを交わす。
深い、深い口付けだった。





 翌日深夜。
ロジに呼び出され、大輔とスチールが道場に顔を出した。
この時間に呼び出されたからには言うまでも無い、仕事の話である。
大抵の場合は事前情報を含めて先に話が来ることが多い。
今回のように緊急で呼び出されるのは、まさにまれであった。
「珍しいな、爺ちゃんがこんなに急な仕事入れるなんて。」
 大輔が面倒臭そうに言った。
ロジは怪盗『朧月』の頭領であり、年齢的にも大輔よりもずっと年上である。
そんなロジを臆面もなく「爺ちゃん」と呼ぶのは、ロジが大輔の育ての親でもあるからだ。
仕事の面では厳しいロジだが、プライベートでは比較的甘かったためであろうか。
幼い頃には素直な少年であった大輔も、すっかり生意気になってしまった。
「仕事が入ってきたのが急じゃったからの。
まあしょうがないじゃろ。」
 ロジが視線を逸らして適当に誤魔化した。
「しかしいつもの頭領であれば、急な仕事は断るのでは…。」
 話を逸らそうとするロジを、スチールが追求する。
もちろんスチールにそこまで深い意図があったわけではない。
ただ、後ろ暗い所があるロジが攻められている気分になっただけだ。
「その…古い知り合いからの頼みでの。
断り切れんかったんじゃ。」
 その言葉に二人は一応の納得をしたようである。
ロジは気づかれないようにそっと胸をなでおろした。
まさか弟子でもある二人に「前払いでセックスしました」とは言えない。
「それで、今回の仕事内容は?」
 大輔が大きなあくびをした。
ロジは頷きながら懐から地図を取り出す。
「中央区の住宅街にある、ミスター・オスミウム邸。」
 床に地図を広げ、地図の中央部を指差しながらロジは二人を見上げた。
ロジの言葉にスチールの片眉がぴくんと跳ねる。
「ミスター・オスミウム…。」
「知ってんのか?」
 大輔の問いかけに、スチールが小さく頷いた。
「確か、先代が事業に成功して成り上がった…いわば二代目のボンボンだ。
最近は街の有力者に取り入って裏から政治に口を出しているとの噂も聞くが。」
 スチールの言葉にロジは頷く。
ミスター・オスミウムはただの2代目ということで、特に噂に上るような人物でもなかった。
スチールが話に聞くほど噂に上がるようになったのは、やはり政治に口を出すようになってからだ。
自治体として、一つの国といっても過言ではないほどしっかりとした政治体制を持つこの街は、
その分政治に携わることが大きな名誉となる。
ミスター・オスミウムは財を成した者として、誰もが欲する名誉を求めたのだ。
それ自体はそう珍しいことではないが、やはり以前から携わっていたものは面白くないだろう。
特に古くから取り入ってきた老人連中には、成り上がりの若造として相当嫌われているようである。
「もっとも、最近は別方面で名前が売れてきておるようじゃが。」
 ロジの言葉に、スチールが大輔に向けていた視線を戻した。
「ほれ、話題になっとる連続失踪事件があるじゃろ。
あれの新しい被害者が、オスミウム夫人だそうじゃ。」
 言われてスチールが納得したように頷いた。
最近この街では、若い女性が相次いで姿を消している。
結婚しているとはいえ、まだ20代前半であったオスミウム夫人が、新しい被害者になったという事である。
スチールとしても情報収集はまめにしているつもりであるから、そのスチールが知らないということはまだ一般には情報が出回っていないのだろう。
「ああ、もうそういうのどうでもいいんだよ。
結局今回は何盗むんだ?」
 痺れを切らした大輔が口を挟む。
侵入先の細かい情報には興味が無いらしい。
「大輔。
そのようなことではいずれ足元をすくわれるぞ。」
 スチールが渋い顔をしていった。
大輔は視線も合わせずに手を振って適当に答える。
「まったく…。
今回は、『思い出』だそうじゃ。」
「はあ?」
 ロジの言葉に、大輔が間の抜けた声を上げた。
もっとも、思い出を盗めなどといわれてはそれもしょうがないかもしれない。
「ようは何か特定のものがあるわけではなく、
居なくなった夫人との思い出がある「何か」を盗んで来いという事らしい。」
 ロジの説明に大輔は大きくため息をついた。
こういう面倒な話が彼は大嫌いなのだ。
対象が特定されているほうが、手段を考えるだけで済むので気は楽だ。
「その仕事、請けないといけないのか…?」
 大輔が頭を抱えて言う。
先ほどもそういった話はしたはずだが、よっぽど気が乗らないのだろう。
「すまんが、今回はわしの顔を立てると思ってくれ。」
 再びため息。
ロジにここまで言われては、大輔としてもすっぽかすわけにはいかなかった。
「じゃあ、とりあえず忍び込むか…。」
 その言葉にロジが立ち上がり、首を横に振った。
「悪いが、今回はそれだけではないんじゃ。
なんでももう一人、盗みにくる人物がいての。
そいつと勝負してもらいたいらしい。」
 しばらくの沈黙。
ロジの言っていることを噛み締め、飲み込み。
「げえええええええええええ!」
 ようやく理解したのか、大輔が大きな声で叫んだ。
「ぜってえいやだ!
