君と仕事の話をしよう
薄暗い部屋の中で、ダンスミュージックが流れていた。
お世辞にも綺麗とは言えない部屋の中、テレビの明かりだけが光源である。
その中を、黒い大きな獣がゆったりと動いた。
黒い、黒い毛並みのジャガー。
夜目が聞くのはもちろんだが、彼はこの家の住人である。
明かりなど殆ど無くとも、どこに何があるかはほとんど把握していた。
「Try everything...」
テレビから流れる曲に併せて口ずさむ。
映っているのはこの街、ズートピアで大人気のアーティスト「ガゼル」だ。
少し前にあったズートピアでの事件。
肉食獣が差別されたその事件が無事に解決した時に、ガゼルがそれを記念してフリーライブを行ったのだ。
ズートピアの住人のほとんどはそれに参加したが、この家の住人であるマンチャスは参加しなかった。
その代わりと言うわけでもないが、そのライブ映像を録画して繰り返し流しているのである。
台所までたどり着いた彼は、コーヒーサーバーを傾ける。
だが既にその中身は空で、数滴のしずくがカップに注がれるだけだった。
彼は大きくため息をついて、サーバーを流しの中へと放り込む。
喉がぐる、と小さくなってその行為に抗議する。
だがわざわざ改めてコーヒーを淹れるほどの欲求を彼は感じていなかった。
もともと彼は蛋白な質なのである。
再びテレビの前に戻り、ロッキングチェアに浅く腰掛ける。
その勢いで椅子は大きく前後に揺れた。
彼が珍しく欲しいと感じた逸品である。
猫科の彼にはこういった揺れが心地よかった。
可能ならそのまま丸くなりたいところであるが、残念ながら彼はそこまで小柄ではない。
仕方なく頬杖をついて、テレビを眺める。
繰り返し流されているガゼルのライブ。
そこに映し出される沢山のヒト、ヒト、ヒト。
キリンも、ヤクも、象も、カバも、ウサギも、狐も、ライオンも。
およそこのズートピアに住んでいるであろうあらゆる種族が映しだされていた。
そして、小さなカワウソも。
テレビを見ていた彼の胸に小さなざわめきがおこる。
思わず右目を押さえるマンチャス。
だがすぐにその手を離し、小さく頭を振った。
右目の周りにはうっすらと爪あとが残っている。
だがその傷はまもなく消えるだろう。
眼球にも届かなかった小さな傷だ。
だから何もこだわる必要はない。
忘れればいいのだと自分に言い聞かせた。
この傷をつけたのは自分よりもずっと小さなカワウソである。
だからカワウソをみて思い出した。
それだけだ。
「I won't give up...」
再びテレビから流れる曲を口ずさむ。
決してこの曲が好きなわけではない。
ただ社会でやっていくにはある程度の流行くらいはおさえていたほうがいい、と思ったからである。
そうやってヒトとの衝突を避けて生きていくのが、彼の生き方だ。
「マンチャスさん…。Mr.マンチャス!」
不意に彼の名前を呼ぶ声がした。
もちろんテレビからではない。
この家の外、扉の向こう側である。
よく耳をすませば、かんかんと軽い音も聞こえる。
どうやらノックされていたのに気づかなかったようだ。
「誰だ?」
テレビのボリュームを絞り、声をかけながら扉へと歩み寄る。
この家を尋ねてくる人物は非常に少ない。
だから彼はドアチェーンをつけたまま扉を開いた。
以前の事件は解決しているが、いつ何時犯罪に巻き込まれるかわからないからだ。
「アー…オッタートンです。
エミット・オッタートン。
こんばんは、Mr.マンチャス。」
その言葉に、視線を下げる。
そこには小さな獣が立ち上がっていた。
緑のセーターにペイズリー柄のネクタイ、コーデュロイのズボンに大きなメガネ。
まさにあの日、あの時の格好で。
カワウソのオッタートンがそこに立っていた。
「やあ、Mr.オッタートン。」
思わず全身がこわばるマンチャス。
だがそれを表情に出さず、彼は小さな獣に声をかけた。
そしてオッタートンに気づかれないように少しだけ扉を細める。
小柄な彼では、ドアチェーンがあっても中に入ってこられるからだ。
「その…扉をあけてくれませんか、ミスター。
僕はもう野生化しません。」
だが彼も気づいていたようで、少し寂しそうな表情でそう言った。
確かに、彼の言っていることは事実である。
彼が以前凶暴になったのはある種の「毒薬」が原因だ。
マンチャス自身もその「毒薬」で凶暴化したのだから、その影響が残っていないことはよくわかっている。
だが彼の右目が、傷跡がうずくのだ。
この傷跡をつけたオッタートンを見ていると。
それでも、マンチャスは逡巡した後に扉を閉じてチェーンを外した。
「何か用かい、オッタートン。」
扉を開けると、わざと少しぶっきらぼうにいう。
同じ肉食獣同士とはいえ、体格の差は歴然である。
2メートルに届くマンチャスに対して、オッタートンは数十センチ程度しかない。
威圧感を感じれば、用件を伝えて早々に帰ってくれるだろうと期待したのだ。
「その…お詫びをしに来ました。」
「お詫び?」
だがオッタートンはまったく怯むこと無くそう言った。
「そうです。
僕は『夜の遠吠え』のせいとは言え、貴方を傷つけてしまいました。
僕がMr.ビッグに相談を持ちかけようとしたばっかりに…。」
いいながら彼は手にしていた包みを差し出してくる。
彼の身体から考えればかなり大きな包みなのは、おそらくマンチャスに合わせたものだからだろう。
「その、クッキーです。
良ければ…。」
そう言われて断る理由はない。
マンチャスは彼の手からその包みを受け取った。
「それと、うちの店から持ってきたんです。
よろしければ、こちらも…。」
傍らに置かれていた鉢植えを示すオッタートン。
だがマンチャスは小さく肩をすくめて首を振った。
「申し訳ないが、植物にはあまり興味が無い。
こちらだけいただくよ。」
オッタートンは残念そうに頷く。
だが興味が無いのは事実なのだ。
受け取って、枯らしてしまった方がむしろ失礼だろうとマンチャスは判断した。
実際部屋の中は植物を置くスペースなどない。
いや、スペースはあるが置く余裕が無いというべきだろう。
部屋のいたるところに日常生活用品が散らばっているのだ。
そんなマンチャスが植物の世話なんて、とてもできないだろう。
「Mr.オッタートン。
もう気にすることはないよ。
君も言ったがこの傷は『夜の遠吠え』のせいだ。
だから君が気に病むことじゃあない。」
そう言ってマンチャスは微笑んでやる。
オッタートンが安心できるように。
だが視線の高さを合わせなかったのは――彼の中にも怯えが残っていたから。
「それじゃあMr.オッタートン。
いい夜を。」
そう言ってゆっくりと扉を締める。
オッタートンは一人、扉の前に残された。
謝罪は、成功したといっていいだろう。
相手はこちらを許してくれたし、謝罪用に準備していたギフトも一つだが受け取ってもらえた。
男性に植物を贈るのはどうだろうか、と妻にも首を捻られていたのだ。
鉢植えが受け取られなかったのはしょうがないとも思えた。
だけど。
オッタートンは納得できていなかった。
自分の謝罪が響いたようには思えなかった。
穏やかな笑顔を浮かべてはいたけれど。
その内面を垣間見た気がしたのだ。
何かいい考えはないかと辺りに目をやる。
家の周りも荒れ放題だった。
レインフォレストという土地柄、周囲は草木が生い茂っている。
きれい好きな者ならある程度管理もしているが、マンチャスはその部分にも興味がなく家の周りは完全に草に覆われていた。
オッタートンはそっとその生えていた草に手を伸ばす。
翌朝。
マンチャスは淹れたてのコーヒーを啜る。
朝はいつも食事はとらない主義である。
もっとも正確には準備が面倒なだけなので、食べ物があれば食べないわけではない。
ふと、机に放り出された包みが目についた。
昨日オッタートンが持ってきたものだ。
確かクッキーだと言っていたな、と思い出して。
マンチャスはその包みをビリビリと破いた。
中から出てきたのは有名な洋菓子店の箱。
そのまま蓋を開けて、中のクッキーを幾つか口の中に放り込んだ。
ボリボリと音を立てて噛み砕き、そのままコーヒーで流し込む。
詳しいことはよくわからなかったが、後を引かない上品な甘さだ。
もうひとつかみ、クッキーを口の中に放り込んで立ち上がる。
マンチャスはツンドラタウンにあるリムジンサービスで働く運転手だ。
そこそこ評判もよいため、日によっては会社としての仕事ではなく彼のボスに呼び出される日もある。
そういう時は依頼された客ではなく、ボスの運転手として動くのだ。
今日もまた、ボスの運転手として呼び出されている日だった。
クローゼットから白いシャツを取り出し袖を通す。
黒い毛皮に白いシャツはとても目立つので、仕事用のシャツだけは清潔にしていた。
さらに黒いスラックスに足を通し、ジャケットも羽織る。
それだけで出かける準備は完了だ。
制服としては黒い帽子と、白い手袋も身につける。
だが家から会社に着くまではその二つは身に付ける必要はないだろう。
飲みかけのコーヒーを一気にあおり、飲み終えたカップをテーブルの上に放り出す。
これを片付けるのは何日先だろうか。
自嘲気味にそんなことを考えながら、マンチャスは玄関の扉を開いた。
「おはようございます、マンチャスさん。」
不意に声がかけられた。
聞き覚えのある声。
決して低くはないが、落ち着いた優しい男性の声。
振り返れば、少し離れたところに小さなカワウソの男性。
エミット・オッタートンだ。
「Mr.オッタートン…?」
思わずそう呟いていた。
確かに昨日の夜、彼は訪ねてきた。
そこから一晩、まさかそのままずっと居たとも思えないが。
彼の後ろに目をやれば、荒れ果てていたはずの草木が整えられている。
どうやらマンチャスの家の周囲を手入れしていたらしい。
「すみません、勝手なことをして…。」
困ったように笑いながらオッタートンは頭を下げる。
「だけど手を入れてあげたほうが、彼らも喜ぶんですよ。」
言いながらオッタートンは手近な草の葉を撫でた。
確かに雑然と生えているよりも、今のほうが陽の光も水も届きやすいだろう。
何よりオッタートンは本職の花屋である。
こういったことに関しては失敗はしないだろう。
「あの、マンチャスさん。」
呆然としていたマンチャスに、再び声がかけられる。
申し訳無さそうに、おずおずと。
「その…差し出がましいとは思いますが…。
しばらくこの辺りの手入れをさせてもらえませんか。
この間のお詫び、です。」
手を組んで、祈るようにマンチャスを見上げるオッタートン。
よっぽど気にしていたのか、それともただ荒れ果てていた草木が気になるという性格的なところなのか。
そこはよくわからないけれど。
「思ったよりも頑固なんだな、Mr.オッタートン。」
正直に言えば。
勘弁して欲しい、とマンチャスは思っていた。
他人と交流することには慣れていない、避けて生きてきたのだ。
生活は一人でも成り立つし、変なしがらみがないほうが生きやすい。
だから今までにもほとんど友人も作らずに生きてきた。
だが、少し考える。
まさか徹夜ではないだろうが、荷物をとり改めてここに来て玄関先の手入れをするオッタートン。
果たしてここで断ったとして諦めて帰ってくれるだろうか。
また何か別の「お詫び」を手にしてやってくるのではないだろうか。
それに何より、彼はマンチャスのボスと懇意である。
あまり無下にするのも気が引けた。
「その…僕の仕入先の一つがこのレインフォレストにもあるんです。
だから仕事のついでに来ることだってできるし、マンチャスさんの生活の邪魔にならないように気を付けます。
だから…。」
先ほどのセリフから無言でいたのを、オッタートンは拒否されたと感じたのだろうか。
必死で弁解し、懇願する。
どうしてそこまでしてここの手入れをしたいのか。
ただのお詫び以上に、花屋としての矜持もあるのかもしれない。
なら、ここはおとなしく受け入れてやろう。
マンチャス自身が気にしなければ、今までの生活が大きく変わるわけではないのだから。
「わかったよ、よろしく頼む。
もっとも俺は仕事があるからいつもいるわけじゃない。
だからいつでも、好きにいじってくれ。」
