プロローグ
そっと、その部屋に足を踏み入れた。
死んだように静まり返った部屋は、僕という異物を飲み込んで生き返ったかのように埃を撒き散らす。
口元を片手で抑え、埃の塊を吸い込まないようにしながら僕はゆっくりと足を進めた。
一歩足を踏み出すごとに、床に積った埃には僕の足型が残る。
まるで雪原を歩いているようだと思いながら、それでも僕は歩みを止めない。
導かれるように、僕は部屋の奥へとたどり着いた。
妖しい光が僕の顔を照らす。
机の上に置かれたそれは、一見ただのガラス球に過ぎなかった。
しかしそれはまるで一つの惑星のように台座から浮き上がり、ゆっくりと回転している。
淡い光を放つそれは、よく見れば海と大地のような部分も見られた。
地球儀のようなそれを、僕はぼんやりと見つめる。
「なんて――――」
美しい。
その言葉があまりにも陳腐すぎて、口から出すのもはばかられるほどに。
僕はその地球儀に心を奪われていた。
部屋の中で唯一埃をかぶっていないそれは、ただ荘厳な雰囲気を漂わせながらゆっくりと自転していた。
風に揺られたのかカタン、と窓が音を立てる。
僕はそれで我に帰った。
別に時間に迫られているわけではない。
学生である僕には夏のこの時期には時間は山ほどあるから。
だけどこの埃で窒息した部屋にとどまっている理由もない。
この地球儀の美しさを堪能するのは、この部屋でなくてもいいはずだから。
そう考えて僕はゆっくりと地球儀に手を伸ばした。
重い。
手にとったそれは予想以上の重量で僕の手を床へと押し付ける。
台座から浮いていたはずのそれを、僕は支えきれずに自身の体とともに床に投げ出した。
その瞬間、強烈な光が僕の目を襲った。
溢れる光の奔流は僕の全身を包み、更に部屋全体を飲み込み。
そして、いつのまにか消えていた。
強烈な光を浴びてその仕事を放棄した僕の目が回復する頃には、何事もない部屋が戻っていた。
いや―――。
「埃が…。」
部屋を包んでいた埃が、跡形もなく吹き飛んでいた。
光だけでなく風も起こったのだろうか?
だが何処にも埃の痕跡はなく、そもそも僕自身そんなもの浴びた覚えはない。
まるで部屋自体が息を吹き返したように、灰色だった世界は吹き飛んでいた。
新しい世界が上塗りされたように。
「そうだ!」
落とした地球儀は、先ほどの美しさは微塵もなく。
ただ無残な姿を床の上にさらしていた。
「あちゃ…。」
僕はどうしていいかわからずに、ひとまずその球のかけらを拾い集めることにした。
ほぼ形を残した球と大きなかけらを机の上に置き、床に顔を付けるようにして小さなかけらを探す。
おかしい。
明らかに破片が足りない。
ためしに集まった破片を組み合わせてみるが、小さな亀裂がいくつも残り球形に戻るにはいくつもの破片が足りないことが見て取れた。
「どこいったんだ…?」
誰に聞いたわけでもない。
もちろん答えを望んだわけでもない。
ただ思った疑問を口に出しただけだった。
それでも、その疑問には答えが返ってきた。
僕の背後から、はっきりと低い声で。
「部屋の中さ。」
誰もいないはずの場所で、答えが返された。
「だだだ、だだ、誰ッ!?」
大きな声で威勢をつけて、なんとかその単語を搾り出した。
慌てて振り返ったために、僕はその場にひっくり返ってしまう。
そこにいたのは人間じゃなかった。
「車の…CMにでてたひと?」
「なんだそりゃ。」
僕のバカみたいな呟きに、彼はあきれたような声でそう返した。
僕の目の前に立っているその人物は、ライオンの頭を持っていた。
服を着ているから首から下がどうなっているかはわからないけれど。
頭はどうみてもライオンだった。
古臭い、まるで中世の絵画に描かれているような服を着ている彼は、
ものめずらしそうに部屋の中を見渡していた。
「前と違う部屋なんだなー。
本だらけじゃねえか、こりゃ骨が折れるぞ。」
部屋の中を見ながら彼はそんなことをつぶやいていた。
もう意味がわからない。
部屋の雰囲気が変わったと思ったら、目の前にはライオンの頭をもった謎の男。
一瞬で状況を把握しろって方が無理だ。
とりあえず彼の口調と態度から敵意はないと判断して、僕は思い切って声をかけることにした。
「で、誰?」
その言葉に僕の存在を思い出したかのように彼は僕を見つめ。
そして首を捻った。
「ひょっとして、代替わりしたのか?」
…言葉、通じてないのかな。
そんなことを思った瞬間、ライオンは再び口を開いた。
「いや、悪い。そうじゃなかったな。」
そういって再び彼は首を捻る。
彼の真意がわからず僕は尻餅をついたまま、彼を見上げていた。
「どう話したもんかなあ…。」
そういいながら彼は椅子を探り当て、上に積んであった本を別の本の上に移すとそこに腰掛けた。
「まあ、どう見ても人間じゃない俺がいるわけだし、常識で測れる範囲から大きく外れてるってことはまず理解してくれ。」
その言葉に僕はコクコクとうなずいた。
それを見て彼は満足そうに笑う。
……。
笑ったんだと思う。
「まず、君が壊したのは世界だ。」
そういって僕の手から転げて再び床に落ちていた地球儀を指差した。
これが、世界?