んな面倒なことしてられっか!」
 スチールとしても、確かに大輔のいうことも判らなくはない。
口は開いていないが、やはりこういう話は反対したいところである。
だが頭領であるロジのいう事は絶対であるし、恩人であるロジの顔を潰すわけにもいかない。
「なんだなんだ、威勢のいい坊主じゃな。」
 スチールが口を開くのを躊躇っていると、後ろから声が聞こえた。
慌てて振り向けば、人影が二つ。
ロジと同い年くらいの、狸人の老人。
恐らく彼が今回の依頼主なのだろう。
そして、簡素な黒い服に身を包んだ猫人の少年。
「この坊主が『朧月』か?」
 老人がロジに歩み寄った。
灰猫の少年は無言で老人についていく。
身のこなしは決して凡人のものではない。
どう見ても、この少年が相手だと思えた。
「生意気な方が『朧』じゃよ。」
 ロジが狸人に答えた。
ふむ、と呟いて改めて大輔とスチールに向き直る。
「俺が依頼人のジン。
こっちの猫が、お前たちの相手のアールじゃ。」
 スチールが軽く会釈をする。
が、アールと呼ばれた少年も、大輔もじっと向かい合ったまま動かない。
やがてアールが、小さく鼻で笑った。
「このガキ…!」
 大輔もまだ若いが、目の前の少年はさらに若い。
むしろ幼いとでも言うべきだろうか。
そんな少年に鼻で笑われて、大輔はかっときたのである。
「よせ、大輔。」
 スチールが、掴みかかろうとする大輔の肩を掴んで制止した。
既にアールは視線を逸らし、大輔には興味も無いといった様子を見せている。
「盗む対象はロジから聞いたな?」
 二人の態度を無視するかのように、ジンが口を開いた。
返事をしない大輔に嘆息しながら、スチールがしぶしぶ頷いた。
「それじゃあ、早速行ってもらおうかの。」
「先生。」
 ジンの言葉に大輔が反論する前に、アールが口を開いた。
「こんな二人に頼らなくとも、私一人で十分ではないですか?」
 そういいながら、アールが大輔に視線を向けた。
いかにも挑戦的な視線である。
「てめえ、俺がお前に負けるとでもいいたいのか!」
 スチールの制止を振り切って、大輔がアールに掴みかかる。
その手を、アールはひらりとかわした。
「勝負にならないのに、する必要があります?」
 そういってアールはいやらしく微笑んだ。
「この…!」
 本格的に喧嘩になる前に、ロジが間に割ってはいる。
流石にロジに殴りかかるわけにもいかず、大輔がすんでの所で踏みとどまった。
「文句があるなら、結果で見せてみい。」
 ロジの言葉に大輔がぎっとアールを睨みつける。
軽くその視線を受け流し、アールが無言で走り出した。
足音も立てず、風のようにその姿が道場から消える。
「いくぞ、スチール!」
 後を追って大輔も走り出した。
スチールは小さくため息をついて、ジンにちらりと視線をやる。
視線に気づいたジンは、笑顔を返して見せた。
一瞬の後、スチールも大輔の後を追う。
 二人が部屋に入ってきた際に、アールはともかくジンの気配すら感じなかった。
恐らくジンも只者ではあるまい。
だが今は怒りで暴走しそうな大輔を押さえるのが先と判断した。
ロジとは旧知の仲でもあるらしいし、例え裏があったとしてもロジの身に危険が及ぶレベルではないだろう。
スチールはそこまで考えて、アールと大輔のことに集中するべく頭を切り替えた。
 後には老人が二人残される。
「まったく、挑発して乗せるところは相変わらずじゃのう。」
 ロジが大きくため息をついた。
彼自身も、ジンのこういうところには何度と無く乗せられた経験がある。
「まあ手っ取り早いしな。
それよりも…上手くいってくれればいいが。」
 ジンの呟きは、ロジに向けられたものではない。
それに気がついたロジは何も返さず、真っ直ぐにジンを見つめていた。





「待ちやがれ、この野郎!」
 大輔が屋根の上を走りながら叫んだ。
視線の先には、飛ぶように駆けていくアールの後姿。
怪盗をしている以上、大輔も常人から考えれば相当身軽な方である。
だが前を走る少年のそれは、さらに早く。
まさに規格外とも思えるほどであった。
「大輔!」
 後ろからスチールが追いついてくる。
少し息が上がっているのは、大輔に追いつくために足を速めたからだろう。
大輔も、前をいくアールも体力を消費しない程度には速度を抑えてある。
「少し落ち着け。
今回は下調べもしておらぬぞ。」
 そういわれ、大輔は思わず歯噛みした。
アールを追って目的の場所に飛び込むのは簡単だが、スチールが言うように今回は事前情報が何も無い。
飛び込んだ先に人がいては目も当てられない状況になる。
スチールがいっていることが正しいことは分かるのだ。
「…どうする?」
 しぶしぶといった風に、大輔は口を開いた。
スチールは少しだけ考えるような表情を見せる。
「奴が拙者らにはない情報を持っているかもしれん。
ともかくは後について様子見、後に外部から情報収集といった所だろうな。」
「アイツの後に続くのか…。」
「最終的に勝てばいいだろう。」
 スチールがいうことは基本的に常に正しい。
今回も例に漏れず、恐らく現状で考えうるもっとも正しい意見だろう。
だが大輔はそれよりも、相手が気に食わないという感情が強くある。
例えスチールのいっていることが正論でも、何とか反論したいと思ってしまうのだ。
「…結局、何盗めばいいんだ?」
 言い合っても不毛であることは分かっているのだろう。
反論はひとまず措いておき、なるべく建設的な話を振る。
「思い出、か。
どんなものであれ、夫婦間で共に使用したりしていればある程度の思い出は存在するだろうが…。」
「でもそれどうやって証明するんだよ?