その言葉にオッタートンの顔に喜びの色が広がった。
しおれていた花が再び開くように。
水を得て草木がいきいきと葉を広げるように。
「ありがとうございます、マンチャスさん!」
オッタートンは背伸びをしてマンチャスの手を握る。
土に汚れた、だけどとても温かい手。
「あっ…ごめんなさい、汚してしまって!」
呆然とその様子を見るマンチャスに、ようやく土の存在に気づいたオッタートン。
責めていると感じたのか、取り出したハンカチを湿らしてその手を拭う。
マンチャスはただただその行為を黙って受けれいていた。
小さな手がハンカチで必死にマンチャスの手を拭っていく。
手首から、手のひら、指の股から指先へ。
そして一本ずつ丁寧に。
優しいその動きは艶かしさすら感じさせた。
「あ…ああ、すまない。」
ほとんど拭き終わった頃に、マンチャスはようやく手を引いた。
振り払う、というほど強いわけでもなく。
オッタートンは安心したように微笑んでいる。
「それじゃあ、俺は仕事があるから行くよ。
また宜しく、Mr.…オッタートンさん。」
逃げるように振り返り、家の近くのゴンドラ乗り場へと足を向けた。
「はい、いってらっしゃいマンチャスさん。
Mr.ビッグにもよろしくお伝え下さい。」
振り返れば、きっと笑顔だろう。
実際に見ていなくても、それくらいの想像はマンチャスにでもつく。
振り返って確認してみたかった。
自分に向けられる悪意のない笑顔なんて、本当に久々だと思ったから。
だけどマンチャスにはそれが出来なかった。
たとえ真っ黒な毛並みで隠れていたとしても。
なぜか赤くなったこの顔を、オッタートンにだけは見せられなかったから。
それから数日。
毎日のようにオッタートンはマンチャスの家を訪れていた。
仕入れのついでに、と言っていた言葉は嘘ではないのだろう。
ほぼ毎日、マンチャスが出勤するときには家の前でうずくまっていた。
顔を合わせる度に彼は「おはようございます。」と丁寧に挨拶をしてくれる。
それに「おはよう」と挨拶を返し出勤する。
マンチャスにとって、それはなんとも複雑な気分だった。
決して嫌なわけではない。
ただなんとなく居心地が悪いのだ。
だが、その日の朝にはオッタートンの姿はなかった。
思わず周囲を見渡すマンチャス。
しかしあの小さなカワウソの背中も、ハツラツとした挨拶も聞こえてこない。
別にそれを求めているわけではないのだ、と自分に言い聞かせて。
振り返り家の前を見る。
オッタートンの土にまみれた背中はない。
家の周りは、流石というべきか、丁寧に整えられていた。
ずいぶんとスッキリした印象だが、よく見れば刈り取られたものは殆ど無い。
枝葉を少し間引いてはいるのだろうが、それだけで大きく変わるものである。
これは純粋にオッタートンの腕だろう。
まるで自分の家ではないようで、なんとなく恥ずかしさすら覚える。
何かを振り切るようにマンチャスは首を振り、出勤のためにゴンドラへと足を向けた。
その日はなんとなく精彩を欠いた一日だった。
別にオッタートンに会えなかったせいじゃない、と自分に言い聞かせつつ。
とぼとぼと帰り道を歩くマンチャス。
「おかえりなさい、マンチャスさん。」
そんな彼にかけられたのは、いつもの元気な声とは少し違う。
落ち着いた、優しい声。
「オッタートン…さん。」
思わず足を止めて呟く。
今日はてっきりもう来ないと思っていたのだ。
「マンチャスさん?」
マンチャスの様子がいつもと違うことに気がついたのだろう。
オッタートンはエプロンで手を拭いてこちらに歩み寄ってきた。
「あ、いや…た、ただいま戻りました。」
慌てて答える。
この間のように土が着いたら困る、と思ったわけではない。
ただ、手を握られた困るとは思った。
何に困るかは分からないが、そう感じたのだ。
「一日お疲れ様です。」
そう言ってオッタートンは笑ってくれる。
ただいまなんて口にしたのはいつぶりだろうか。
おそらく親元を離れて以来だろう。
「いや…俺の方こそ、いつもありがとう。
オッタートンさん。」
気恥ずかしくて、視線をそらしながら言う。
「いいんですよ、そもそもお詫びとして始めたんですから。
それより今朝は来れなくてごめんなさい。」
別に朝にだけ限定した覚えはない。
それでも律儀な彼はそう言って頭を下げた。
「いや…その、何かあったのかな、とは思ったけど。」
別に謝られる筋合いはない、と口に出したかった。
だがマンチャスはもはや何を喋っているのかよくわからなくなっていたのだ。
「今日の朝は仕入れの時間が少し遅くなってしまって…。
だからこちらに来る時間が取れなかったんです。」
なるほど、そういう理由だったのかと頷く。
「ひょっとして、ご心配おかけしたでしょうか。」
心配そうにオッタートンが見上げてくる。
いつの間にか彼はすぐ足元まで歩み寄っていた。
「あ、いや…。」
動悸が激しくなったのを自覚するマンチャス。
「その…お、おやすみ!」
なんと声をかければいいのかわからず、マンチャスは足をすすめる。
オッタートンをその場に置き去りにして家の中に逃げ込んだ。
扉に背を預け、胸を押さえる。
自分の心臓が高鳴っているのを改めて確認して、マンチャスは大きくため息を付いた。
まるでこれでは恋ではないか、と考えて。
マンチャスは首を大きく振る。
ただ、慣れない関係性に戸惑っているだけだ。
そもそも友人も作ってこなかったのだ。
こうして毎日顔を合わせる相手など、ほとんどいなかった。
仕事上の付き合いですら、運転手である彼は同じ相手に顔を合わせる頻度は少なかったのだ。
「怒らせちまったかな…。」
自分の呼吸が整ってから、ようやくその可能性に思い至る。
あんなに優しく声をかけてくれた相手に、自分は一方的に会話を遮ってしまった。
いろいろとしてくれる相手に対してとるべき態度ではなかっただろう。
このまま扉を開いて、食事でもおごるべきだろうか。
そう思って振り返り、扉のノブを握る。
だがマンチャスの動きはそこで止まった。
声をかけるのが恥ずかしい…というわけでもない。
扉の向こうから、話声が聞こえたのだ。
そっと耳を扉に押し当てる。
「探しましたよ、エミット・オッタートン。」
扉の向こうから聞こえたのは、知らない男の声だった。
なんとなく嫌味な匂いがする声である。
「どちらさまですか?」
答えるオッタートンの声にも不審な色が浮かんでいる。
どうやら彼の知り合いでもないようだ。
このまま盗み聞きするのは良くない、と思いつつもそのまま耳を澄ませる。
「私のことは『ポール』とお呼びください。」
おそらく偽名だろう。
少なくとも素直に名乗っているような雰囲気ではない。
「それで、そのポールさんが何の御用なのです?」
「ここでは、ちょっと話せないことでして。
ご同行願えますか?」
その言葉にオッタートンは答えない。
どうやら返答を迷っているようだ。
「ちょっと待った!」
そこに割り込む、3つめの声。
いや。
「マンチャスさん…?」
オッタートンが驚いたように振り向く。
それは、マンチャス自身の声だったのだ。
「あ、と…。」
思わず割り込んでしまったが。
これでは盗み聞きしていたと白状するようなものである。
気まずくて、視線を上げる。
そこにいたのは、大柄なシロクマ。
どうやらこの男が「ポール」らしい。
この場をどう取り繕うべきか。
マンチャスがあれこれ考えを巡らせていると。
「レナート・マンチャス。」
相手のほうが、先に口を開いた。
「もちろん貴方にも来ていただきたい。
我々は、同士なのだから。」
思わずマンチャスはオッタートンに視線を向ける。
彼もまた、困惑した顔でこちらを見ていた。
マンチャス自身には、こんな胡散臭い男と同士になった覚えはない。
ツンドラタウンで働いている都合上、マンチャスはシロクマの知り合いは多い。
特に彼のボスであるMr.ビッグの所にいるのはほとんどがシロクマだ。
だが、目の前にいるシロクマはその誰でもない。
明らかに匂いが違うのだ。
「では、こうしましょうか。」
答えない二人に、「ポール」は軽く肩をすくめた。
「お話を聞いていただけるなら、今夜0時サバンナ・セントラルまで来て頂きたい。
詳しい場所は、こちらに。」
喋りながら取り出したメモ帳へと何かを書き込み。
一枚破り取ると、こちらに差し出した。
流石にそこまで無下にすることもないだろうと、マンチャスは一歩踏み出してそれを受け取る。
「それでは、お待ちしていますよ。」
受け取ってくれたことに気を良くしたのか、「ポール」は恭しくお辞儀をするとその場で踵を返した。
マンチャスもオッタートンも、無言でそれを見送る。
やがて草を描き分け彼は姿を消した。
後に残されたオッタートンとマンチャスは思わず顔を見合わせる。
「その…よかったら夕食でも食べていかないか。
このことについて、相談もしたいし。」
先ほど悩んでいた言葉が、すんなりと出た。
「よろしいんですか?」
そういうオッタートンの顔は、明らかに嬉しそうだ。
「ああ、散らかっているがそれでもよければ…。」
そう言ってからしまった、と思う。
冷静に考えれば散らかっているなどと言うレベルではない。
男同士だからそこまで気にすることもないとは思うが、ヒトを招くレベルには整えるべきだろう。
外食でも構わないが、それでは先ほどの相談がしづらいし。
「…片付けるから、少し待っていてくれ。」
そう言ってマンチャスは慌てて家の中に飛び込んだ。
部屋の中を見渡して、自分が発した言葉を心底後悔した。
確かに、そういう願望はあったかもしれない。
お詫びと言いながら自分の家のために何かと働いてくれるオッタートン。
その働きに対し、なんらかの報酬を払いたいという願望。
だがそれは、それだけだったはずだ。
なのに何故、自分の家に招くことになっているのか。
これに関しては完全に成り行きだとしか言いようが無い。
食事に誘うにしても、今日顔を合わせたのが朝なら自然に外に連れ出せただろう。
そうでなくとも、先ほどの「ポール」がいなければ家の中にという話にはならなかったはずだ。
あまりヒトに聞かれたくないたぐいの相談ごとができたから。
「くそっ。」
ともかく、今更後悔してもしょうがない。
今は部屋を掃除しないことにはどうしようもないのだ。
もう一度部屋の中を見まわす。
恋人を誘っているわけではないのだからそこまで神経質になることもないが、それでも初めての相手を招待するからには最低限の礼儀はわきまえておきたい。
とにかく散らかった木箱やダンボールの類を一箇所にまとめ、脱ぎ散らかした服は洗濯済みのものもそうでないものも丸めてクローゼットに押し込んだ。
机の上には食べ散らかしたものが大量に残っている。
近くのビニール袋を手に取ると、机の上のものを全てその中にかきこんだ。
流し台にもコーヒーサーバーやカップが大量に積んであるが、それに関してはもういいだろう。
彼をキッチンまで案内するつもりはない。
ゴミ袋もこちらにまとめてしまっていいかと思い、部屋にあったゴミもまとめてこちらに移す。
さて、夕食に誘っておいて食べ物がないと言うわけにもいかない。
冷蔵庫をあけて何かあったかを調べる。
調味料を除けば見事に空っぽだった。
「しょうがないか…。」
続いて冷凍庫をあける。
その中には山積みになった大小様々なピザが冷凍されていた。
そのうちの大きい一つを引っ張りだし、オーブンレンジに投げ込む。
スイッチは入れないままに、大慌てで玄関へと走った。
「すまない、待たせた。」
マンチャスの言葉にオッタートンは笑顔で首を振る。
内側は知らなくても、男の一人暮らしである。
それくらいは察してくれているのだろう。
「いえ、それよりも…シャワーをお借りしてもよろしいでしょうか。」
一瞬、動きを止める。
それは想定外の頼みだった。
だが言ってみれば当然だ。
彼はずっと庭先で土をいじっていたのだ。
エプロンをつけていたとはいえ、彼は顔まで泥だらけだった。
とても食事をする状態ではないだろう。
だが問題は体格差である。
オッタートンの身長はおよそ70センチ。
対するマンチャスはおおよそで2メートルである。
三倍も違う体格で、同じシャワーを浴びて耐えられるものだろうか。
水の中を得意とするカワウソである、多少は水圧の差は平気かもしれないが。
