シオンの戦い


 振りつづける雨の中、シオンはとぼとぼと歩きつづけていた。
雨宿りすることも、店で傘を買うこともせず。
まるで雨など降っていないかのように、ゆっくりと歩いていた。
しばらく歩き、足を止めて顔をあげる。
見慣れた安アパート。
気づかぬうちに、ドルの部屋を訪れていた。
「少し、甘えすぎですかね…。」
 自嘲するように呟きながら、シオンはドルの部屋の前にたった。
「先輩のバカあ!」
 言葉とともに目の前の扉が勢いよく開く。
シオンはぶつからないように咄嗟にそれを避けた。
すぐ隣をポン太が走り抜けていく。
シオンがいたことにも気づかずに、雨の中を走り抜けていった。
 部屋の中を覗き込むと、部屋の中央にベッドがひっくり返っている。
ざっと部屋の中を眺めるが、ドルの姿は見えない。
おそらくベッドの下敷きになっているのだろうと判断し、
靴を脱いで上がりこむと、ベッドの横に腰を下ろした。
「また、何かやらかしたんですか…。」
 シオンの呟きに、ベッドの隙間から手がぬっと這い出てきた。
「ちょっと他の女と遊んでたのがばれてなあ…
ってシオン、お前今日デートじゃなかったのか?」
 ベッドの下からくぐもった声が聞こえてきた。
唯一見えている手は、床にしがみつくと必死で体を引き寄せている。
「ええ…まあ…。」
 シオンが適当に言葉を濁していると、ドルがベッドの下から這い出してきた。
ドルはシオンを見て目を丸くする。
「何だお前、びしょぬれじゃねえか。」
 ドルの言葉をシオンは曖昧な笑顔で受け止める。
「それよりも、バーツをおいかけたほうがいいんじゃないですか。
早く追いかけないと、機嫌直りませんよ。」
「おっと、そうだったな。
じゃあ悪いが…。」
 そういってドルは立ち上がる。
シオンもドルに続いて立ち上がると、そのまま部屋をでる。
「じゃあ、また後でな!」
 そういうとドルは傘をさして、ポン太が走ったであろう方向に足を進める。
そのまま走り去るだろうとシオンは思っていたが、ドルは予想に反して足を止めた。
「シオン…。
お前も、追いかけろよ。
好きなんだろ。」
 いつに無く真剣な顔を見せて、ドルが呟いた。
「じゃあ先行くぞ!」
 そう言ってドルは今度こそ走り去った。

その後姿をシオンは静かに見送った後、何かを決意したようにその場を走り去った。

 

 


 同時刻、アイリスはシャッターのしまった店先で雨宿りをしていた。
雨の降る空を見上げ、考えをめぐらしていた。
シオンのこと、そして昔の彼氏のこと。
雨は、いつだって哀しい思い出をつれてきた。
「はやくやめよ、バカ野郎…。」
 空に向かってアイリスは小さく呟いた。
「お前……アイリスか?」
 突然聞こえた声に、アイリスは振り向いた。
そこには体の大きな牛が立っていた。
「お前、ブラック…。」
 予想していなかった顔に、アイリスは思わず呟いた。
ブラックと呼ばれた牛も最初は驚いた様子だったが、
すぐににやついた表情を浮かべた。
アイリスの嫌いな顔だった。
「まさかこっち戻ってきて一番にお前に会えるとはなあ。」
 そう言いながらブラックはアイリスに歩み寄ってくる。
アイリスは思わず、数歩後ろに後ずさった。
歩み寄ってくるブラックが何かに気づいたような表情を見せる。
その視線はアイリスの胸元に注がれていた。
「なんだ、お前まだつけてるのか。」
 そういってアイリスの胸元に、大きな手を伸ばしてきた。
「触るなッ!」
 アイリスは叫びながら、ブラックの手を払いのけた。
バシっと音がして、ブラックの手が跳ね上がる。
一瞬あっけに取られたブラックの顔が、醜く歪んだ。
「いい度胸…してるじゃねえか!」
 仕返しとばかりにブラックの手がアイリスの頬を張る。
それと同時に、ブラックはアイリスの胸元にある十字架を引きちぎった。
「痛ッ!」
 首筋に走った痛みにアイリスは小さく声を上げた。
自分の首にぶら下げていたものが、今はブラックの手の中にある。
「いつまで死んだオトコに固執してんだよ。
成長しねえな。」

