温泉へ行こう
「うー…。」
一人で唸りながら、俺は手にしたペンで机をトントンと叩く。
来週提出のレポートを、書いては消し、書いては消し。
レポート用紙はすっかり黒く汚れてしまっていた。
「はかどらないなら、気分転換もいいんじゃないか?」
そんな俺に、優しい言葉がかけられる。
机から視線をあげれば、優しく微笑んだ虎の顔が視界に入った。
「ランス…、ありがたいけど昨日もそれ言った…。」
そう、昨日も同じようにレポートに詰まり、同じように気分転換のアドバイスを受けたのだ。
そして、昨日はそのままランスと…うん、まあその。
気持ちいいことをして、一日が終わってしまったわけだが。
それを思い出して思わず俺の股間が反応し始める。
いけない、これでは毎日ランスとするだけになってしまう。
いや、それはいいんだけど。
「…大丈夫か?」
一人で頭を抱えている俺の顔を、心配そうにランスが覗きこんできた。
ああ、俺また一人で暴走してたのか。
「うん…。まあ大丈夫、たぶん。」
少し気を落ち着かせて、ランスの方を見る。
いつもの甚平に、花札をもった虎男。
それが今のランスだ。
なぜかは知らないが、今は花札のルールを詳しく調べているらしい。
…絶対、俺より日本文化詳しいよね?
と、突然がらりと襖が開く。
「ただいま。」
そこから顔を覗かせる、無愛想な少女。
顔立ちは整っており、一般的にも美人と呼ばれる部類だろう。
にも関わらず、この上もなく冷たい視線が全てを台無しにしている気がする。
もちろん、そういう趣味のヒトにはたまらないのだろうけど。
「褒め称えなさい。」
意味がわからない。
確か先ほどまで買い物に出ていたと思ったけど、それがどうかしたのだろうか。
ちらりと横目で見る限り、ランスも状況はわかっていないらしい。
ぽかんとした顔で仁王立ちする少女を見上げている。
「風花…、何かあった?」
俺の言葉に、少女は肩から提げたエコバッグに手を突っ込む。
ごそごそと中を探り、一枚の封書を取り出した。
「…目録。」
ランスがそこに書いてある言葉を読む。
「温泉旅行、ご家族様御招待。」
風花が付け加えるように呟いた。
「温泉…旅行…?」
「ご家族様…御招待?」
俺とランスが呆然と呟く。
言葉の意味はわかる。
意味はわかるが。
『えええええーーっ!』
俺とランスの叫びがぴったりと重なった。
「なんだよ、オンセンて。」
もさもさとメンチカツを頬張りながら、狼男が不思議そうに言う。
既に夕飯の時間となり、居間に全員集合しての食事時間である。
その時に温泉旅行の話をすると、まず真っ先に狼がそう聞いてきたのである。
どうやら、そもそも温泉自体がわかっていないらしい。
「温泉てのは…その、お風呂…。」
俺が説明しようとしても、何を説明していいかわからずにあいまいな言葉になってしまう。
案の定、彼はわかっていないらしい。
「うちにあるじゃねえか。」
怪訝な顔をしながらそう答える。
うん、正しい。
非常に正論なんだけど…。
「温泉というのは、地熱で温められた地下水が湧き出しているものだな。
色々な物質が溶け込んでいたりする場合が多く、身体に非常にいい、らしい。
まあ天然の風呂、と思って間違いではないが、
大きさや広さ、場合によってはロケーションなどが特殊であるために一般的に好まれてるんじゃないか。」
「…。」
俺は思わず無言でランスを見た。
絶対俺より日本文化詳しい。
「はあ…。
で、それに行けるのか?」
何となく理解したようだが、どうも有り難味がわかっていないようである。
まあ有り難味なんて説明して理解できるものでもない気がするけれど。
「大神くんにわかりやすく言えば。
3食昼寝付。」
「すげええええええええ!」
風花の説明に大神くんは声をあげて驚く。
今の説明でいったい何がどう伝わったんだ。
「で、5人で行けるのか?」
そういうのは、どうみて熊の男。
ランスや大神君は、虎の顔をした男と狼の顔をした男、つまり獣人だ。
だが今発言したのはどう見ても本物の熊。
もっとも、それは見た目だけの問題で中身は本物の人間である。
他の二人と違い、彼だけは正真正銘の真人間。
風花の父、風神さんである。
熊の顔をしているのは、趣味である特殊メイクのおかげ…らしい。
あまりにも素顔を見ないので、最近は少し疑っているのだが。
「うん、5人まで大丈夫。
獣人がいけるなら。」
風花の言葉に俺は動きを止めた。
そういえば最近は家から出ないからすっかり忘れていた。
この二人、獣人だよ!