それでも蛇口に手がとどかないだろうし、シャワーの操作はとてもできないだろう。
かといって一緒に入るという選択肢も却下である。
いい年をした男二人、身を寄せあってシャワーを浴びるなど。
思わず想像したマンチャスであるが…思ったより嫌悪感はなかった。
「マンチャスさん?」
オッタートンが不思議そうに口を開く。
どうやら完全に考え込んだままフリーズしていたらしい。
「あ、いや…うちのシャワーはオッタートンさんにはでかすぎるんじゃないかと。」
「あ、そうですね…。
では、洗面台や流し台ではどうでしょう?」
「ダメだ!」
思わず即答するマンチャス。
流し台は先程確認したように、これでもかというほど汚れが溜まっている。
そんなところに案内するわけにはいかなかった。
洗面台も似たようなものである。
先ほどかき集めなかった洗濯物が大量に残っていることだろう。
ならば選択肢としてはシャワーを浴びてもらうしかないが。
「先にお湯さえ出しておけばなんとかなる、とは思うが…。」
ともかく家の中へと案内する。
最低限は片付けた、と思っているがオッタートンの目にどう映っているかはわからない。
マンチャスは彼の反応を見ようと、横目でちらちらと確認する。
汚れた室内に驚かれるかと思ったが、オッタートンはそれほど驚いていないようだ。
それよりも、何かを気にしているようで一点をずっと見つめている。
何を気にしているのだろうとその視線を追って――。
「うわああああ!」
マンチャスは思わずその視線の先のものへと飛びついた。
それは比較的よくある一冊の本。
ただなんというか。
その表紙には、猫科の女性が裸でポーズをとっているのだ。
「いや、その、すまない…。」
何故か謝るマンチャス。
それをニコニコとした笑みで見ているオッタートン。
「いや、マンチャスさんもそういうの見るんですねえ。」
マンチャスも健康な成人男子である。
そういった本くらい見ることもある。
だがそれがオッタートンに知られるのは、酷く恥ずかしかった。
「わ、忘れてくれ!」
慌ててクローゼットを開きそれを投げ入れようとして。
「うおっ!」
中から雪崩れてきた荷物に押しつぶされた。
先ほど丸めた服はもちろん、以前から入れていた他の荷物まで一緒になって崩れてきたのだ。
「…先にそちらを片付けないとですね。」
オッタートンは変わらず笑顔を浮かべている。
恥ずかしくて顔から火が出る思いだが、幸い嫌われたりはしていないようだ。
ひとまず荷物をまとめて再びクローゼットに入れ、服は洗濯物として洗濯機へと放り込む。
何が崩れてきたのかよくわからないが、マンチャスの頭も何かの水で濡れていた。
先ほど放り込んだ服を取り出しその頭をゴシゴシとこする。
「あの、よければ一緒にシャワー浴びます?」
意外な言葉にマンチャスは振り返る。
確かに今は二人とも汚れているし、そうすればオッタートンがシャワーを扱えないという問題もクリアできる。
何より先ほど自分で考えた案でもある。
だがそれは…。
「いいじゃないですか、男同士気にすることもないでしょう?」
言いながらエミットはマンチャスのズボンを掴む。
膝の辺りを掴んだエミットはそのまま歩き、シャワールームへと足を向けた。
そのまま足を踏ん張れば、当然エミットはそのまま前に進めなくなるが。
マンチャスは思わずエミットにつづいて歩いていた。
今のところ断る理由が見当たらないのだ。
やがて脱衣室に着くと、エミットは手を離して服を脱ぎ始める。
するりとセーターを脱ぎ、シャツのボタンを外していく。
ぱさ、と音を立ててシャツが地面に落ちた。
下に着ていたタンクトップもあっさりと脱ぎ捨てて。
少しだけ逆立った背中の毛が妙に色っぽい。
そのままオッタートンはズボンに手をかけて――。
「どうしました?」
不思議そうに振り返った。
どうやらぼんやりと脱ぐところを見つめてしまっていたようで。
「なんでもない!」
マンチャスは慌てて自分の服に手をかけた。
そういえばまだスーツ姿だった、と今更ながらに気がつく。
早めに脱いでおけばよかったと後悔しながら脱ぎ捨てる。
今日は後悔してばかりだと自嘲気味に小さく笑う。
ビキニタイプの下着のみを残して、マンチャスは手を止める。
改めてオッタートンを見れば、縦縞のトランクスを脱ぎ捨てるところだった。
ごくり、とつばを飲みこむ。
もちろん毛皮があるので性器を露出しているわけではないが。
それでもなんとなく恥ずかしさを覚えるマンチャス。
それに対して簡単に全てを脱ぎ捨てるオッタートン。
なんだか自分の方が男らしくない気がして、マンチャスも慌ててビキニを脱ぎ捨てた。
あまり深く考えてもしょうがない、と浴室の扉を開く。
大きなバスタブと、壁の上に着いた古いシャワー。
あとは端の方にまとめられたシャンプー類だけである。
「マンチャスさん、お背中流しましょうか?」
オッタートンが笑いながら尋ねてくる。
「いや、気持ちはありがたいが…ちょっと体格差大きくないかな。」
そう言うが、オッタートンはそれを無視してマンチャスの尻尾を引く。
どうやら座れということらしい。
しょうがなく床に腰を下ろし、タオルにボディーソープを取って泡立てる。
「これは洗い甲斐がありますねえ。」
嬉しそうに言ってオッタートンはごしごしと背中をこする。
少しずつだが、確実に背中を泡立てていく。
ヒトに背中を洗われるなど、子供のころ以来だろう。
それこそもはや記憶に無いレベルに昔のことだ。
「ありがとう、気持ちいいよ。」
思わずそうこぼしていた。
「力、弱いでしょう?」
「いや、ちょうどいい。」
オッタートンの言葉にマンチャスは首を横にふる。
目を閉じて、その刺激を素直に受け入れた。
オッタートンも無言で背中をこすり続ける。
「はい、綺麗になりましたよ。」
そう言ってオッタートンはタオルをマンチャスへと返す。
それを受け取り、マンチャスは少し仕返しを考えた。
先程から自分ばかりが恥ずかしい思いをしているように思えたので。
「次は俺の番だな。」
振り返り、オッタートンヘと手をのばす。
「え、いや、僕はいいですよ。
そんなすぐ終わっちゃいますし。」
何かを感じ取ったのか、オッタートンは距離を取りながら手を振って否定する。
だが3倍近い体格差である。
少し下がった程度では。
そしてこの狭い浴室の中では、マンチャスの手から逃れるのは不可能だった。
「じゃあ全身洗ってやる!」
そのままオッタートンを片手で抱えると、背中を思い切りこすってやる。
「あ、ちょ、マンチャスさん!くすぐったい!」
オッタートンは手足をばたつかせるが、それも抑えこんでマンチャスはオッタートンを泡立てていく。
背中だけでは飽きたらず、頭や手足、腹と順番にこすっていく。
「ま、マンチャスさん!ダメ!
そこらへんはその、ダメ!」
笑いながらオッタートンは必死で否定する。
そういえば、先ほどから妙に硬いものが手にあたっている気がする。
流石にそろそろやり過ぎただろうか。
マンチャスはふん、と鼻を鳴らすと手を離してオッタートンをおろしてやった。
少し申し訳なく思い、背中を丸めている彼に湯をかけてやる。
湯を浴びせられ、ゆっくりと振り向くオッタートン。
「マンチャスさん…。
ただで済むとは思ってないでしょうね…?」
オッタートンはにやりと笑って振り向いた。
妙な威圧感からマンチャスは一歩後ずさる。
だが。
この狭い浴室の中では、オッタートンの手から逃れるのは不可能だった。
それからおよそ30分。
しっかり湯船にも二人で浸かり(オッタートンは洗面器を利用していたが)、ようやく風呂からあがる。
「ああ、笑い疲れた…。」
思わず言葉を漏らすマンチャス。
あのあと散々オッタートンにくすぐられ、マンチャスは平謝りをしたのだった。
「マンチャスさんも可愛い笑顔するじゃないですか。」
オッタートンが意地悪い笑みで言う。
ヒトに対して、あんなに素直に笑ったのも本当に久しぶりだ。
考えてみればオッタートンと出会ってから、久しぶりの日常ばかりで。
マンチャスは、それがとても嬉しく思えた。
まるで本当に友達が出来たみたいだと。
口にだして確認する勇気は、なかった。
「ともかく食事にしよう。」
彼はお詫びとして家の庭を整えてくれている。
そして今は食事前だからシャワーを浴びただけ。
なによりあの胡散臭い「ポール」のことがあるから相談をするだけなのだ。
そこを取り違えてはならない。
決して、友達になれたわけではない。
「冷凍のピザくらいしかないがいいかな。」
もちろんここでダメだと言われても選択肢は他にない。
だがオッタートンがそんなところで断ってくる人物ではないと、マンチャスは自然に思えていた。
「ええ、もちろんです。
ご馳走になります。」
オッタートンの返事を聞きながら、先ほどピザを投げ込んだオーブンのスイッチを操作する。
温めている間にしっかりとした箱を探し、椅子の上に積む。
これでオッタートンもテーブルの上に届くだろう。
声をかける前にオッタートンは意図を察し、箱の上に飛び乗る。
「ありがとうございます。」
シャワーを浴びる前より幾分ラフな格好になっているオッタートン。
ずり落ちそうになったメガネをかけ直し、こちらを見上げて微笑んだ。
「いや…。」
思わず視線をそらす。
ちょうどそのタイミングでオーブンが音を立てて完了を告げた。
皿に移すこともなく、紙箱に入ったままのピザをテーブルの上に投げ出した。
「ミネラルウォーターでいいか?」
冷蔵庫にかろうじて入っていた水をコップに注ぎオッタートンに手渡す。
コップが少し大きいが、持ちあげられないわけではない。
特に問題ないだろう。
「すみません、頂きます。」
オッタートンは改めてお礼を言った。
マンチャスも向かいに腰掛け、ピザに手をのばす。
「それで、だな。」
恥ずかしくて、マンチャスから話を切り出す。
もちろん先ほどの来客についてだ。
「アイツ、どう思う?」
マンチャスの問にオッタートンはピザにかじりつきながら眉を潜めた。
「まあ、まっとうな匂いはしませんでしたね…。」
それに関してはマンチャスも同意見だ。
見た目や口調だけで判断するのは良くないかもしれないが、ズートピアに住むものが善人ばかりではない、というのはこの間身を持って再認識したばかりである。
だからこそ、必要以上に警戒してしまう。
「あの名前も偽名だろうしな。」
「そうなんですか?」
マンチャスの言葉にオッタートンは驚きの表情を見せた。
その部分は気づいていなかったのだろうか。
もちろんマンチャスの考えすぎだという可能性も十分にあるが。
「シロクマで『ポール』なら、Polar bear、だろう。
もちろん親がそこから取って名前をつけた可能性も否定出来ないが…。」
ただしゃべり方や名前を名乗る時の雰囲気からはとても本名を名乗っているようには思えなかった。
フルネームを名乗ったわけでもないし、そこを信じる必要はないだろう。
「まあ、どちらでも構わないか。
問題はコレをどうするかだな。」
言いながら「ポール」が置いていったメモを振ってみせる。
二人に対する招待状、である。
「普通に考えれば無視するのが一番な気はするが…。」
二枚目のピザにかぶりつく。
上にのったブロッコリーが零れ落ちそうになり、とっさに舌で受け止めた。
「常識的な対応としてはそうでしょうね。
わざわざ虎の尾を踏みに行く必要はありません。」
相手はシロクマだぞ、と言いかけて言葉を飲み込む。
そういう雰囲気ではなかった。
「ただ、わざわざ僕達の名前を調べてから声をかけに来ています。
それを考えるとここで断ってもまた何らかのアプローチがあるのではないでしょうか。
穏便な形であればいいのですが、最悪…。」
オッタートンには家族がいる。
そちらに対して強引なアプローチをされることがオッタートンのいう「最悪」だろう。
幸いというかなんというか、現在マンチャスには家族はいない。
勤め先に手をだすなら…むしろそのほうがこちらにとっては好都合だろう。
彼のボスはこの街の裏のボスと名高いMr.ビッグである。
素人が下手に手を出せば簡単に氷漬けだ。
むしろ今のうちに、Mr.ビッグに相談しておくべきだろうか。
いや、と一人で首を振る。