 馬鹿にしたような口調で、視線で。
ブラックはアイリスを見下ろしていた。
「……返しやがれッ!」
 アイリスは全力でブラックに殴りかかった。
突然殴られブラックは少しよろめくが、倒れることは無い。
ゆっくり振り向いたブラックの目は、怒りに満ちていた。
「てめえ、いい度胸してるじゃねえか…!」
 そう言って、ブラックは手にもっていた十字架を思い切り地面に叩きつけた。
思わずアイリスはそれを視線で追う。
その一瞬の間に、ブラックはアイリスの腹を思い切り殴りつけた。
「がっ…。」
 胃の中のものが、逆流するのを必死で押しとどめる。
ゆっくりと倒れるアイリスを、ブラックは荒々しく抱きとめた。
「まだまだ、楽しませてもらうぜ。」
 そういうとブラックは意識朦朧になったアイリスを小脇に抱え、
人気の無い方向にのっそりと歩きだした。
ブラックの足がアイリスの首にかかっていた鎖を踏みつける。
じゃり、と小さな音がした。

 

 

「あれ…アイリスさん…?」
 ポン太は思わず足を止めていた。
男に連れ去られるようにして連れて行かれる女性に、見覚えがあった。
「ポン太ーっ!」
 後からドルが追いかけてくる。
先ほどまで泣きながら走っていたポン太が足を止めていることに、
ドルもいぶかしげな顔で追いついてきた。
「どうした、ポン太。」
「今…気のせいかもしれないですけど…。
アイリスさんが、誰かに連れて行かれたような…。」
 まだドルと話すことに抵抗があるのか、視線を合わさないままポン太が言った。
シオンの様子を見て、何かあっただろうと思っていたドルは
傘をポン太に押し付けるとポン太が見ていたほうに走る。
足下でじゃり、と金属のなる音がした。
慌てて足をどけ、足の下にあったものを確認する。
「これは…。」
 見覚えがあった。
初めて見たときから、アイリスがいつも身に着けていたもの。
「ポン太、シオンに連絡してくれ!」
 ドルの声にポン太は少し驚いた表情を見せ、
ポケットから取り出した携帯でシオンに電話をかけた。

 

 

 数分でその場所に到着したシオンは、ドルとポン太から状況を聞かされていた。
話を聞き終え、ドルからアイリスの十字架を受け取る。
「間違い、ありません。」
 シオンは静かにそう言った。
右手に持った十字架を強く握り締める。
「連絡ありがとうございます。
後は1人で探しますので…。」
 そう言ってシオンは1人走り出す。
ポン太が見たという方向に向かって、走りながら考えをめぐらせた。
男がアイリスに何をするかは考えたくないが、
連れて行った以上は人目のつかないところを目指すだろう。
また、裏路地に入ったことから車に乗ったとは考えにくい。
それらを考えて。
「あそこか…!」
 シオンは一つの廃屋に絞り込んでいた。
雨の中、泥を跳ね上げるのも構わずに全力でその建物へと駆け込む。

 ブラックは担いでいたアイリスを無造作に降ろした。
どさりと音がして、乾いた床に濡れたしみが広がっていく。
「まったく、世話の焼ける女だな。」
 そういってブラックはにやりと笑った。
「うる…せえ…。」
 息も絶え絶えにアイリスが呟いた。
「いつまでも死んだ男なんて引きずってよ。
折角いい体してんだ、もったいねえだろ?」
 いやらしい笑いがアイリスの眼前に突きつけられる。
「このっ!」
 不意をついて、全力で顔を殴りつけようとしたが
拳はすっぽりとブラックの手に受け止められてしまっていた。
「お前が強いっつってもな。
上には上がいるんだよ。」
 そう言ってブラックはアイリスのアゴに手をかけた。