証明が無きゃ、極端な話そこらの石ころ拾って『二人が出会うきっかけを作ったものです』なんて言うのと変わらないだろ。」
 スチールが頷く。
思い出というものは、言ってしまえば過去の出来事である。
過去を盗むということは不可能であるから、そこに立ち戻るための「錨」を盗むのが順当と考えられた。
つまり客観的に見ても、過去に立ち戻るための鍵となるもの。
「基本は二人でしか持ち得ないものだな。
二人、あるいはどちらかが作った手作りの物であれば証明は行いやすい。
かつ過去に繋がりやすいものといえば。」
 そこまで言われてようやく大輔も思い当たる。
過去と繋がりやすい、手作りのもの。
「日記、か。」
「妥当なところだろうな。
もちろん、あればの話だが。」
 確かにスチールの言うとおり、日記は必ずしも誰もがつけているわけではない。
とはいえきちんとした形ではなくとも、手書きで何か過去の記録が残っていればとりあえずの言い訳は立つ。
「ともかくは居なくなった夫人の寝室を探すか。」
 ミスター・オスミウム本人が日記をつけている可能性もあるし、古いものであれば恐らく二人の思い出も綴られているだろう。
だが時間はもはや深夜。
日記がしまわれるような、プライベートルームには本人がいると考えるのが妥当だろう。
ならば主の居ない部屋を探る方が話は早い。
「少しは落ち着いたか?」
 大輔は憮然とした表情で頷いた。
冷静に頭を回せば、興奮はひとまず落ち着く。
もちろん再度頭に血が上る可能性もあるが、その度にスチールが手綱を取ってやればいい。
「丁度いい。
あれが、今回の目的地だ。」
 そう言ってスチールが一際大きな家を指差した。
見ようによっては小さな城とも見えるその家の屋根に、アールが飛び移るのが見える。
大輔とスチールも軽々と塀を乗り越え、離れだと思われる塔に飛び移った。
「さて、お手並み拝見といくか。」
 大輔が呟いた。
視線の先には、屋根の上をゆっくりと走るアールの姿。
「どうやらこちら同様下調べはしていないらしいな。」
 動きを見ながらスチールが呟いた。
アールは屋根から壁を伝い、窓辺に下りては一つ一つ中を確認しているようだった。
「あんまり効率的とはいえねえなあ。」
 そういいながら大輔が笑う。
大輔達の位置から見ても、窓の数だけで20は有りそうだ。
一面だけでその数なのだから、裏手や別塔を含めればもっと数は増えるだろう。
それを全て覗いて回るのは、確かにあまりいい手段ではない。
もっとも事前に予告を入れたりしている訳ではないので、少しはなれたところにあるガス灯の明りだけでは見つかることもそうは無いだろうが。
「なら大輔。
拙者らはどう動く?」
「面倒だし、とにかく中にはいっちまおうぜ。」
 そう言って大輔は屋根を蹴った。
スチールも無言で後に続く。
普段は事前に下調べをしてルートも有る程度把握しての侵入を行う。
だが、場合によっては下調べが間違っていたり忍び込むまでに状況が変わっている場合もある。
そういう場合、二人はひとまず乗り込んでしてしまうことにしていた。
「ここでいいか?」
 大輔が振り返って訪ねた。
二人がいる窓は、玄関口から遠すぎず近すぎず。
カーテンもきちんと閉まっておらず、中は恐らく倉庫と思われる部屋。
スチールは無言で、懐から一本刃物を取り出す。
握りから小さな両刃の刀身が出た、苦無と呼ばれる忍具である。
スチールはそっと窓に近寄ると、素早く手を動かす。
キン、と小さな音を立てて窓ガラスの一部に穴が開いた。
切り取られたガラスはいつの間にかスチールの手の中に落ちてきている。
少しだけ待ってみるが、やはり中から人がいる気配は無い。
スチールは穴から手を入れて鍵をはずすと、音を立てないようにそっと窓を開けた。
そのまま滑るように部屋の中へ身を躍らせる。
大輔も後に続こうとして、ふと思い出したように外を見る。
辺りをざっと見渡しても、アールの姿は見えなかった。
「いくぞ。」
 中からスチールの声が聞こえる。
恐らくここからでは見えない位置の窓を探っているのだろうと考え、大輔も部屋の中へと身を躍らせた。
「…なんだこれ。」
 思わず大輔は呟いた。
もちろん周囲に人がいないことを確認しての発言である。
「まあ、確かにこれは…。」
 スチールが眉を顰めて同意した。
そこにあるのは、木棚に置かれた摩訶不思議な道具。
何かよくわからない文様が描かれた布や、大量に並ぶ蝋燭。
本物と思しき剣や、何が詰まっているのか分からないにごった水の入った瓶詰め。
そんな得体の知れないものが、所狭しと並べられていた。
「悪魔の召喚でもする気か?」
 大輔が呆れたように呟いた。
もちろん悪魔なんてものが実在するとは思っていない。
世の中には不思議な出来事があるし、いわゆる超常的な能力が存在していることも知っている。