今のところは「なんとなく怪しい」程度の話であってあくまでこちらの心象のみである。
何らかの物証があるならまだしも、そうでない段階で話を持って行っても忙しいボスに迷惑をかけるだけだろう。
「なら…行ってみるか?」
この場所に、と先ほどの招待状をオッタートンの方へ滑らせる。
ちょうど一枚目を食べ終えたオッタートンはその紙に目を落とした。
「それもそれで危険ですよね…。
相手の本拠地に乗り込むようなものでしょう?」
正確には本拠地ですらないだろうが。
相手のフィールド、という意味では大きく間違っていない。
「そうなんだよな。
無視しようが行こうが、危険が残ることに変わりはないんだ。」
結局のところ、どういう相手かが全てである。
そしてそれはここで話していても解ることではない。
「指運で選ぶわけにも行かねえしなあ…。」
頭をかこうとして、油まみれの手に気づき動きを止める。
せめて何らかの打開策が欲しいところである。
「ならせめて…」
オッタートンはコップをなんとか持ち上げて、中身をぐびぐびと音を立てて飲む。
「折衷案で行きますか?」
「折衷案…?」
マンチャスは意図を汲み取れず、そのままオウム返しに呟いた。
オッタートンは頷き、口を開きかけて一瞬止まる。
しばらく考えたような表情を見せて。
「マンチャスさんはお酒は飲めますか?」
そう聞いてきた。
深夜0時。
マンチャスは一人サバンナ・セントラルまで来ていた。
そう、「一人」である。
彼はオッタートンと離れ、一人でメモに書かれていた集合場所まで来ていた。
なるべく後ろを取られたりしないよう、壁際に立って周囲を探る。
指定された場所は小さな公園。
だが街灯は少なく、ヒト通りも少ない「それらしい」場所と言えた。
「おや、お一人ですか…?」
急に声が聞こえる。
慌てて振り向けば、いつの間にかそこに「ポール」が立っていた。
「エミット・オッタートンは妻帯者だからな。
こんな夜中に出歩けるはずないだろう?」
マンチャスはそう言って肩をすくめてみせた。
片手をコートのポケットに突っ込んだまま、斜に構えて相手を値踏みする。
相手も決して綺麗とはいえないトレンチコートに身を包み、それ意外の特徴らしい特徴をなくしている。
もっともマンチャスはそれしかマトモに服を持っていないという選択肢のなさからの服装なのだが。
「それはそうですね。
それでは、まず貴方から。
こちらに来ていただけますか?」
そう言って「ポール」は歩き出す。
車移動かと思ったが、どうやら徒歩圏内のようだ。
マンチャスはひとまず胸をなでおろす。
車移動だと自分の居場所がわからなくなる可能性があったのだ。
逆に言えば、今回連れて行かれる場所はバレても構わない所なのだろう。
マンチャスは歩きながら、気づかれないように後ろを振り向く。
どこにも姿は見えないが、オッタートンがついて来ているはずだ。
そう、もちろんオッタートンは帰ったわけではない。
隠れてマンチャスについて来ているのだ。
これがオッタートンの言った「折衷案」である。
一人は相手の言った場所に顔をだす。
もう一人は出さない、ということだ。
もちろんもう一人も顔を出さないだけで、影から様子は伺うという前提で。
この案をオッタートンが出した時には、自分が囮役をすると言って聞かなかった。
だが明らかに体格が違いすぎる。
見つかりやすさも変わってくるし、何よりも車で移動された時にどうしようもなくなる。
オッタートンならチャンスがあればトランクに滑りこむこともできるかもしれないが、マンチャスには逆立ちしたってできないのだ。
ちなみオッタートンの家族には既に連絡済みである。
今日はマンチャスと飲み明かすという連絡をしたので、帰らなくても問題ないとのことだ。
「こちらですよ。」
やがて「ポール」は1件の廃屋の前で足を止めた。
大きなコンクリート打ちっぱなしの建物である。
窓も扉も既に大きな穴でしかない。
「ポール」はそのままアゴをしゃくってみせた。
中に入れということだろう。
マンチャスは背後に気をつけながら中へと歩みをすすめる。
足元からジャリ、と砂を踏む音がした。
建物の中は既に随分と汚れているようだ。
「待っていたよ。」
そんな中に爛々と輝く黄色い目がある。
じっと目を細め、暗闇に目がなれるのを待つ。
やがてその目の周りにぼんやりと輪郭が見えてきた。
そこにいたのはふさふさとした鬣を持つ獅子。
「レナート・マンチャス。
ツンドラ・タウンのリムジンサービス所属か。」
何を見るでもなくそう言う獅子。
「こんなところに呼び出して何の用だ。
名乗りもせずに。」
マンチャスの言葉に獅子は笑みを浮かべる。
「私は『メイン』。
そう呼んでくれ。」
mane、タテガミのことだろう。
ならやはりこれは偽名…というかコードネームだと推測された。
「レナート。
君は…15人目の被害者だったな。」
その数字と被害者という言葉ですぐにピンときた。
以前巻き込まれた失踪事件。
だがその事件に隠された裏側は肉食獣野生化事件。
そしてその事件の真実は肉食獣を排斥することによる草食獣の恐怖政治計画であった。
マンチャスはその事件に巻き込まれ、野生化。
一時的に失踪させられていた。
今ではヒーロー扱いされているある警察官によりこの事件は一応の解決を見ている。
だが有識者の間では禍根を残している、と発言するものも少なくない。
一度起こった事件である、なかったことに出来ないのは当然ではあるが。
「それがどうかしたか。」
なかったことには出来なくても、忘れてはしまいたい。
決して楽しい思い出ではないのだから。
「君のような人物に、我々の仲間になってもらいたいのだ。」
獅子は大きく手を広げてこちらを迎え入れるポーズを取った。
「仲間…?」
マンチャスの言葉に「メイン」は大きく頷く。
「そうだ、私達の仲間だ。
私たちは、肉食獣の復権を目的としている。」
復権。
それはつまり以前のように、ということだろう。
この街の市長は先程の事件の際に二度、変わっている。
最初はライオンハート市長。
目の前にいるのと同じ、獅子の勇猛な市長であった。
ややワンマン気質ではあったが、おおむね評判はよかったといえるだろう。
それが市長の座を退いたのは、例の事件に関して関わりがあったから。
犯罪者として摘発されてしまったのだ。
そしてその後の市長となったのが当時副市長であったベルウェザー。
小柄な羊であった彼女は健気に働く市長を演じてみせた。
だが、やがてヒーローである警官にその正体を暴かれる。
先ほどの事件の黒幕はこちらで、ライオンハート元市長ははめられただけだったのだ。
結果、現在の市長の席は空席である。
復権というからには、おそらくここを狙っているのだろう。
「…ただの選挙活動ってんじゃないんだろう?」
だとしたらわざわざ人目を避けて呼び出す意味は無い。
こんな場所に呼び出すからには、何か後ろ暗いことがあるとみるべきだ。
「君は、今回の事件をどう思った?」
「メイン」はもったいぶるように口を開く。
どう、と言われてもマンチャスは困る。
野生化している間の記憶などない。
首謀者が逮捕されてることもあり、マンチャスに言えるのは「いい迷惑」という感想くらいだった。
「そうだね、記憶が飛んでいる間に焦点を当てるとそう感じるかもしれない。
だけど。」
ゆっくりと「メイン」はマンチャスを指差す。
「その後、君はどういう境遇に追いやられた?
肉食獣は危険だという偏見が間違っていたという直後に治療が完了しただろう?」
その辺りの記憶もやや曖昧だが。
言いたいことは解る。
つまり、彼は偏見による差別を受けたのだろう。
「肉食獣は生物学的に危険。
DNAにそう刻まれている。
…ふざけるな!」
突然「メイン」は声を荒げた。
「下手な肉食動物よりも、象の方がよっぽど力が強い!
サイの方がずっと危険な角を持つ!
カバの方がより好戦的だ!
そしてなによりも!
牡羊よりも凶暴な生き物がいるものか!」
確かに、動物としてみればそうだ。
肉食ということで、牙や爪があることで危険だと思われているが。
身体の大きな草食獣や角を持つ種は肉食獣より強いことも珍しくない。
ただそのイメージだけで「肉食獣が危険」とされた。
そのことに彼は怒っている。
だがそれは義憤ではないだろう。
彼の目は確かに何かに狂っている。
あれは、実質的な被害を受けた者の眼だ。
「だから私は、私たちは。
復権を目指すのだ。
この街の市長を肉食獣に。
そして愚かな草食獣に制裁を。」
例えば、彼が大切な友人を差別によって失っていたとしたらどうだろう。
もし仮に今回の件でオッタートンが死んでいたとしたら。
今のマンチャスはそれを許せるだろうか。
当時なら何も思わなかったかもしれないが、今のマンチャスなら。
「…だけど、この街の住人の9割は草食動物だ。
仮に差別意識が撤廃されていたとしても、肉食動物に権利をというなら草食動物の票は集まらないだろう。
それに復讐というが何をするつもりだ?
主犯・実行犯共に既に逮捕されて実刑判決もでている。
これ以上に何を望む?」
ゆったりと首を振る「メイン」。
何か勘違いしていると言わんばかりに。
「私達の復讐は主犯にではない。
草食動物達に、だ。」
勘違いするなよ、と念を押してくる。
「なおさらどうするつもりだ?
まさかこの街から草食動物を追い出すとでも言うんじゃないだろうな。」
「メイン」は再び首を振る。
流石にそれは現実的な話ではない。
「肉食動物と草食動物は相容れない、ということは今回の件でお互い身にしみたはずだ。
だから、市長を擁して肉食と草食を区別する法案を推していく。」
なるほど、つまり一気にどうにかするという話ではなく。
徐々に、少しずつ二つの種として区別していくつもりなのだ。
それは差別ではないのか、とも思うがそこは分けて考えるべき場合もある。
例えば男女は同権であってもそれこそ「生物学的に」できることと出来ないことはある。
ならばそこはきちんと「区別」するべきなのだ。
そのほうが互いに幸せになれるという主張が世間にも存在している。
それはまだ理解できる。
だがその「区別」が「差別」の温床になってはならない。
「メイン」はそこをあえて「差別」の温床にするべきなのではないだろうか。
「そうやって草食動物を差別すると?」
「そうだ。」
マンチャスの言葉に「メイン」はあっさりと頷いた。
「肉食が草食を支配する。
それでこそ、この世界は平和になる。
奴ら草食は野蛮で、愚かだ。
我らのような選ばれた生物こそが王者として君臨するべきなのだ!」
完全な選民思想である。
おそらくわざとそちらに傾倒しているのだろうが。
そろそろ否定してやるべきだろうか。
「そこまでする必要があるのか。
事件はもう収束しているはずだ。」
マンチャスの言葉に「メイン」の目がすっと細められる。
怒っている、のだろうか。
「本当に事態は収束しているのか?
未だに肉食獣は危険だと主張する奴はいる。
肉食だからこそあそこまで野生化したのだという意見すら残っている。
…今回の事件では、『夜の遠吠え』は肉食獣にしか使われなかったからだ。」
草食動物ならばあそこまで危険なことにはならなかった、ということだろう。
だがそれは穿った見方…だと思う。
マンチャス自身も肉食動物だからそう思うのだろうか?
「だから私は肉食動物の復権こそが必要だと考える。
民衆は所詮愚かなものだ。
上から与えられた情報によってのみ自らの立ち位置を決定する。
ならば、今までの状況を甘んじた肉食獣がトップに返り咲き、上から正しい『区別』を実施する。
それこそがこの街のためであり、真の楽園として必要なことなのだ。」
おおよそ、彼の言いたいことは飲み込めた。
特に被害にあったマンチャスやオッタートンのような人物を探し。
そしてこうやって、自分たちのチームに引き込む。
やっていることはそこまで珍しいことではないだろう。
問題は。
ここまでの説明だけでは、最初の疑問に立ち返る。
何故わざわざ人目を避けるようなことをするのか?
確かに「要区別論」は少々過激だが、口にした途端に即御用というような話でもない。
場合によっては病院に連れて行かれるかもしれないが。
「それで、核心は?