幸いこの家の周りの人は熊のメイクを見慣れているせいか、ランスたちを見ても驚かなかったけれど…。
「ダメかあ…。」
「いや、いく。」
俺の呟きに風花が迷わず答えた。
「え、でも…」
「行く。」
俺は助けを求めるように、獣達を見回した。
ランス、大神君、そして風神さん。
全員がそろって首を横に振った。
こうなってはもはやどうしようもないことを、彼らは身を持って知っているのだ。
「…うん、行こうか…。」
そうなっては、俺としてもこう答えるしかなかった。
翌日。
朝早くから、俺たちは大量の荷物を抱えていた。
言うまでもない、温泉旅行の荷物である。
思い立ったら即実行。
善は急げ。
そんな言葉を実行する様に、風花は昨日の内に出発日を決めてしまったのだ。
「強引、だよなあ…。」
風花の姿が見えないのを確認してから呟く。
「ま、いつものことだろ。」
そうやってフォローを入れてくれるのはランス…ではなく、大神くんである。
まあ風花との付き合いは彼の方が長いのだから、当然と言えば当然だろう。
「まあ、そうといえばそうなんだけどねえ。
なんか今回はいつもに輪をかけて、って感じじゃない?」
その言葉に大神くんは首を捻って見せる。
それは恐らく否定的な意味だろう。
つまり俺が感じているような違和感を彼は感じていないということである。
「温泉が好きなんじゃないのか?」
そうやって声をかけてくれたのは、こんどこそランスである。
カバンを三つ抱え、俺の横を通り過ぎるとそのまま車のトランクへ詰め込む。
…一泊二日じゃなかったっけ?
「うーん、まあそうなんだろうけど。」
「俺だってヨシキと出かけられるなら嬉しいしな。」
空いた手で俺の頭をぐりぐりと撫でてくれる。
少し力は強いけど、それが気持ちよくてとりあえず撫でられるままにしておく。
「邪魔。」
と思ったけれど、大神くんが思い切り俺たちの間に割り込んできた。
確かに玄関と車の直線状だけれど…。
ランスもむっとした顔をするが、今回はそれに留める。
大神くんとの言い合いになると、不思議とランスはムキになるから今回堪えてくれたのはありがたい。
「ほら、準備はできたか?」
言いながらのっそりと姿を表す風神さん。
今日も今日とて熊のメイクは欠かしていない。
「ええと、それで行くんですか…?」
「ん、ヨシキくんは私に全裸で出かけろと?」
全裸か熊しかないのか。
いや、そりゃあそのどちらかであれば熊なんだろうけど…。
でも人間がほとんどいない車内ってどうなの?
個室っぽいけど、覗こうと思えば覗けるよ?
「…熊でいいデス。」
しばらく悩んで、結局そう答えた。
なんかもう前途多難としか言い用がない。
家を出る前からそう思えるのだからこの先の苦労は…。
考えながらも、荷物の積み込みは粗方完了した。
ランスと二人で忘れ物のチェックをかけていく。
その間に風神さんは既に運転席にスタンバイしている。
大神くんは姿が見えないから、恐らく風花を呼びに行ったのだろう。
「おまたせ。」
言いながら風花が大神くんを連れてやってきた。
手にした大きな風呂敷包みは…覗きこんでいる大神くんの動きを見る限り、恐らく弁当だろう。
起きてからすぐに出発準備を始めたから、俺達はまだ朝飯も食べていないのだ。
「ほら、乗って。」
大神くんの尻を叩き後部座席へと促す風花。
…やっぱり、えらくご機嫌な気がするなあ。
ぼんやりと考えながら俺も続いて後部座席へと乗り込む。
そこにランスが詰めてきて。
苦しい。
「お前でかいんだ、出ろ。」
大神くんがランスを睨みつけて言う。
「お前がいなければ俺とヨシキでも十分広い。」
「うるせえ、たまには譲れ。」
「誰が譲るか!」
あっという間に口喧嘩が始まる。
まさに犬猿の仲である。
さらにランスは何ごとか言おうとして。
すぐに、閃いたような表情を見せる。
「ヨシキ。」
え?
俺が返答する前に、ひょいと持ち上げられて。
そっと膝の上に乗せられる。
狭い車内に、ただでさえ巨体のランスである。
その膝の上に載ろうとするなら、もはやランスに密着するしか方法はない。
「あ、てめえ!
一人でいい思いしやがって!」
大神くんが俺の腕をつかみ、ぐいと引く。
「触るな!」
俺の脇を抱える様にしてランスが引き返す。
姿勢的に、どう考えてもランスに分があった。
「あんたら。」
助手席から、冷たい声が聞こえた。
思わず俺達は動きを止める。
「うるさい。」
『ごめんなさいッ!』
即答だった。
三人で狙った様に声を重ねる。
「よろしい。」
その言葉が合図であったかのように、エンジンがかかる。
運転席には熊の姿。
後部座席は狼と虎。
…逆サファリパーク?
「はい、朝ご飯。」
言いながら風呂敷包みが投げられる。
慌ててそれを受け取った。
包みを解いてみれば、大量のおにぎり。
それに加えて、タッパーに入れられた玉子焼きと鳥の唐揚もある。
なんという王道…!