身近な例で言えば、頭領であるロジはそういった類の人間だ。
それでも悪魔となると、どうしても胡散臭さを感じずにはいられない。
「まあ金持ちは趣味が悪くなるのが相場ではあるがな…。」
 スチールはそう呟くと、興味無さそうに入り口へと向かった。
大輔はいくつかの物に顔を近づけてじっと見つめたりしている。
もちろん手に取るような迂闊なことはしていないが。
「ほら大輔、いくぞ。」
 そっと扉を開き、廊下の様子を伺う。
燭台が壁に並んでいるが、火は灯されていない。
窓から月明かりが差し込むだけの廊下には、誰かが歩く気配もなかった。
振り返り、大輔が後ろにいるのを確認してスチールが廊下へと滑り出る。
大輔も後に続き、音がしないよう気をつけながら後ろでに扉を閉めた。
 そのまま二人は玄関口へと向かって走る。
柔らかな絨毯は気を使うことも無く、二人の足音を消してくれた。
外から見ても玄関の場所は簡単に分かる。
やがて迷うことも無く二人は玄関と思われる場所にたどり着いた。
「広え…。」
 思わず大輔は呟く。
玄関ホールと呼ぶべきそこは、それだけで普通の家が一件建ちそうなほどに広かった。
今までにも大きな屋敷に忍び込んだことはあるが、まさにこの屋敷は別格である。
「これは…探すのは骨かもしれんな。」
 スチールが小さくため息をつきながら、その場に屈み込んだ。
大輔も少し離れた場所で屈み込み、絨毯を調べている。
目的のものが隠されているのは恐らくプライベートな部屋だろう。
一般的にはそれは寝室である可能性が高い。
寝室は必ず一日一度は入る部屋だ。
入り口からもっとも使われている通路を探っていけば比較的早く寝室にはたどり着くことが出来る。
 もっとも、これだけの規模の屋敷であるから目論見がはずれる可能性は十分にある。
それでも日記をつけるようなプライベートな部屋と、寝室が大きく離れていることはそうないだろうし、
何より日記があるのならそこも寝室のように頻繁に訪れる部屋には違いないだろう。
「こっちだな。」
 大輔が立ち上がり、一本の廊下を指差した。
スチールが近づき、ざっと床を調べる。
念のため、燭台にある蝋燭を調べてみる。
蝋燭のかすが大量にたまっており、頻繁に使っている様子が見て取れた。
「間違い無さそうだな。」
 二人は顔を見合わせて頷き合うと、再び音も無く走り出した。
「そういえば、あの少年は?」
 スチールが囁いた。
大輔は首を振って答える。
「侵入するときには姿が見えなかったな。」
 まだ外から様子を伺っているのだろうか。
だがあれほどの自信を持っていたのだから、そんな単純なことをいつまでも繰り返しているとも考え難い。
何か考え合ってのことなのだろうか。
考えている間に、大輔が足を止めた。
スチールも足を止め、辺りを見回す。
ドアとドアの感覚が、先程よりも少し広がっている。
部屋の中のスペースが大きくとられている証拠だ。
この屋敷は全てが大きく作られているし、個人の好みというものももちろん反映される。
だが家は誰でも建てる技術があるわけではない。
特にこの街に限れば、設計の際の癖や有る程度の思想のようなものが二人には想像がつく。
この広さであれば寝室、この広さであれば客間、といったように
外の窓の配置とあわせてある程度の予測はつくのだ。
「この辺だな…。」
 先程よりも小さな声で大輔が呟いた。
目的としているのは寝室であるが、それが夫人のものなのかミスター・オスミウム本人のものであるかまでは判別していない。
適当に開けた先で、誰かが寝ている可能性だってあるのだ。
 ふと、人の気配を感じた。
二人は慌てて壁を蹴り、天井との間に手足を張って隙間に張り付く。
ややあって、近くの扉が開いた。
燭台をもった、太った熊人が扉から顔を覗かせる。
着ている寝巻きは、遠目にも質のよさが伺える。
恐らく彼がミスター・オスミウム本人だろう。
 熊人はキョロキョロと辺りをうかがって、ゆっくりと歩き出した。
思わず大輔はスチールと顔を見合わせる。
スチールは大輔を見つめて、小さく頷く。
ともかく、じっとして通り過ぎるのを待つべきだとの判断である。
 少しずつ、蝋燭の明りが遠ざかっていった。
十分に遠ざかったのを確認して、二人は廊下に降り立つ。
「拙者が行こう。」
 大輔の返事を待つことも無く、スチールが走り出した。
先ほどの熊人の後を付けようというのである。
スチールの後ろ姿に一瞬だけ視線を向けた後、大輔は先ほど開いた扉の中の様子を窺った。
誰かが続いて出てくることも、中で動く音も聞こえない。
流石に妻がいなくなった直後に誰かと同衾するような人物ではなかったようである。
大輔はドアノブに手をかけ、そっと扉を開いた。
そのまま身を低くして部屋の中に滑り込む。
有る程度予想していたとおり、広い部屋に大きなベッドが一つ。