俺がそれに協力したとして、どういう手法を取るつもりなんだ?」
満足したように「メイン」は頷く。
具体的手段に話が及ぶのなら、協力を表明したようなものである。
もちろんマンチャスには彼らと徒党を組むつもりはない。
ただ情報が欲しいだけなのだ。
これで全うな話であればほとぼりが覚める頃に穏便に抜ければいい話だ。
逆に怪しい話なら警察なりに駆け込むだけである。
ここでもオッタートンでなくマンチャスが来たことが有利に働く。
いわゆる「裏切れば家族を…」系の脅し文句が使えないからだ。
「君たちが苦渋をなめた『夜の遠吠え』だが。」
ゆっくりと、低い声で話し始める。
「再び流通しているという話があるのを知っているか?」
「まさか…。」
思わずマンチャスは呟く。
あの事件以降、「夜の遠吠え」ことメンディキャンパムホリシフィアスは出荷制限をかけられている。
天然の防虫成分があることから農家などでは積極的に植えられていたようだが、
今回の事件を契機にほとんど入手できなくなったのだ。
もっともそれでは農作物に影響がでるから、品種改良の必要性が叫ばれている。
「もう入手できないはずだろう?」
「だが事実だ。」
それが事実なら、誰かがまた同じことを企んでいるということだろうか。
既に治療法は確立しているが、それでも脅威にはかわりないだろう。
「だから我らはそれを探さなければならない。
それを用いてまた肉食獣の失墜を企まれてはたまらんからな。」
なるほど、確かにそうかもしれない。
「見つかりそうなのか、犯人は。」
「さあな。
あるいは、見つけなくても構わないのかもしれんが。」
犯人を見つけない…ということはどういうことだろう。
妨害に使われるのなら対策を打たなければいけないはずだ。
「さて、随分と話し込んでしまった。
そろそろ君の明確な答えを聞いておきたい。」
改めて問われた。
この話を全て信じるなら彼らは決して悪人ではない。
やや過激思想で自分とはそりが合わないが、そこまでの話だろう。
人目を避けているのも、秘密裏に「夜の遠吠え」を追っているのだと考えれば一応の説明はつく。
勧誘が成功する前にそこまでの情報を漏らすのはどうかと思うが、相手の信用を得るためにある程度の情報を開示するのは有効な手段の一つとも言える。
ここで頷けば、もっと驚くべき情報がでてくるかもしれないのだ。
だが全てを信じていいかは疑問が残る。
あれだけの過激思想である。
人目を避けていることから考えても何らかの犯罪に手を染めている可能性はあった。
ならば可能な限り返答は引き伸ばし、情報を探る方がいいだろうか。
あるいはここまで踏み込んだのなら、さっさとMr.ビッグの所へ逃げ込んでしまったほうが得策かもしれない。
「断る、と言ったら?」
ひょい、と「メイン」は肩をすくめてみせた。
「別に構わない。
君のような『被害者』こそが我々に賛同してくれると信じて優先的に声をかけているだけだ。
我々は君が想像するような、怪しい組織ではないからな。」
そう言って「メイン」は笑った。
非常に嘘くさい、とマンチャスは感じる。
だがそこに突っ込む必要はあるだろうか。
このまま引き上げて、「夜の遠吠え」のことだけをMr.ビッグに相談する。
それが得策だろう。
「じゃあ、悪いがこの話はなかったことにしてくれ。」
マンチャスの言葉に「メイン」は鷹揚に頷く。
本当にこれで話はまとまるのだろうか。
後ろを振り向くが他に誰かがいる気配はない。
このまま帰っても構わないのだろうか。
「メイン」は何も言わない。
マンチャスは後ろを気にしながら、ゆっくりと建物を後にした。
建物を出て、一人暗い街中を歩く。
たまにちらちらと振り向くが、尾行が付いている気配はない。
本当にフリーにされているのか、気づけないほど相手の尾行が上手いのか。
ともかくオッタートンとの合流場所へと向かう。
念のため何度か尾行をまくような道順も取ったし大丈夫だろう。
町の中央にあるダウンタンから少し離れれば、人目の少ない場所は多い。
先ほどの場所からは少し離れた廃屋に、マンチャスは入った。
「オッタートン…?」
声をかけてみるが反応はない。
どうやらまだ到着していないようだ。
周囲を見渡すと、大量に段ボール箱が積まれている。
それでもマンチャスの家の中よりよっぽど片付いている気がした。
手近な箱のホコリを払い、腰掛ける。
明かりが漏れるのを気にしながら、ポケットから携帯を取り出した。
画面を見ると、メッセージが届いている旨が表示される。
先ほど連絡先を交換したオッタートンからだ。
『奴らが動き出しました。
行けるところまで尾行してみます。
また連絡するまで待っていてください。
』
そう書かれていた。
確かに必要なら尾行も考えていたが、今更する必要があるだろうか。
もっともこちらから連絡を取るわけにもいかない。
尾行中であれば音を立てるような行為はご法度だろう。
ともかく再度連絡があるということなので待ってみることにした。
その間に、奴らの目的を考える。
総合すれば、彼らは肉食獣を市長にすることを目的とした組織のようだ。
「夜の遠吠え」で不当に落ちた肉食獣の評価を再度上げることが目的、だという。
もっともその思想はやや過激で、当選した暁には今度は草食動物を差別しそうな勢いではある。
だがそのような法案が通るかどうかはまた別問題であり、今そこまで気にかける必要もないだろう。
どちらかといえば問題は彼らが持っていた情報の一つ。
「夜の遠吠え」がまた出回っている、という話の方である。
誰が、何のためにそれを入手しているのか。
そしてどのタイミングで使われるか、である。
おそらくその話をまだ表に出したくないからこその、秘密裏の勧誘なのだろう。
そう考えればだからこそのオッタートンの勧誘であったのかもしれない。
花屋であるオッタートンは以前の事件の際にも「夜の遠吠え」の異常な出荷量に気づいていたと聞く。
その辺りの情報を求めてだとしたら。
だがそれならオッタートンは勧誘された際に、いやそれ以前に。
再度Mr.ビッグに相談を持ちかけていても不思議ではない。
ならばオッタートンですら気づいていなかったはずだ。
「遅いな…。」
そう考えて再び携帯に目を落とす。
最近変えたばかりのスマホだ。
ずっと電話としていか使っていなかったのでいまいち使い方はわかっていないが、先ほどオッタートンに最低限の使い方を教わっている。
恋人同士が使うアプリとやらを先ほど入れられた。
なんでもお互いのいる場所が解るらしい。
そのアプリを起動し、地図を開く。
自分のいる場所の他に、もう一箇所光が点滅している場所があった。
どうやらそこがオッタートンのいる場所らしい。
光の点は動いていない。
どうやらオッタートンは、少なくとも彼の携帯はその場にとどまっているらしい。
そこが奴らのアジとなのかどうかは不明だが、ひとまず近くまで行ってみよう。
そう考えてマンチャスは腰を上げる。
建物の入口から外をうかがう。
例によって尾行の気配は感じない。
建物を出て静かに走りだす。
ダウンタンから離れて更に南西へ。
位置としてはリトルローデンシアのさらに西側、スタジアムの近くのようだ。
ここからなら駅を経由して走るのが最も早い。
頭のなかで地図を描きながらマンチャスは走る。
彼の仕事は運転手なのだ。
慣れていない土地でも、事前に地図さえ見ておけば最適なルートはすぐに描くことが出来る。
それがたとえ一瞬であったとしても。
走ること十数分。
やがて、オッタートンがいると思われる場所に出た。
おそらくここだろうと、建物を見上げる。
随分と大きなビルだ。
ビルの名前をみると「バニヨン医薬研究センター」と書かれている。
バニヨンはこの辺りの地名のはずだから、個人の特定には役に立たないだろう。
強いて言うなら、この建物まるまる一つが奴らが潜伏している可能性があるということくらい。
建物の近くで少し待ってみるが、何の動きもない。
オッタートンからの連絡もだ。
彼の身に何かあったと考えるべきだろうか。
そう思うと、急に落ち着かない気分になってくる。
彼の身に何かあったとしたら。
マンチャスは立ち上がり、ビルに近づいた。
中に忍び込むべきだろうかと考えて。
すぐに決断した。
オッタートンの安全が一番だ。
ビルの入り口を見る。
ガラス張りの、非常に見通しのいい玄関ホールだ。
だが当然のようにそこはロックがかかっている。
セキュリティももっとも厳しいだろう。
幸い警備員が周囲を見まわっている様子はないので、建物沿いにぐるりと回ってみる。
裏側に回った際に、通気口があるのを見つけた。
オッタートンならこの通気口から中に忍び込めただろう。
だがリトルローデンシアが近い立地である。
この通気口にもセキュリティが仕込まれている可能性は否定出来ない。
さらに足を進めて隣のビルとの間に入る。
その路地裏は非常に狭く。
「登れるな…。」
両手両足でしっかりと左右に突っ張れば、上まで登れそうな気がした。
上を見上げるといくつか窓が見えた。
縦に同じ位置に並んでいるが、二階だけは換気用のための小さな窓しかない。
防犯上の理由だろうが、三階まで登ればマンチャスの身体でも忍び込めそうだ。
また、周囲にはやや弱そうではあるがパイプも何本か走っている。
配管が多いことやずっと同じ形に上に続く窓。
構造上、おそらくこの周辺はトイレなのだろう。
はるか上の方では開いている窓もあるが、果たしてあそこまで登ることが出来るかどうか。
三階辺りの窓の鍵が空いていれば一番ありがたいのだが。
そう考えながら。
マンチャスは壁に手をかけてゆっくりと登り始めた。
「晴れててよかったな。」
手足でつっぱりながら思わず声にだして呟く。
これが濡れていれば滑って登るどころの話ではなかっただろう。
そう考えながら全身の筋肉を使って上を目指す。
三階にたどり着いたが、窓はやはり閉まっている。
割って入ってもいいが、それこそセキュリティに引っかかるだろう。
ならば更に上。
五階の窓なら最初から開いている。
不用心なのか、それとも罠なのか。
普通に考えて登ってくることなんて考えていないだろうから、きっと不用心なだけだろう。
トイレの窓を覗いて、外から入ってこれるかどうか…などと考える人物はそうはいない。
「うおおおお…!」
力が抜けそうになるのを気合だけでとどまる。
それでもなんとか五階までたどり着いた。
「あー、間に合ったー。」
だが、中から声が聞こえる。
窓に手をかけそうになるのを必死で押しとどめ、手足で壁につっぱる。
じょろじょろと聞こえる水音はおそらく考えたくないたぐいのものだろう。
問題は、それがやたらと長いことである。
いったいどれだけ溜めていたというのか。
かるく一分はその水音を響かせて。
「すっきり、すっきり。」
鼻歌などを歌いながら、彼はトイレから出て行った。
「うおおおおお…!」
うめき声を上げながらマンチャスは窓の中へと滑りこんだ。
予想通り、そこは男子トイレ。
「長すぎるだろ…!」
マンチャスはその場にへたり込んで思わず悪態をついた。
あまり綺麗な場所ではないが、そもそも綺麗な服を着ているわけでもない。
身体を引きずるようにして、個室に入り鍵をかける。
これなら誰かが入ってきても怪しまれないだろう。
ポケットから携帯を取り出し、オッタートンの位置を確認する。
やはりこの建物内から動いていない。
高さの表示まではされていないので、どこのフロアにいるかはわからない。
ワンフロアずつ見ていくしかないだろうか。
個室からでて、トイレの外を伺う。
幸いヒトの姿はない。
だが先ほどヒトがいたことを考えると、誰かはこのフロアに残っているはずだ。
足音を立てないように、壁沿いに歩く。
長い廊下に沢山の部屋が左右に並ぶ作りだ。
これでは誰かが出てきた時に隠れる場所がない。
扉の中も覗けず、中の様子を伺うには耳を押し当ててみるしかないだろう。
これは後回しにするべきか。
マンチャスはそう考えて階段の方へと足を向け。
一つの扉が、少しだけ開いていることに気がついた。
先ほどトイレに来た人物の部屋だろうか?