彼の言っている意味がわからずに僕は地球儀のかけらを拾い上げてみた。
もちろんそれは、どうみてもただのガラスの破片に過ぎなかった。
「で、俺はその『世界』の番人。
いや、番人って言うのとはちょっと違うか。
まあその『世界』に異変がないように仕事してるんだと思ってくれればいい。」
異変…。
「異変がないも何も、割れちゃったんだけど。」
僕の言葉にライオンが顔をしかめた。
うわ、口挟んじゃダメだったかな。
「だからこうして俺が出てきたんだよ。
本来『世界』は内部からの問題を抑えていればうまく回るんだ。
今回みたいに、外部から破壊されることは想定外だからな。
事前に防ぐことは出来なかった。」
ひょっとして僕、怒られてる?
「未然に防げなかったとはいえ、ほうっておくわけにもいかない。
そういうわけだから、『世界』の修復に手を貸してくれるな?」
唐突に吐かれたその言葉の意味を、僕は理解できなかった。
もともと彼の言葉は理解できる部分の方が少なかったけれど。
何度かかみ締めているうちに、最後の一文はなんとか理解できた。
「僕がッ!?」
「壊したの、お前だろ?」
その言葉に僕は反論できなかった。
それは紛れもない事実だ。
それでも何か抵抗を示したかった。
「状況が、理解できないんだけれど…。」
僕の言葉に彼は深々とうなずいた。
「まあ、そうだろうな。
いきなり信じろとは言わん。
ただ作業を手伝ってくれればいいさ。」
ダメだ。
もう手伝うことは決定済みだ。
「…何を手伝うの?」
言ってから気が付いた。
この言葉は、手伝いを肯定する言葉だと。
だが取り消す暇もない。
「この部屋に、『世界』が散らばった。
『世界』のかけらを探してくれ。」
それって、まんま僕がやろうとしてたことじゃ?
そう聞こうとしたが、その前に彼が説明を続けた。
「『世界』のかけらは形を変えた。
もはやそれはただの情報に過ぎない。
つまり君は、この部屋で情報を探さないといけないんだ。」
…情報?
彼の言葉を聞いて、少し考えてみた。
情報といえば一般的なものは文書だろう。
どんなデータであれ、今の世の中では文書の形に…。
そこまで考えて、僕はゆっくりと部屋を見渡した。
入ったときには埃に埋もれていた、あまりにも多すぎる本。
まさか。
「ま、具体的に言ってしまえばここにある本を片っ端からよんで、
本来そこにないはずの一ページを見つけ出す。
求められてるのはそういう作業だな。」
む・・・。む…。
「む・・・」
「む?」
「無茶いうなああああああああああああ!」
「落ち着いたか?」
僕が叫び声をあげ、しばらくたってから彼は再び口を開いた。
「無理。落ち着けない。」
僕のその言葉に、彼は満足したようにうなずいた。
「落ち着いたなら、作業をはじめようか。
わかりやすいように部屋の端から順にやっていくのがいいと思うんだが。」
やるっきゃ…ないんだろうなあ…。
そう考えて僕は立ち上がり、のろのろと部屋の端にむかって歩き出した。
そのときの僕の頭には、この場から逃げるなんて考えは思い浮かばなかったから。
こうして、僕の長い一日は始まった。
続