シーツにしわが寄っているのは先ほどまで寝ていたからだろう。
「あのおっさんの部屋か…。
少し探してみるかな。」
 口の中で小さく呟いて、部屋の中を歩き回る。
だが探すまでも無く、一冊の日記帳が目に飛び込んできた。
ベッドの中、大きな枕の影に小さな日記帳が置いてある。
可愛らしい花柄の表紙は、ミスター・オスミウムには似合わない。
ひょっとしたら、いきなり目当ての物が見つかったかもしれなかった。
「これ…。」
 大輔がベッドに歩み寄り、日記帳を手にしようとしたその瞬間。
何か細いものが、踊るように視界に飛び込んできた。
咄嗟に身を引いて距離をとる。
細長いものは細い鎖のようで、それは大輔に向かわずに枕もとの日記帳に絡みついた。
「しまった!」
 思ったときにはもう遅い。
日記帳が跳ねるように飛び、鎖の端を握る人物の手に収まった。
黒い、動きやすい服装に灰色の毛並。
先ほどまで姿が見えなかった、アールだ。
「てめえ!」
 思わず大輔は声を荒げる。
だが全く気にした様子も見せず、アールはパラパラと日記をめくって中を改めた。
「探し物に関してはそちらに一日の長があるのは認めますから。
なら見つけたところを、貰った方がいいでしょう?」
 小さく笑いながらアールが視線を上げた。
どうやら窓を一つ一つ改めていたのは、大輔たちが素早く仕事に移るために仕向けるものだったらしい。
「返しやがれっ!」
 助走もなくその場を蹴り、ベッドを飛び越えた。
そのまま一気にアールへと肉薄する。
だが相手もそれくらいは予測していたのだろう。
身をかがめ、そのまま大輔に対して脚払いを仕掛けてくる。
着地地点を狙ってくる脚払いを交わすため、空中で体勢をわざと崩してやや離れたところに手を着く。
そのまま床を転がって間合いを取る。
その間に、相手は部屋から駆け出していた。
「くそっ!」
 慌てて大輔も後を追う。
扉から駆け出そうとしたその瞬間、勢いよく扉が閉められた。
「がっ!」
 扉に胸を挟まれて思わず口から声が漏れる。
普段の大輔なら、この程度は予測出来たであろうし、たとえ予測してないくても咄嗟にかわすことも出来ただろう。
だが今は完全に頭に血が上っている。
冷静な判断が出来ず、普段なら食らわない攻撃を食らってしまったのだ。
「名のある『怪盗』と聞いていましたから少し期待していたんですけれど。
私みたいなコソドロに負けてるようじゃ、程度が知れますね。」
 胸を挟む扉がぐいぐいと押し付けられる。
不自然な体勢で固定されているため、押し返すこともままならない。
「ふ、ざけんなあああ!」
 それでも思い切り押し返す。
アールはそれを見越していたかのように、すっと体を離した。
一気に開放され、押し返そうとしていた力で大輔の体が床に投げ出される。
「それじゃあ。」
 それだけ言い残して、アールは走り去った。
大輔も慌てて身を起こすが、手近な窓から外に出たのだろう。
辺りに姿は見えない。
「くそっ!くそっ!」
 近くの窓から空を見上げれば、屋根の上に飛び上がるアールの姿が見えた。
相手は足が速いが、この街の屋根なら大輔の方が詳しい。
全速力で走り、上手く飛べば追いつけないことは無いだろう。
「大輔!」
 突然名前が呼ばれた。
振り返ればスチールが立っている。
「アイツに盗られた!さっさと追うぞ!」
 苛立っている大輔は、スチールに向かって怒鳴り散らす。
だがスチールは全く意に介さず、外に出ようとする大輔の肩を掴んで制止した。
「待て、大輔。」
「止めんなよ、アイツが逃げちまうだろ!」
 肩にかけられた腕を振り解く。
だがスチールもその程度で諦めるつもりは無い。
「大輔!」
 振りほどかれた手で、大輔の腕を掴む。
じっと正面から見詰め合う二人。
「冷静になれ。
少年に勝てればいいのか?」
 大輔は何も答えない。
今は勝負のことしか頭にないのだ。
「着いて来い。」
 そう言ってスチールが駆け出す。
大輔は一瞬の逡巡の後、後について走り出した。
廊下を右に左にと進み、やがて一つの窓から外へ出る。
先ほど使っていたのだろう、既にそこにはロープが垂らされていた。
ロープを掴んで、下の階の窓へと近づく。
スチールは身振りで中を覗くように促した。
大輔はそれにしたがって窓の中を覗く。
「…!」
 どうやら部屋の中は倉庫であるらしい。
その倉庫の中で、一人で涙を流すミスター・オスミウムの姿があった。
手にしているのは恐らく失踪した夫人の服だろう。
そういえば、夫人のものと思しき日記帳がベッドの枕元に置かれていた。
もしあの日記帳が夫人のものであるなら、眠れなかったミスター・オスミウム本人が読んでいたというコトだろう。
そしてここに着ているという事は、その悲しみに耐えられずに夫人の持ち物に触れに来たというところか。
「大輔、お前は盗む目的を考えているか?