身を低くして、見つかりにくいようにしながら中を覗く。
幸い、その部屋の主はこちらに背中を向けていた。
白衣をきた、おそらく狼の後ろ姿。
テーブルの上にあるコーヒーサーバーを操作している。
どうやら一人残業中のようで。
中にオッタートンがいる気配はない。
「あー、トイレ近いな…。
うんこ、うんこ、うんこ〜。」
妙な歌を歌いながら彼は振り返る。
マンチャスはとっさに顔を引っ込めた。
毛皮は黒く、周囲も暗いからおそらく見つかってはいない。
だが、足音は確実にこちらに近づいている。
誰も居ないことを祈りながら、マンチャスは近くの部屋に飛び込んだ。
足音が、マンチャスがいる部屋の前を通りすぎていく。
音が聞こえなくなったのを確認して、マンチャスは部屋から滑り出た。
先ほどの部屋の中を覗き込み、誰も居ないことを確認してから中に滑りこむ。
電源が入りっぱなしのPCにはズートピアの地図が映しだされていた。
いくつか色が付いているのは何を表しているのか。
意味は気になったが、ここにはオッタートンを探しに来ているのだ。
あまり深入りするのも良くないと考え、部屋をでて階段を降りる。
下の階には真っ暗だった。
どうやらもうこのフロアには誰も居ないらしい。
同様に明かりのない三階もスルーして二階へ降りる。
二階は、煌々とした明かりにあふれていた。
思わず階段の中程で足を止める。
耳を澄ませば、話し声まで聞こえてきた。
聞き覚えのある声は「メイン」かもしれない。
となるとオッタートンはこの近辺にいるのか。
だが降りるには、二階は明るすぎた。
マンチャスの大きさで降りれば、間違いなく簡単に見つかるだろう。
それくらいにそこは明るいのだ。
「…マンチャスさん!」
不意に声が聞こえた。
一瞬驚くが、それは自分の聞きたかった声だと気がつく。
階段から身体を乗り出し下を覗き込むと。
一階へと続く階段に、オッタートンがいた。
どうやら彼も二階の様子を伺っていたようだ。
「よかった、無事だったか…。」
マンチャスは身を乗り出し、手を伸ばす。
すぐに意図を理解して、オッタートンは壁を蹴りながら駆け上りマンチャスの手を掴んだ。
そのまま引き上げて、二人は合流を果たす。
「危ないことはするな…!」
マンチャスの言葉にオッタートンは困ったように笑う。
正義感が強いのは結構なことだが、自分たちは警察でもなんでもないのだ。
こういうことは専門家にまかせておけばいいだろう。
そう諭したが、オッタートンは曖昧に頷くのみだ。
「…僕達が被害を被った『夜の遠吠え』をまた悪用する誰かがいるのなら。
僕はそれを確認しておきたかったんです。
僕達みたいなヒトがでたら、嫌だったから。」
なるほど、とは思う。
気持ちはわかるのだ。
自分たちが受けた被害。
それと同じものがあるかもしれないと、目の前にヒントが転がっている。
ならば飛び込みたくなるその気持は、痛いほどに解る。
だがそれをするわけにもいかない、というのが普通の感覚だ。
「それに警察に駆け込むにしても、Mr.ビッグに相談するにしても情報が足りなさすぎます。
どこの誰かもわからないヒトから、いつ何がおこるかもわからない不確定な話をきいただけ、では…。」
確かに、それでは自分たちの妄想と言われてもしょうがない。
Mr.ビッグなら無視はしないだろうが、動きようもないだろう。
だがそれでも。
それでもオッタートンだけには――。
「誰だ!」
頭上から声が降ってきた。
見上げれば、白衣を着た狼がこちらを睨んでいる。
おそらく五階に残っていた彼だろう。
先ほどの声を聞きつけたのか、二階からも足音がこちらに向かっている。
下に逃げては鉢合わせだろう。
となれば。
「エミット、捕まれ!」
隣にいたオッタートンを抱え上げ、マンチャスは上にむかって駆け上がる。
マンチャスがしがみついたのを確認して手を離し。
目の前の狼の脚に飛びかかる。
おそらくこちらに飛びかかってくることは想定していなかったのだろう。
彼は簡単にその場に倒れこんでくれた。
そのまま踏みつけるようにして上の階へと上がる。
「上だ!追え!」
声を背中に聞きながらマンチャスは走る。
その間にオッタートンは身体を駆け上がり、マンチャスの肩にしがみついた。
「上に逃げ道あるんですか!」
「ない!」
耳元で聞こえるオッタートンの声にマンチャスは即答した。
このシチュエーションでは隠れたところでおしまいだ。
相手のほうが人数がいる状況でそんなことをしても、順番に調べられたら終わりである。
ならやはり何らかの逃げ道を作らなくてはならないが。
オッタートンだけでも通気口に投げ込むべきだろうか。
あまり別行動したくないがしょうがないかもしれない。
「どこから入ってきたんです!?」
トイレだとは、あまり言いたくない。
だが、やはり入ってきた場所から出るのが鉄板だろうか。
「エミット、高いところは大丈夫か!?」
「はい!」
マンチャスの言葉にオッタートンは迷わず答える。
足音を後ろに聞きながらトイレに飛び込んで、開いていた窓から身を躍らせた。
そのまま壁のパイプに手を伸ばし、落ちないようにブレーキをかける。
手足をつっぱらせて、そこから更に上へ。
幸い屋上は眼と鼻の先である。
オッタートン一人分の重みが増えてもそれくらいはすぐに登り切ることが出来た。
念のために隣のビルの屋上へと登る。
「どこいった!下をさがせ!」
声が聞こえる。
流石にあの場所からでて上に逃げたとは思われていないようで。
やがてヒトの気配はなくなった。
「無茶しますね…。」
オッタートンがマンチャスの胸の上から、顔を覗き込んできた。
「エミットに言われたくないな。」
目を閉じてそう返す。
確かに結構な無茶はしたが、オッタートンの方がよっぽどである。
自分が新入しなかったらどうするつもりだったのか。
「僕も…。」
「ん?」
オッタートンが珍しく、恥ずかしそうに口を開いた。
思ったことは口に出し、したいことはする。
そういう性格だったように思うが。
「いえ、なんでもないです。
助けてくれてありがとうございました。」
胸の上でそうにこやかに言うオッタートンに。
「おう…。」
マンチャスは視線をそらして、曖昧に答えた。
しばらく屋上に仰向けに寝て、息を整える。
さて、ここからどうするべきか。
「マンチャスさん。」
オッタートンは胸から飛び降りた。
それを契機にマンチャスは身を起こす。
冷たいコンクリートの上にあぐらをかいた。
「どうやら、彼らは『夜の遠吠え』の治療薬を手に入れているようです。」
それは、おそらくマンチャスやオッタートンも投薬されたものだろう。
経口摂取すれば血中に存在する「夜の遠吠え」の成分を無効化してくれるらしい。
「なら、ホントに悪用されるのを防ぎたいだけなのか?」
マンチャスの言葉にオッタートンは答えない。
ただ難しい顔だけをしている。
「とにかく、いったん戻りましょう。
僕も少し『夜の遠吠え』の出荷について調べてみます。
マンチャスさんも、いったん僕の家に来てください。」
確かにここからなら、マンチャスの家よりもオッタートンの家のほうが近い。
だが夜が明けなければ調べるも何もないだろう。
「それに、うちで飲んでるって話にしているんじゃなかったか?」
「そういえば…。」
オッタートンが苦笑いを浮かべた。
時間が立っているとはいえ、まだ夜が明けるには時間がある。
飲み明かしているはずの夫が、シラフで夜中に帰ってきたらどう思うだろうか。
「いったんうちに帰るか。
ともかく夜が明けないことにはどうしようもないだろう。」
マンチャスの言葉にオッタートンは頷く。
再び肩にオッタートンを乗せ、マンチャスはビルの間に身を躍らせた。
パイプをうまく使い、そのまま下へと降りていく。
幸いもう周囲にヒトの気配はない。
そのまま東へ走り、リトルローデンシアの前を抜けてサハラ・スクウェアへと向かう。
そこからならタクシーを拾っても問題無いだろう。
そのまま無言で走るマンチャス。
左肩にあるオッタートンのぬくもりを感じながら、今後のことに考えを巡らせた。
レインフォレストの、マンチャスの家。
そこに二人は戻ってきていた。
お互い怪我らしい怪我もなく無事である。
まずはそのことをお互いに確認した。
「さて、本当にどうする?」
ミネラルウォーターを冷蔵庫から取り出し、オッタートンのコップに注ぐ。
自分の分は直接瓶にくちづけることとして、椅子に腰を下ろした。
「さっきも言ったように、僕は『夜の遠吠え』について調べます。
僕の知る限り、もう出荷は制限されているはずなんですが…。
ただ僕の店にもある程度在庫はありましたし、他の街では制限されていないところもあるかもしれません。
手に入れるとしたらそういったところからだと思います。」
なるほど。
市長選に際してそれを使われたら、確かに問題だ。
対抗勢力が使うとしたら、また肉食獣の株を下げるためだろうか。
「でももし『夜の遠吠え』が使われて。
肉食獣が暴れたとして…治療薬はもうあるだろう。
今更そんなことしても肉食獣の株は下がるか?」
仮に暴れだしたとして、それは「夜の遠吠え」のせいだとすぐに皆気づくだろう。
それだけの知名度は、この街で既に得ているはずだ。
「直接立候補者に打ち込むかもしれませんね。」
確かにその可能性はあるだろうが…。
そうなった場合でも、被害者として認知されるだけだろう。
「治療薬はもう手に入れているんだろう?
なら直接打ち込まれてもすぐに治療はできる。
手際が良ければ暴れることすらなく終わるかもしれない。」
「だからきっと…『夜の遠吠えを使われた』という事実が大事なんでしょうね。
相手のその証拠を見つけられれば、逆に相手を失脚させることができますから。」
なるほど、それはそうだ。
相手を陥れられるなら、それに越したことはない。
「そういう意味では彼らはまだ出方を待っているところなんでしょうが…。」
オッタートンが渋い顔をする。
先ほども言っていたように、彼は「夜の遠吠え」が使われないという結果を望んでいる。
可能なら未然に防ぎたいということだろう。
「まさにその通りです。
たとえすぐに治療されるとしても…。」
オッタートンは静かに目を伏せた。
あの時のことを思い出しているのか。
「せめてどこで使われるのかわかれば――。」
そう言いかけて。
マンチャスはふと思い出した。
あの時見たPCの画面。
そこにはズートピアの全域の地図が描かれていた。
ズートピアは複数のエリアに分かれている。
一般的にはそのエリアごとに色分けされた地図が使われる。
レインフォレストなら緑、ツンドラタウンなら青といった具合だ。
だが先ほど見た地図は違う部分で区切られていた。
サハラスクウェアの一部やツンドラタウンの隅など…。
意味ありげに色を分けて塗られていたのだ。
ひょっとしたらアレがそのエリアを表しているのかもしれない。
クローゼットを開き、手を突っ込んで中から地図を取り出す。
今にも雪崩れそうな荷物の山の中から、それは奇跡的に姿を表した。
マンチャスはそれを広げると、思い出しながらエリアに色をつけていく。
「なるほど、既に下調べを終わらせていた可能性はありますね。」
だがそれはそれで疑問が残る。
場所がわかっているなら未然に防ぐというのが普通の考え方ではないだろうか。
ならば既に対策済みのエリアだろうか。
「対策まで手が回っていない、という可能性もありますが…。」
どちらにせよ、地図のエリアで起こる可能性が高いということだろう。
「でも、そんなに解るものでしょうか?」
オッタートンの言葉にマンチャスは首をひねる。
だがマンチャスは確かに地図をみたのだ。
全く関係ない地図だった可能性はあるが。
「事前にばらまいた場所が解るくらいに情報がはいってくるなら、その証拠を突きつけてやればいいじゃないですか。
本来の目的は相手を失脚させることでしょう。
むしろ『夜の遠吠え』がばらまかれる前に突きつけてこそ意味がある証拠だってあるはずです。」
たしかに、この地図は事前に突きつけてやれば証拠になる可能性はある。
だがばらまかれてしまってはただの情報をまとめただけの地図に成り下がる。
「だから、思いつきなんですけど。
逆の可能性は、ありませんか?」
オッタートンの言葉に、改めてマンチャスは首をひねる。
逆ということは、色のついていたエリアが安全ということだろうか。
「いえ、そういう意味ではなくて。
ばらまいたのが、彼らだという可能性です。」
それは――
「考えなかったな…。」
「彼らがばらまく側であれば、色々と説明できます。
この地図も調べるまでもなく簡単に作ることが出来ます。
証拠を突きつけないのも自分たちのことだから当然ですし、相手に罪をなすりつけるなら騒動が起きた後のほうがいいでしょう。
なにより、マンチャスさんに尾行がつかなかったことです。
事件が起こることを予見し、事前に秘密裏に動いていたと証言してくれる第三者ができることは彼らにとって有利になるでしょう。」
たしかに、オッタートンのいうことはもっともだ。
だがそれは不自然な点がなくなるというだけで、それが真実という証明はない。
「もう一度、彼らを調べてみるべきではありませんか?
下手に肩入れして間違っていた、なんて事になっては目も当てられません。」
確かにオッタートンのいうことは正しい。
正しいのだが。
それはあくまで一つの点に目をつぶれば、という前提が要る。
「オッタートン、よく聞いてくれ。
俺達は、警察でもなんでもないんだよ。」
オッタートンの発言は、あくまで「自分たちで解決するなら」という考え方だ。
つまり自分たちの身分に目をつぶれば正しいのである。
「不確定であることをきちんと明確にしたうえで、警察に連絡する。
それが俺達のとる最善の方法だよ。」
自分たちはあくまで一市民でしかない。
ならば警察に届けでて、あとは任せるというのが一番だ。
それが最も安全だし、逸脱しない範疇だろう。
正確に言えば、すでに自分たちの行動は一般市民から大きく逸脱している。
情報提供したとしても、知りすぎていて逆に怪しまれる可能性すらでてくるレベルだ。
だからこれ以上深追いするべきではない。
解決は警察に任せればいいし、身を守りたいならMr.ビッグの所に身を寄せるのが一番安全なのだ。
「それは…そうなんですが…。」
マンチャスの言葉にオッタートンの表情が曇る。
マンチャスのほうが正しいことを言っていることはわかっているのだろう。
だがそれでも感情が納得しない。
「警察に届けていては、手遅れになります。
この夜の内に動いてしまわないと、証拠は対抗勢力の方にうつるでしょう。
たとえどちらが悪人であったとしても。
そうなる前に知っておくのは、今の僕達にしか出来ません。」
確かに時間が大切だということは解る。
だがそれでも行くべきではないとマンチャスは考えている。
そこまで完全な偽装など出来るはずがない。
「証拠を動かすにも証拠が残る。
例えば車で荷物を運べば、交通カメラに残る。
一般の業者を利用しても利用記録が残るんだ。
警察だって馬鹿じゃない。
同じ失敗を繰り返すことはないよ。」
確かに、以前の事件の際には元市長に罪がなすりつけられた。
正確な捜査をすることもなく簡単に発表した警察に非難は集まっていたが。
それでも最終的に真相を暴いたのが警察だったこともあって、大きく話題にはならなかった。
「だから、任せよう。
俺達がするべきことじゃあないんだ。」
マンチャスの言葉にエミットは唇を噛みしめる。
「それでも…。
それでも僕は家族を守りたいんです。
僕は以前野生化して妻を、子どもたちを悲しませました。
放っておけば、次は妻と子どもたちが野生化させられます。
そんなこと…そんなこと、見逃せるわけ無いでしょう!」
オッタートンが声を荒げ、身を乗り出してくる。
マンチャスはそれを見て、とっさに身体を引いた。
思わず、右目をかばいながら。
「…!」
しまった、と思う。
だが、遅かった。
その動きの意味は、オッタートンにも伝わっていた。
辛い顔も、悩んでいる顔も見た。
だが今の彼は。
とてもとても深い悲しみをたたえいてた。
「ありがとうございました、Mr.マンチャス。
この数日間、僕も楽しかったです。
だけどもう、行きますね。
これ以上ご迷惑はかけられない。」
そう言ってオッタートンは椅子から飛び降りた。
「待ってくれ、エミット!」
マンチャスは立ち上がり思わず叫ぶ。
小さな背中に向かって必死に手を伸ばす。
「さようなら。」
だけど彼は、そのまま扉をくぐって。
マンチャスの家から、出て行った。
「違うんだ…。
そんなつもりじゃ…。」
他人の居なくなった部屋の中で。
マンチャスの言葉が小さく響いた。
家の外は、雨が降っていた。
深夜帯、レインフォレストは雨を降らせる。
スプリンクラーによる自動的な散布が行われるのだ。
外に出てその雨に打たれるマンチャス。
ようやく出来たと思っていた友人を、彼は失ってしまった。
そんなつもりはなかったのに。
自分の軽率な行動と、軽率な発言で。
濡れた鼻から雫が口の中へと伝って入ってくる。
甘みも何もない、ただの水の味。
ふと、脳裏をよぎる。
「夜の遠吠え」はどうやってばらまかれるのだろうか?