 

 

「待て。」
 静かな声が響いた。
思わずブラックは動きを止めて振り返る。
スーツを着て、全身ずぶぬれの獅子獣人がそこにいた。
「シオン…。」
 アイリスが呟く。
先ほどの静かな声にも、押さえきれない怒りが含まれていることを
彼女は感じ取っていた。
「何だお前、この女の知り合いか?」
 ブラックはゆっくり立ち上がるとシオンの方に向き直る。
「……振られた身だ。
人の恋愛に口を挟む権利は無いが。」
 伏目がちにシオンは自分の手の中にある十字架を見つめた。
アイリスが大切にしていた、思い出の品。
「…彼女の、大切な思い出を。」
 いったん言葉を切った。
大きく息を吸い込む。
十字架を強く、強く握り締めた。
「大切な思い出を踏みにじるような真似は、許さんぞ!!」
 突然あげられた大声に、ブラックもアイリスも思わず飛び上がった。
気おされてはなるまいと、ブラックも腹に力をいれてシオンを睨みつけた。
それがブラックにとっては失敗だった。
正面からシオンと向き合うブラック。

自分を真っ直ぐに睨みつけるシオンの瞳は、怒りに満ちていた。
 井の中の蛙かもしれない、と考えたことはある。
しかし自分より強い相手というものには出会ったことが無かった。
それが今、目の前に立っている。
いや、ただ強いだけじゃない。
どうあってもかなわない相手だと、本能的に感じていた。
初めてそれと向き合ったブラックが感じたものは、恐怖。
抗うことのできない絶対的な恐怖、ただそれだけだった。
「…う、
うわああああああああああああ!」
 自分を奮い立たせるように、腹のそこから声を押し出す。
そして、全力でシオンに向かって走り出した。
二人の距離は10メートルにも満たない。
一瞬の間に、ブラックの拳はシオンに肉薄していた。
やった!
そう思った瞬間に、シオンの姿が消えていた。
正確には腰を落とし、体勢を低くすることでブラックの拳をかわしたのだが、
ブラックにはそんなことはわからない。
「がっ!」
 何がおきているかもわからないままに、
下から突き出された掌底でブラックのアゴが跳ね上がる。
「…少し、眠れ!」
 がら空きになった急所に、シオンの掌底が叩き込まれた。

 

 

「大丈夫ですか?」
 シオンは横たわったままのアイリスをそっと抱き起こした。
「あ、悪い!」
 アイリスは慌てて体を起こした。
まだ軽く吐き気は残るが、1人で動けないほどじゃない。
「死んだのか…?」
 倒れたブラックをみてアイリスが呟いた。
つられてシオンもブラックに視線をなげる。
「まさか。ちゃんと加減は心得ています。
もっとも、しばらく死ぬほど苦しいでしょうが。」
 そう言ってシオンは視線を自分の手のなかのものに降ろした。
「……これを。」
 シオンは手にもっていた十字架を差し出した。
それを見て、アイリスはシオンの手からそっと十字架を取り上げる。
「ああ…。」
 気まずさからか、お互いに淡々と言葉をつむいでいた。
視線を合わさぬまま十字架を返し、立ち上がって身なりを整える。
「…それでは、私は」
 これで。
そう言い終わる前に、アイリスの手がそっとシオンの手を握っていた。
思わずシオンは言葉に詰まる。
「…アイツの言うとおりなのかもしれない。
いつまでも、死んだ男が忘れられなくて。」
 何事かを言おうとしたシオンを、アイリスが手で制した。
「いいんだ、ホントのことだ。
いつまでも、こんなことしてちゃいけないんだ。」
 今にも泣きそうな顔をするアイリス。
アイリスの肩に、シオンがそっと手を置いた。
「違います、アイリスさん。
無理に忘れることなんてありません。
亡くなった方が大切なら、大切に思っていればいいと思います。
ヒトの気持ちなんて、そう簡単に書き換えられるものじゃないんですから。」
「シオン…。」
 アイリスは、そっとシオンの胸にもたれかかった。
予想外の行動に、シオンは顔を赤くして固まってしまう。
「ありがとう、シオン。」
 シオンはなんとか自分を落ち着かせ、意を決してアイリスの肩を優しく抱いた。
「ゆっくりで、いいかな。」
 アイリスの言葉の意味がわからず、シオンはアイリスの顔を覗き込んだ。
アイリスの顔は赤らんでいて、何時もとは違った魅力を感じさせる。
視線を少しそらしながら、アイリスは言葉を続けた。
「恋愛の、リハビリみたいなもんだろ。
お前とさ、二人で…その。」
 言葉に詰まったところで、シオンはアイリスを優しく抱きしめた。
「アイリスさん、大好きですよ。」
「…ありがとう。」