ただ盗んで、少年に勝てばいいのか?」
 目の前の彼は、夫人がいなくなることで間違いなく悲しんでいる。
そこに加えて、日記が盗まれたと知ればどうなるだろう。
「ただ盗むだけなら泥棒と変わらないだろう。
大輔、お前は『怪盗』として何故盗む?」
 言われてようやく思い出した。
怪盗として出発を決意した日に誓ったことを。
大輔は窓に手をかける。
どうやら鍵はかかっていないらしく、窓は簡単に開いた。
ミスター・オスミウムが気づいたのか窓を見上げる。
それでも構わず、大輔は窓の中に身を躍らせた。
「誰だ…!?」
 大切なものなのだろう、ミスター・オスミウムは腕の中の物を隠すように抱きしめる。
「怪盗『朧』。」
「同じく、『月』。」
 大輔に続き、スチールも姿を表す。
『朧月』の名前は彼も知っていたらしい。
その名前を聞いてミスター・オスミウムの顔が強張る。
「今回俺達『朧月』と、もう一人に依頼が入った。
ミスター・オスミウム。
あんたの奥さんの思い出を盗って来いって話だ。」
「やめてくれ!」
 大輔の言葉にミスター・オスミウムが叫ぶ。
胸にあるものを抱きしめ、後ろにおいてある箱をかばうように立つ。
「妻がいなくなって…遺品まで失ったら私にどうしろというのだ!」
 悲痛な叫びが響く。
すっと、大輔が目を細めた。
「…今は、もう一人の泥棒があんたの寝室にあった日記帳を持ってる。
でも、待っててくれ。
必ず取り返してくるから。」
 彼の目が大きく見開かれる。
だが先ほどのように叫びださないのは、理解出来ないからだろう。
何故盗みに来たはずの『朧月』が、「取り返す」などと言うのか。
「…俺達は『泥棒』じゃない。
『怪盗』なんだ。
ただ物を盗ればいいわけじゃない。
物を盗ることで、誰かを幸せにしたいんだ。」
 半分は、自分に言い聞かせるためだろう。
大輔が呟いた。
ミスター・オスミウムはどうしていいのか分からないといったように立ち尽くす。
「拙者達にとって、盗むことは目的ではない。
それは何かを成し遂げる手段にすぎない。」
 スチールが後を続けた。
泥棒ではなく、怪盗になるということ。
考え方は様々あるだろう。
そんな中で、スチールは大輔の考えに共感した。
盗むことで何か物を手に入れるのではなく、盗むことによって誰かに笑いをもたらせればいいと。
だから自分たちは「泥棒」ではなく「怪盗」なのだと。
そのついでに、盗む過程が楽しめればいうことは無い。
大輔はかつてそう語った。
 単純に物を求めては「泥棒」に過ぎないのだ。
過程を楽しみ、結果を導く。
それでこそ「怪盗」になれる。
先ほどまでの大輔はそれを忘れていた。
だから思い出して欲しかったのだ。
「…取り戻して、くれるのですか。
妻の、形見を。」
 ミスター・オスミウムの言葉に大輔は頷く。
彼は大輔の返答を見て、その場に崩れ落ちた。
「お願いします…もう…、もう私にはこれしか…。」
 そういいながら再び涙を流す。
大輔はスチールを振り返ると、小さく頷いて窓から身を躍らせた。
スチールも後を追おうとして、一瞬振り返る。
相変わらず、ミスター・オスミウムはその場に屈み込んで涙を流していた。





 一方その頃。
居間に移ったロジとジンは、熱い茶を二人で啜っていた。
「いい茶葉を使っておるな。」
 ジンの言葉にロジは小さく笑う。
確かに茶葉にはある程度こだわっている。
「む、茶柱…。」
 ジンが湯のみの中を覗き込んで呟いた。
覗き込んでみれば確かに茶柱が一本立っている。
「縁起がいいな。」
 嬉しそうに呟くジン。
この場合の縁起は、果たしてロジにとってもいいものだろうか。
「一つ、聞きたいんじゃが。」
 ロジが口を開いた。
ジンが微笑んだまま視線を上げる。
「今更聞くのも遅いとは思うがの…。
お主、この依頼で何をしたい?」
 ロジの言葉にジンは少し考える。
果たして本音を話す気があるのだろうか。
「その前に、俺からも一つ聞かせてくれ。」
 ロジは頷く。
「お前の目に、俺の未来はどう見える?」
 言われてロジは目を細めた。
ロジは人には無い、特殊な能力がある。
未来視と呼ばれるそれは、近い将来を視ることができるものだ。
「…相変わらずじゃよ。
お主の未来は、わしには見えん。」
 試しては見たが、やはりジンの将来は見えない。
別に妨害されているわけではない。
ジンも、やはり特殊な能力の持ち主である。
その能力の特性が、ジンの未来視を不可能にするのだ。
「相変わらずじゃの、『神の左手』は…。」
 その言葉を聞いて、安心したようにジンが息を吐いた。
どうやら何事か心配していたようだ。
「そうじゃな…、お前には話しておこうか。」
 居住まいを正し、ジンがゆっくりと口を開いた。





「見えた!」
 屋根の上を走るアールの後ろ姿が見えた。
大輔は屋根から屋根へと飛び移り、先回りを試みる。
一口に屋根の上といっても、走りやすい屋根もあれば走り難いそれもある。
中には立つ事すら出来ないようなものもあるから、走りなれた大輔であればある程度の先回りは可能だ。
「スチール、俺が追いついたら一瞬でいいから足止めしてくれ。」
 振り返りながら大輔が言う。
「承知!」
 スチールが懐と、腰から数本の苦無を取り出した。
大輔は何も言わずに屋根を蹴る。
一気に決着をつけるつもりであるから、体力の温存も考えない。
全速力で走る大輔は、あっという間にアールに追いついた。
「追いついたぞっ!」
 大輔の声にアールが大きく動いた。
片手を大きく振り、手にしていた鎖を伸ばす。
思ったより長く伸びた鎖は、近くにあった教会の十字架に絡みつく。