マンチャス達が被害にあった時は狙撃の形が取られた。
だがアレはひとりずつ野生化させるのには適した方法だが、複数人に被害を与える方法ではない。
今回は騒動は大きい方がいいだろうから、おそらく不特定多数にばらまかれる。
というか、狙撃スタイルであった場合それこそ自分たちの手におえる話ではなくなる。
では今マンチャスを濡らしているように、雨として降らせるのがいいのではないかと考えたのだ。
だが、少し考えてそれを否定した。
あれは「濃縮された液体」が必要だったはずだ。
ひょっとしたら口から取り込むのであれば希釈されていていいかもしれないが、雨を飲むような人物がそうそう要るとは思えない。
となれば上水道。
この街の上水道に一気に流し込んではどうか。
マンチャスは、その考えも却下した。
まずいくらなんでもコントロールがきかなさすぎる。
水は全ての生物に必要なものだ。
最悪の場合、この街そのものが滅ぶ可能性すらでてくる。
草食動物に対して並々ならぬ憎悪を抱いていた彼だから、その可能性も否定はしきれないが。
それでも市長を立てるとわざわざ言ったのだ。
そんな無法地帯に市長を立てる馬鹿はいない。
マンチャスはその場で頭をかきむしる。
考えなくてはいけない。
奴らは何でばらまくつもりなのか?
あの建物は「バニヨン医薬研究センター」だ。
ならば医薬品に混ぜるか。
それでは自分たちが犯人と言っているようなものだ。
となれば通常のルートとして繋がっていない、かつ比較的手軽に混入させられるルート。
食料品だろう。
エリア指定で配送されており、数が多いためルート上を流れ始めれば検品もほぼ行われない。
そして不特定多数にばらまくことができ、避けるべきものもわかりやすい。
その中でより多くの被害者を出すなら、調味料だろう。
塩コショウ、酢やソース…。
だが液体は加工しにくい。
パッケージが密封されていることも多いからだ。
それに比べて粉末状のものは比較的パッケージがゆるいものが多く加工しやすい。
また抽出した「夜の遠吠え」の成分を結晶化させても混ぜ込みやすい。
となるとおそらく最も使われる調味料は塩・コショウ・砂糖の三種類だろう。
だが塩コショウはあまりにベーシックな調味料すぎる。
それを避けて食事を摂るのは不可能だ。
となれば。
「砂糖か…?」
砂糖は料理にも使うが、メニューを選べば一切使わなくてもそこまで困ることはない。
また、嗜好品としての一面も持ちあわせており砂糖中毒者もいるという話も聞く。
仮に「夜の遠吠え」に味があっても砂糖の甘みでごまかすこともできるだろう。
ここまで考えるとそれ意外にないのではないかと思えてきた。
しかしここで正解を導き出す必要もない。
調べるための取っ掛かりであればいいのだ。
マンチャスはポケットから携帯電話を取り出して、知り合いの番号を呼び出す。
深夜にもかかわらず、二度目のコールで相手に繋がる。
「夜分申し訳ありません。
力を貸してください、ボス。」
マンチャスの言葉に、電話の向こうで緊張が走るのがわかった。
それはそうだろう。
マンチャスにとって。
「友達を…相棒を、助けたいのです。」
友人の話をするのも、何か頼みごとをするのもコレが初めてだからだ。
アクセルをベタ踏みにして、深夜の道を飛ばす。
昼間なら間違いなく誰かと衝突しているだろうが、今は深夜も深夜。
車どころか人っ子一人いないのだ。
しかも徒歩とはいえ、一度通った道である。
そんなルートなら、マンチャスはどんな速度で、どんな障害物があっても問題なく走ることができる。
「ちょっと、ちょっと!
飛ばし過ぎよ!
逮捕するわよ!」
後部座席から声が聞こえる。
高いが芯の通った強い声だ。
「緊急事態だろう、見逃せ!」
大きくハンドルを切り、カーブを強引に曲る。
車体が半分浮いたような気もするが構っていられない。
スマホの画面には、オッタートンの現在位置が記されている。
しばらく動いていたが どうやらバニヨン医薬品センターに乗り込んだようだ。
それを確認してから、マンチャスは同行者を後部座席に放り込んで車を飛ばしたのだ。
オッタートンが見つかっていなければそれでいい。
もし見つかっていたら…一秒でも早く行かなければ。
「だめよ、パトカーじゃないんだから!」
たしかにこの車は普通の車だし、臨時のパトランプを乗せているわけでもない。
そう考えると他のパトカーもこちらに向かっている以上、見つかる前に速度を落とすべきである。
頭ではわかっているが。
「飛ばすぞ!」
マンチャスは思わずそう叫んでいた。
とはいっても既に最高速まで飛ばしている。
これはもう気分の問題で。
「ダメだってばああああああ!」
後部座席から悲痛な声が聞こえても、彼の耳には届いていなかった。
それから数分後、彼らはバニヨン医薬品センターに到着していた。
後ろを振り返れば煙を上げている道路と、車からふらふらと出てくる小さなウサギと小柄な狐。
ウサギはこの街の警察であるZPDの制服を着ているが、狐はアロハにネクタイをゆるく締めただけというラフな格好である。
マンチャスにとって一度だけあったことのある二人であるが、名前はよく知っている。
以前の事件を解決した二人組。
ジュディ・ホップス巡査とその相棒のニック・ワイルド。
今ではこの街の英雄である。
マンチャスが彼のボスに協力を要請した際に紹介された二人組である。
「行くぞ。」
マンチャスの言葉に二人はふらつきながらもついて来る。
二人には道中ここまでの経緯を説明してある。
そしてこの後の手はずも。
まずはジュディが前に出て、通用口の呼び鈴を押す。
本来居るはずの警備員の姿もないが。
やがて、中から白衣を着た狼が姿を表した。
あの時マンチャスたちを階段で発見したあの狼であるが…。
暗いところだったからだろう、向こうはマンチャスの顔をみても気にした様子はない。
「何か?」
ダルそうなかおでジュディに話しかけている。
「ZPDのジュディ・ホップス巡査よ。
この会社が犯罪に関わっている可能性があります。
中を見せてもらえますね?」
ジュディの言葉に狼は露骨に嫌そうな顔をする。
だがもはや押し問答をしている時間ももったいない。
マンチャスは無言で二人を押しのけると、一気に中に駆け込んだ。
「あ、こら!」
狼が慌てて止めようとするが、既にマンチャスはその横をすり抜けて中に入っている。
狼と、都合上ジュディとニックも追いかけてきていた。
マンチャスは耳を澄ませながら中を走る。
だが考える必要は殆ど無い。
おそらくオッタートンがいるとすればあの時ヒトがいた二階か、マンチャスが地図を見た五階。
そして五階にいるとするならば見つかっている可能性は限りなく低い。
マンチャスの身体ですら見つかっていなかったのだ。
小柄なオッタートンがヘマをするとは思えない。
つまり居るのはおそらく二階。
あの時ヒトがいて踏み込めなかったエリアだ。
「オッタートン!」
果たして、彼はそこにいた。
会議室のような場所で、オッタートンは数人の肉食獣に取り囲まれていた。
「Mr.マンチャス…?」
呆然とした顔でオッタートンは呟く。
飛び込んで行きたかった。
その場にいる誰を押しのけても、彼の側に立ってやりたかった。
だが今の自分にはその資格はないと、ぐっと堪える。
側に立てるのは、全てをやり終えてからだ。
「何なんだ、お前らは。」
そのうちの一人…「メイン」が口を開く。
マンチャスの後ろにいるジュディ達を意識しての発言だろう。
彼らにとって既にマンチャスに利用価値はない。
繋がりはないものとしたほうがいいということだ。
だがマンチャスにとっても既にその繋がりは必要ない。
「何故入れた?」
「い、いえ…勝手に入って…その。」
白衣の狼が気まずそうに答える。
確かにマンチャスが強引に入りこんだのだから、彼に落ち度はない。
もっとも同情する余地も同様にないが。
「『夜の遠吠え』が違法に出回っているという通報があり、調査にきました。
ZPDのジュディ・ホップス巡査です。
幾つか聞きたいことがあります。」
マンチャスが口を開く前に、ジュディが前にでて口を開く。
確かにこの場面であれば彼女が喋るのが自然である。
「おお、この街を救った英雄様じゃあないか。
もちろん、なんでも協力させてもらうよ。」
芝居がかった動作で恭しくお辞儀してみせる。
彼が以前語った感情が真実ならば、ジュディはまさに彼の怨恨の対象である。
このまま喋らせてもいいものだろうか。
「この写真の車はこちらのものですね?」
考えている間に、ジュディはポケットから写真を取り出し奴らに見せた。
代表して「メイン」が頷く。
「ああ、間違いないよ。
最近はアルバイトで運送業も少しかじっているからね。」
あっさりと認めた。
マンチャスはジュディの手から写真を取り上げる。
身長差が大きいため、マンチャスが立ち上がればジュディの手はもう届かない。
「交通カメラで取られた写真だ。
この他にも複数枚、お前たちの車がズートピア各地のスーパーマーケットに砂糖を運び込んでいるのが解る。」
「メイン」の視線がジュディからマンチャスに向く。
今回の件で恨まれるのは、自分だけでいい。
「そして、これらスーパーマーケットで販売予定にあった砂糖がこれだ。
近くのマーケットから一つ持ってきた。」
マンチャスは砂糖を袋ごと机の上においた。
「これに、『夜の遠吠え』の成分が入っているんだろう?」
ストレートにそう聞いてやる。
気が弱い相手なら、それだけでボロを出すだろう。
「各地に『夜の遠吠え』をばらまいて、混乱を起こし。
その罪を他人になすりつける。
混乱に乗じて市長選を自分たちの思う通りに運ぶのが目的だったんだろう?」
マンチャスの言葉を「メイン」は鼻で笑った。
「私達は市長選に出るつもりなんかないが?」
確かに市長の立候補者はこの場にはいない。
あの時「メイン」は「市長を擁する」と表現していた。
つまり自分たちがそうなるのではなく、既に何らかの繋がりを持っているということだろう。
「まあそこは確かに俺の想像だ。
だが一つだけはっきりしていることがある。
ここにある砂糖を飲んだ時に野生化するような事があれば…。
それはこの砂糖を運びこんだお前らが関与しているということだ。」
もちろんそうとは言い切れない。
スーパーマーケットには運び込まれてから部外者の出入りがないことはカメラで確認できるので、それ以降に何もないことは証明できるが。
そもそも工場から出荷される前に何かあったと言い張られてはどうしようもないのだ。
「酷い言いがかりだな?」
「メイン」は楽しそうに言う。
確かにこれは言いがかりだ。
だが、おそらく「メイン」はこれに食いつく。
「今ここでこの砂糖を水に溶かして飲む。
それで野生化すれば…お前たちが犯人だ。」
マンチャスは思い切り相手を睨みつけた。
「野生化しなければ?」
「後ろの二人含めて、何でも言うことを聞いてやるよ。」
「メイン」の口角が少しだけ上がった。
彼にとってマンチャスは利用価値はない。
だから彼が何を言おうと気にしなかっただろう。
だが彼の後ろには今ジュディが居る。
「メイン」にとって親の敵よりも憎いであろうジュディが。
だからこう言えば。
「いいだろう、好きなだけ飲めばいい。」
そう答えるに決まっているのだ。
「ダメです、Mr.マンチャス!」
不意に足元から声が聞こえた。
オッタートンがいつの間にかこちらまで駆け寄ってきていたのだ。
「エミット…オッタートン。」
マンチャスは小さく首を振る。
大丈夫だと、これでいいのだと。
そして。
まだ自分は隣に立てないのだと。
マンチャスはオッタートンから視線をそらし、脚をすすめる。
部屋の隅にあるウォーターサーバーを操作して紙コップに水を注いだ。
それを机の上に置き、隣にあった砂糖の袋の口を開く。
その中の砂糖をひとつかみ、コップの中の水に溶かした。
マンチャスの考えが正しければ、「夜の遠吠え」は濃縮された結晶状態になっている。
そうしたほうが少量で多数の人物に効果が及ぶからだ。
対象が砂糖なのは、交通カメラでも確認できた。
ならばこれで間違いないはずだ。
「頼む。」
マンチャスはその紙コップをニックに手渡した。
「俺このために連れてこられたわけ?」
粘るような目つきでニックはマンチャスを見上げる。
すまない、と小さく答えたマンチャスにニックは大きくため息を付いてみせた。
「忘れるなよ。
これで何も起こらなければ、お前たちは私達の奴隷だ。」
奴隷、と出たか。
だがマンチャスは構わず頷く。
「そちらこそ忘れるなよ。」
マンチャスの言葉に「メイン」は嬉しそうに笑った。
「ああ、これで野生化するのなら私達こそがテロリストというわけだ。
もちろんありえない話だがな!」
感情の昂ぶりを抑え切れず「メイン」は大きく声を上げた。
深夜の、自分たちのオフィスということで気が大きくなっているのだろう。
マンチャスは再びニックに視線を向け。
それを合図にニックは紙コップの中を飲み干した。
「あっめぇ…。
別になんに…」
なんにもない。
おそらくそう言おうとしたのだろう。
だが彼の手からは紙コップがするりと落ちる。
「ぐ、う、ぐぐぐうううううぁぁぁァァァアアアアアア!」
胸を押さえ、ニックがその場にうずくまる。
必死に何かを耐えるように全身を震わせて。
「ニック、しっかりして!