 

 


 二人が外に出ると、既に雨は上がっていた。
空には大きな虹がかかっている。
雨がつれてきた、綺麗な虹だった。
「綺麗な虹だな。」
 アイリスが呟いた。
「ええ。」
 シオンが優しく頷く。
「…これ、持っててくれねえか。」
 そう言ってアイリスはシオンに十字架を手渡した。
受け取ってからそれがなんであったかを知り、シオンは戸惑った表情を浮かべる。
「シオンに持っててもらいたいんだ。」
 そういってアイリスは微笑む。
どうすべきか迷っていたシオンも、アイリスの微笑を見てそれを受け取ることにした。
「わかりました。
大切に預かっておきます。」
 その言葉を聞いて、アイリスはシオンに背を向けた。
空に手を伸ばすように、大きくのびをしてみせる。
「たまにはさ。
雨もいいもんだよな。」
 そう言って振り返るアイリスの顔は、何時もの笑顔だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「…うまくいったんですかね?」
 二人の様子を影からみながら、ポン太が呟いた。
同じように建物の影からドルが顔を出す。
「いったんじゃねえか?
二人とも笑ってるし。」
 そう言ってドルとポン太は顔を見合わせた。
『……。』
 一瞬、お互いに沈黙する。
「まあ、今回の浮気は特別に許してあげますよ。」
 すねたような表情でポン太は顔をそむけた。
「全く、手間のかかるやつだな。」
 ニヤニヤした顔でドルが言った。
惚れた弱みを実感しながらポン太は大きな溜息をつく。
「ま、ミドリとはもう手を切るさ。」
 ポン太の頭をなでながらドルが言った。
ドルの言葉に、ポン太の耳がピンと跳ね上がる。
「ミドリって…誰ですか?」
「え?」
 そして、何かに気づいたドルの顔から見る見る血の気が引いていく。
「他にも…浮気相手がいたんですね…。」
「ちょ…ち、ちが…」
「問答無用!」
 弁解しようとするドルの言葉をさえぎるようにポン太が巨大なハンマーを振り下ろした。
紙一重でそれを避けたドルは、ポン太に背を向けて走り出す。
「どっからもってきた、そんなもん!」
「アルフレッドさんに借りましたッ!」
「そういうことを聞いてるんじゃないっ!」
 ハンマーを振り下ろし、地面に大きな穴をいくつも作りながら
ポン太はドルを追い掛け回した。
「し、シオン!
助けてくれぇ〜!」

 

「あれ?
今誰か呼ばなかったか?」
 アイリスが足を止めて振り返る。
「……空耳でしょう。」
 満面の笑みを浮かべて、シオンはアイリスの肩を抱いて歩き出した。