大輔がいた屋根を避けるように、振り子の動きでアールは別の屋根へと近づく。
だが大輔は後を追わない。
不審に思うアールは、考える前に鎖を握っていた手を離した。
その行動はただの勘に過ぎない。
だが彼は自分の勘に自信があった。
重力に引かれ、自由落下を始める体。
その頭上を、数本の苦無が通り過ぎる。
視線をやれば、少し離れた屋根の上に新しい苦無を構えるスチールの姿があった。
「今度は逃がさねえぞ!」
 そう言いながら大輔が懐から一本の巻物を取り出した。
縛っている紐の結び目をほどき、アールの後を追って落下しながらその巻物を広げた。
ばたばたと巻物がはためきながら、ほのかに光を放つ。
「忍法!」
 大輔の声が響く。
着地したアールが見上げようとするが、間髪いれずにスチールの苦無が飛んでくる。
咄嗟に地を蹴って逃げるが、簡単に壁に追い込まれてしまった。
「分身の術!」
 大輔の術が完成した。
声のした方向を見れば、数人の人影が着地する所だった。
数人の大輔が一瞬で散開する。
姿は確かに増えているが、その意思は間違いなく一つだ。
逃がさぬように手早くアールを取り囲み、構えをとる。
 アールは内心歯噛みした。
盗み出す技術は一流である、とは聞いていた。
であれば、武器の扱いも相当なものであろうとも予測していた。
だが、流石に忍術などは予想外である。
そもそもアールは忍術が何であるか分からない。
ただ分かるのは、相手すべき人数が数倍に増えたということである。
「くっ!」
 手にしていた日記帳を懐に仕舞いこみ、刃の長いナイフを抜き放つ。
そのナイフを狙って、スチールの苦無が飛んだ。
走り出して苦無をかわし、あるいは叩き落しながら。
アールは分身の一体に肉薄した。
逆手にナイフを構え、すれ違いざまに胴を薙ぐように走り抜ける。
だがそこに手ごたえはない。
分身に質量がない、わけではなかった。
紙一重でナイフの一撃をかわしていたのだ。
そのことに気づくまもなく、別の分身がアールに迫る。
咄嗟に手にしていたナイフを投げつけた。
逆手からの投てきは決して威力が出るものではない。
だが今はとにかく相手の足を止めればいいのだ。
包囲さえ破れば、なんとか逃げる隙も見つけられるはずである。
そう考えている間に、分身の胸にナイフが突き刺さった…ように見えた。
だがその瞬間に上着一枚を残して分身の姿が消え去る。
残されたTシャツに絡め取られるように、ナイフは勢いをなくして地に落ちた。
 残像だけを残し、一瞬にして立ち位置を変える。
いわゆる、空蝉の術である。
もちろんアールにそれが分かったはずはないが。
姿を消したはずの分身が、アールの足元から伸び上がるようにしてタックルを仕掛けてくる。
咄嗟に受け止めて勢いを殺すが、体勢を崩すのは避けられない。
地面に投げ出されると思っていたが、二人の体を別の分身が受け止めた。
その手が素早くアールの懐に伸びる。
「!」
 咄嗟に手を伸ばすが、既に遅い。
日記帳は抜き取られ、さらに別の分身に投げ渡されていた。
何とか振りほどこうとするが、単純に考えても二対一。
さらに数体の分身が押さえ込もうとアールの元に走り寄ってきている。
見上げれば既にスチールの姿もない。
やがて、アールを押さえていた分身たちも煙となって姿を消した。
それはつまり、もはや追いつけないところまで二人が逃げたことを意味していた。





「むう…。」
 ロジが小さく呻いた。
「まあ大まかに話せばそういうことじゃよ。」
 ジンはこともなげにそう言い放つと、手にしていた茶を啜る。
ロジは困ったような表情でじっとジンを見つめていた。
「そろそろ、戻ってくる頃じゃろ。」
 そういいながらジンが立ち上がる。
三人が道場を出てから2時間半が経過している。
確かにトラブルが無ければ、もう戻ってきてもおかしくない頃だろう。
ロジは立ち上がると、道場へと足を向けた。
ジンも黙って後に続く。
「先生。」
 道場には既にアールが戻ってきていた。
ロジは思わず辺りを見回すが、大輔とスチールの姿はない。
「どうじゃった。」
「すみません、甘く見ていました。」
 全く残念そうに見せずにアールが呟く。
「ですが中身は確かに改めてきました。」
「消えてはおらんな?」
 ジンの言葉に猫の少年は頷く。
それをみて、満足そうにジンが微笑んだ。
「どういうことじゃ?」
 ロジが横から口を挟む。
だがジンは残念そうに首を振った。
「すまんが、俺は少し急ぐ。
細かい説明はきっと次にしよう。」
 そう言って、ロジの首に腕を回して耳元でさらに囁く。
「前払いしたのと同じ報酬を、また届けにくる。
楽しみにしていろ。」
 体を離して、ジンはにやりと笑った。
その笑みは、報酬は酒だけではないことを意識させる。
「まったく…、次は必ず全て話してもらうぞ?」
「俺が約束を破ったことがあったか?」
「何度もな。」
 ため息をつきながら答えるロジに、ジンは笑って誤魔化した。
「行くぞ、アール。」
 それだけ言うと、ジンは素早く道場から出て行った。
猫の少年もすぐに後に続いて姿を消している。
道場にはロジだけが残された。
「爺ちゃん、ただいまー。」
 そこに飛び込んでくる大輔とスチール。
二人の顔は、心なしか満ち足りたものになっていた。
「おお、二人とも戻ったか。」
 アールだけが戻っていたので、少し心配していたのだろう。
ロジの表情には安堵の色が見えた。
「どうじゃった。」
「すみません、頭領。
結局何も盗んでは来ませんでした。」
 ロジの言葉に、スチールが答える。
不思議そうな表情を浮かべるロジに大輔が答える。
「あのおっちゃん…、オスミウムだっけ?