ニック!」
ジュディが慌てて駆け寄るが、ニックはそれに何も返さず。
「決まりだ。」
マンチャスがその体格を以ってニックを抑えこんだ。
「グアアアアアガアアアアアア!!!」
ニックは気が触れたように暴れ始める。
「ばかな、そんなはずがあるものか!」
「メイン」が焦ったように言う。
「そんなはずがあろうがなかろうが、現にこうなっているだろう!
ならやはり今回のことはお前たちが黒幕だ!」
下から見上げるように、マンチャスは「メイン」を睨めつける。
だが彼は小さく首を振って。
「違う、私達じゃない!」
「いいや、お前さん達だ。」
その言葉に返答したのは、小さなしゃがれ声。
マンチャスたちにとっては聞き慣れた声だ。
振り返ればゆっくりと大きなシロクマが入ってくる。
そのままマンチャスの側まで歩くと、組んだ手をそっと広げてみせた。
そこには、小さな年老いたネズミが椅子に座っている。
だがこの街の住人なら。
少なくとも裏社会に顔をだそうと言うものなら誰でもわかる。
彼こそがマンチャスのボス。
このズートピアの裏社会を牛耳るドン。
Mr.ビッグである。
「待たせたな、マンチャス。」
Mr.ビッグは振り返り、マンチャスに一声かける。
小さな身体から溢れ出るその威厳に、誰も喋ることはできない。
「この会社はリトルローデンシアから近いのに、排気口には一切のセキュリティが仕掛けられていないな。
不用心なことだ。」
そう言って大きく溜息をつく。
「悪いが私の部下たちが、この会社にあった水を全て普通のものに返させてもらった。
治療薬を手に入れているお前さん達が、予防策を打たないはずがないからな?」
その言葉に、「メイン」は弾かれたようにウォーターサーバーを見る。
もちろん見た目はわからない。
だがMr.ビッグのいうことが本当なら。
治療薬が混ざっているはずのこの水も、通常どおりのただの水。
「夜の遠吠え」を溶かせば、当然野生化する。
「先程の先制は我々も聞いている。
よもや覆すつもりではあるまいな?」
Mr.ビッグの言葉に「メイン」は何も答えない。
答えられないのだ。
ZPDであるジュディにも、裏社会のドンであるMr.ビッグにもきかれてしまっている。
ここで違うと主張してもMr.ビッグに氷漬けにされる未来が待つだけであるし、
認めてしまえばジュディに逮捕されるだけ。
進退極まっているのだ。
「クソ、クソ、クソッ!」
「メイン」は突如叫び、ギラついた目つきで。
「お前が来なければっ!」
オッタートンに向かって跳びかかった。
「エミット!」
マンチャスはニックから離れ、思い切り跳ぶ。
距離としては「メイン」よりもマンチャスの方が遠い。
それでも、守らなければと思った。
間に合わせなければと思った。
鈍い音がして、顎から頭頂部に向かって強い衝撃が走る。
だが、それだけだ。
追撃があるわけでもない。
目を開けば巨大がシロクマが「メイン」を取り押さえていた。
周りの面子は抵抗する気がないようで、既に両手を上げている。
「マンチャスさん、マンチャスさん大丈夫ですか!?」
エミットが泣きそうな顔でマンチャスの顔を覗き込んでいた。
手を伸ばし、メガネの下の涙を拭ってやる。
「大丈夫だよ、エミット。」
その言葉にエミットは安心したようにその場にへたり込んだ。
だが次の瞬間再び跳ね上がる。
「あ、しまった!
野生化した狐さんが…!」
慌ててニックの方に振り向くが。
彼は既に余裕の表情で頬杖をついていた。
「あれ…?」
エミットは先程野生化していくニックを見ている。
だが治療も施さずに元に戻るなどありえない。
不思議そうな顔でその場にいる全員を見上げるエミット。
「あの砂糖は偽物だよ。
うちにあった買い置きの砂糖だ。
『夜の遠吠え』なんて入ってないよ。」
そういってマンチャスは笑ってみせた。
エミットが振り返れば他の面子も笑みを浮かべている。
にやにやとした笑いを浮かべるニックの頭に、ジュディが肘を乗せて得意気に口を開いた。
「詐欺師って、呼んでくれる?」
その後、「メイン」達は後からやってきたZPDによって逮捕された。
現状では暴行や捜査妨害などがメインだが、「夜の遠吠え」に関する密輸の疑いも既にかけられている。
あとは取り調べで締めあげてやれば、いずれ解決するだろう。
もし白状しなければ。
つまり、釈放されてしまえば。
彼はMr.ビッグに怯えながら生きていかなければならないのだ。
どちらが幸せかは言うまでもない。
「エミット。」
後のことをジュディ達に任せて。
マンチャスとエミットは警察達から離れ、玄関ホールのベンチに腰掛けていた。
彼らの間には二人分の距離が開いている。
「その…すまなかった。」
沢山謝りたかった。
彼の気持ちを汲みとってやれなかったこと。
話も聞かずに結果を急いだこと。
そして、彼に怯えてしまったこと。
「俺は、一人で浮かれていたのかもしれない。
あの家にヒトを入れたのが、初めてだったんだ。
一緒に飯を食う相手も、久しぶりだったんだ。
俺にも初めて…友達ができたと思っていたんだ。」
仕事を除けば、ずっとあの家に引きこもるようにして生きてきた。
友達も何も必要ないと思っていた。
だけど、この数日間。
マンチャスは間違いなく、楽しかったのだ。
「だけど忘れてたよ。
お前は、そもそも詫びをしにうちに来てたんだ。
なのに俺は…好意を持たれているなんて思ってしまった。
俺の中で、決着もついていないままに。」
そっと右目を押さえる。
エミットが、彼に近寄ってきたのだと思っていた。
向こうから心を開いてくれたのだと思っていた。
だから、マンチャスはそれに答えないといけないと思ったのだ。
それは間違いなく楽しいことだったけれど。
心の底では、そのスピードにはついて行けていなかった。
彼の中できちんと受け入れて。
エミットにきちんと、心を開いていかなければいけなかったのだ。
「許してくれ、とは言わない。
だから、せめて。」
辛く、苦しい。
あの楽しかった日々を、自分の間違いで失ってしまった。
だからせめて。
「エミット、仕事の話をしよう。」
それが彼にとって最後の願いだ。
「あと一週間だけでいい。
うちの庭を整えてくれないか。
報酬は、きちんと支払う。」
あと一週間だけでいい。
君の背中を見ていたい。
ビジネスでもいい。
側にいて欲しい。
そうすればきちんと整理して、諦めるから。
「…本当は。」
エミットがゆっくりと口を開いた。
「僕は花屋で、庭師ではありません。
だから、その依頼は専門外なんです。」
エミットは言う。
確かにそのとおりだ。
花屋は花を売るのが仕事で、客の庭を弄るものではない。
「そう、か…。」
マンチャスは小さく答えた。
ならばもう素直に諦めよう。
楽しかったけれど、ちょっとした夢を見たと思って。
今までどおりの生活に戻ろう。
そう思って腰を上げる。
これで、さよならだ。
「だけど。
僕もやりかけを放り出すのは好きではありません。」
エミットの言葉にマンチャスは歩き出そうとした脚を止める。
「報酬は…また、シャワーを貸してください。
お金はいりません。」
エミットは立ち上がりマンチャスの足元へと歩み寄った。
真っ直ぐな瞳でじっとこちらを見上げてくる。
マンチャスは何も言えない。
口を開けば、それと共に涙が溢れそうだった。
そんな様子をわかってか、エミットはするするとマンチャスの身体を駆け上がる。
そしてまるでそこが定位置だと言わんばかりに、彼の左肩に捕まった。
「それと…。
僕も、レナートと呼んでも、いいですか?」
そっと耳打ちするように言う。
きっと彼も恥ずかしいのだ。
「もちろんだ、エミット。」
「ありがとうございます、レナート。」
マンチャスは自分の左肩にそっと手を伸ばし。
エミットの小さな手をそっと握った。
鼻先がぶつかりそうな距離で、二人は見つめ合う。
「おーい、お二人さん!
そろそろ帰ろうぜー!」
そんな彼らに、名も知らないZPDの職員が声をかけた。
「まったく、エミットは本当に無茶をするな。」
マンチャスは不満気な顔でマッシュポテトを口に運ぶ。
あれから一晩。
マンチャスの家に戻り、倒れるように眠った二人は朝になって目を覚ました。
「よく妻にも言われましたよ。
貴方は鉄砲玉みたいなヒトだ、ってね。」
そう言って笑うエミットに悪びれた様子は一切ない。
どうやらこれが当然だと思っているようである。
「結局どんな証拠があるかもわからずに飛び出して、忍び込んでたんだろう。
俺が間に合ったかよかったようなものの…。」
マンチャスは多き溜息を着いてみせた。
朝食を取りながら二人は昨日の夜の話をしている。
しばらく二人の間では、この話題から離れることはないだろう。
「そんなことよりレナート。
そろそろ出勤準備しないとまずいんじゃないですか?」
言われて壁にかけてある時計を見上げる。
確かにそろそろ慌てないといけない時間だ。
「まったく、昨日の今日でもう出勤だからな。
Mr.ビッグも人使いが荒い。」
昨日の事情は全て知ったうえで、である。
そこは甘えるな、ということだろうか。
「ほら、口元汚れてますよ。」
エミットが渡したナプキンで口元を拭き、マンチャスはクローゼットを開ける。
「うわっ!」
その上からどさどさと大量の荷物がなだれ落ちてきた。
「レナート…。
庭よりもまず、家の中の掃除が先じゃないですか?」
エミットが呆れたように言う。
きれい好きな彼としてはこの家の惨状が、実は我慢できなかったのだ。
「…今度改めてやる。」
「ちゃんと手伝いますから、近いうちにやりましょう。」
エミットの言葉にマンチャスはしぶしぶ頷く。
「今度はちゃんと着替えをもって泊まりにきますよ。
だから。」
エミットは荷物の山からスーツを引っ張りだすマンチャスの背中に張り付いた。
マンチャスはどうしたのか、と振り返り。
「報酬のほう、お願いしますね。」
エミットはマンチャスの左肩に飛び移り。
ニコニコとした笑顔でそう言った。
どうやらマンチャスは。
庭よりも、部屋の掃除よりも。
何よりもまず、シャワー室を整えることから考えなければいけないようだ。