アイツ本当に思い出の物を大事にしててさ…。
理由も無く、アイツから奪うなんて出来なくて。
結局何も盗まずに来ちまった。」
 そう言って大輔が申し訳無さそうに笑う。
仕事を請けた上で、何も盗まずに戻るということはロジの顔を潰したということになる。
それを申し訳なく思っているのだろう。
「まあ、構わんよ。
どうしても必要なものでもなかったらしい。」
 そう言ってロジが大輔の頭をぽんぽんと軽く叩いてやる。
今度は、それを聞いた大輔が不思議そうな顔をした。
「…あ奴は、わし同様特殊な能力持ちでの。
便宜上『神の左手』なんぞと呼んでおるんじゃが…。
あ奴が何かをしようとすると、必ず『偶然』が起こるんじゃよ。」
「偶然?」
 スチールが怪訝そうに聞き返した。
「誰かから逃げていれば、追いかけている人間が『偶然』転ぶ。
何かを買おうと思えば、『偶然』友人からもらえる。
もちろん何でも起こるわけでもなく、そもそもまともにコントロールすら出来んらしいが。」
 思わず大輔とスチールは顔を見合わせた。
にわかには信じがたい話である。
ロジの例もあるので、そういった特殊能力を否定するつもりはないのだが。
「それって、ただ運がいいだけじゃねえの?」
「まあそうかもしれんな。
何らかの能力があるとも断言できん。
ただ本人も、そしてわしもそういった能力があるとは思っておる。」
 ロジの言い回しに微妙に納得がいかないらしく、大輔は相変わらず眉を顰めている。
だが重要なのはそこではない。
話しておくべきは今回の依頼の動機、言うなればジンの目的である。
「ともかく、ジンはそういう自分の能力を有効活用するために今回の仕事を依頼したらしい。」
「と、申しますと。」
 スチールの問いかけにロジは頷く。
「偶然が起こるとはいえ、なんでも向こうから降ってくるわけではない。
偶然が起こるに足る、何らかの状況をお膳立てしてやらねばならぬ。
宝くじを当てるためには、あらかじめ宝くじを買っておかねばならん。
今回の依頼は、どうやらそういうお膳立ての一部にすぎんかったようじゃ。
実際に盗み出すことよりも、盗みで勝負するシチュエーションが欲しかったんじゃろうな。」
 なんだか狐につままれたような話である。
わかったような、わからないような理屈。
「まああ奴のことはわしが分かっておればよい。
二人とも苦労をかけた。」
 そう言ってロジは説明を締めくくった。
そのまま踵を返し、道場を出て今へと向かう。
「スチール。」
 大輔が遠慮がちに声をかけた。
スチールが振り返るが、大輔はあさっての方向を向いたまま視線を合わせない。
「その…今回は悪かった。
それと、ありがとな。」
 大輔の顔が恥ずかしさから赤く染まっている。
どうやら照れくさくて直視しづらいようであった。
「まあ大輔はまだ若いしな。
次からはあまり熱くなるなよ。」
 そう言って大輔の肩に手を置いた。
大輔は照れくさそうに笑う。
「初心忘れるべからず、ということだ。」
 スチールの言葉に大輔はしっかりと頷いた。
「まあほら、今回はその例ということで…。」
 大輔がスチールの頭を抱え、自分の胸に抱きしめる。
思わずスチールはその背中に腕を回した。
「だ、だいすけえええ。」
 先ほどまでの冷静な顔は既になく。
スイッチが切れるように、スチールは大輔に抱きついた。
頬擦りをしながら胸元に顔をうずめる。
「だいすけええ。にゃああああん。」
 興奮しているのか、既に言葉の意味すら危うい。
「よーしよしよし。
可愛いなー。」
 そういいながら大輔は抱きついてくるスチールの頭を撫でてやる。
そのまま二人は床に崩れ落ち、転がるようにして抱き合った。






「まったく、ここをどこじゃと…。」
 それを影から見つめるロジ。
だがロジにしても身に覚えがあることである。
「…ま、いいじゃろ。」
 二人に水を差すことを止め、ロジはその場を離れた。




                                               終