「お、喰おうぜー。」
すでに大神くんの意識はおにぎりに向いているらしい。
結局、彼は色気より食い気なのだなあ。
対するランスは俺をそっと抱き寄せてくれる。
…梅雨時じゃなければ嬉しいんだけどなあ。
とりあえず、おにぎりを一つ掴んでランスの口に放り込んでやった。
車を走らせる事数時間。
俺達は目的地の温泉宿へたどり着いていた。
山奥から山奥へ、といった雰囲気で周りには観光地らしいものも見当たらない。
…考えてみれば商店街の福引で当たるくらいなのだから、よっぽど閑古鳥が鳴いているのだろう。
2月と言えばそれなりに温泉の季節ではあるけれど、どうやら場所が悪い様で。
加えて平日ともなれば…。
俺たちの他に客がいるかどうかも怪しいものだ。
もちろん、俺としてはそれは大歓迎なのだけれど。
「いらっしゃいませ。」
玄関をくぐると、優しい声で出迎えてくれた。
フロントにいる女性がにこにこと笑顔を浮かべて。
瞬間、それが固まった。
まあ当然と言えば当然だろう。
風花が入り、続いて俺が入り。
あとの三人が、人間でなかったのだから。
叫びださなかっただけありがたいというものだ。
「あ、あの…。」
怯えた様にそう呟いた。
恐らく、俺に向かってだろう。
風花は声をかけやすいタイプではないし、怯えてる対象は後ろ三人である。
こうなっては俺位しか声をかける相手はいないのだろう。
事実視線はこちらに向けられている。
だがそれに答えたのは俺ではなく。
「あ、大丈夫です。
ただの変人ですから。」
風花がさも当然、と言った風で答える。
ぐい、と風神さんの腕を引き。
従業員さんに、そのうなじあたりをみせつけた。
「ね?」
…何を見せているのだろう。
首筋にあるものといえば…タグ…はないだろうし。
まさか素肌?
あそこ、隙間あるんだ…。
「は、はあ…。」
従業員さんはまだ何か納得していないような声を出す。
とはいえ既に恐怖は無くなってきているようで。
残ったのは困惑か。
「じゃあ部屋にお願いします。」
だがそれを無視する様に風花は荷物を押し付ける。
困惑であれば、押しきれるのだ。
困惑顔のまま、従業員さんが案内を始めてくれる。
通されたのは、少し大きめの部屋。
あらかじめ五人で、と言ってあったのでそれに応じた部屋を用意してくれたのだろう。
…五人で?
恐る恐る、風花の顔を覗きこむ。
その表情はいつもどおり、何も感じさせない顔だった。
「ふ、風花…。
一部屋みたいだけど…。」
「ん、いいんじゃない。」
おずおずと尋ねた俺に、さも当然といった様に答える風花。
あ、そこはいいんだ…。
まあ俺は女性に興味ないし、大神くんはそんな危険な事しないだろうし、風神さんに至っては父親だ。
ランスだって…ランス?
ランスってそういや性癖どうなんだろう。
俺のこと好きだって言ってくれてるけど…女性に興味がないとはいいきれない。
「ん?」
俺の視線に気づいたのか、ランスが不思議そうに覗きこんでくる。
うう、カッコいい…。
「な、なんでもない。」
さすがにこの場面で「女性に興味あるの?」とは聞きにくい。
YESだった場合、ランスだけ廊下で寝るなんてことにもなりかねないのだ。
「さあ!」
珍しく風花が大きな声を出す。
「温泉いこうか!」
…笑顔だ。
え?
笑顔?
風花が?
思わず一同を見回す。
大神君もランスも呆然としていて。
風神さんだけがいそいそと温泉の準備をしていた。
もちろん後姿は完全な熊であるので、シュールな姿には違いないが。
「…どうしたの。」
風花の顔が再び不満そうなものに戻った。
俺たちのリアクションがないのが不満だったのだろう。
あわてて手を振る。
「あ、いや…。
なんでもないよ。」
慌てて俺もカバンをあさる。
タオルと替えの下着と…。
「あ、ランスバスタオル二枚いるよね?」
「ああ、頼む。」
「オレもオレも!」
ランスと大神君の分のタオルもひっぱりだす。
毛の多い彼らはタオルの枚数も半端ではないのだ。
「じゃあ私先にいくから。」
風花は振り返ることもなく、足早に部屋を出て行った。
なんなんだ、あの機嫌の良さは。
「アイツ、温泉くらいしか旅行したことないからなあ。」
そう呟いたのは風神さんだった。
全員の視線が一斉に集まる。
「母親…まあ俺の嫁なんだが。
まだ生きてる時に、一緒に旅行したのが最初で最後だからな。
色々思うところあるんだろう。」
なるほど…。
まあお約束というかなんというか。
いまいち突っ込みにくい内容ではあった。
「まあそうでもなきゃ、常識人のアイツが獣人つれて旅行なんてしないだろ。」
なるほど。
確かにそこは風神さんのいう通りかもしれない。
常識人かどうかはともかくとして。
…風神さんに比べれば、か?
「まあとりあえず風呂に行こうか。」
俺の考えなど知らず、風神さんはにっこりと笑う。
いい人、には違いないんだけどなあ…。
この旅館は山の斜面に建っている。
必然、建物内での階段での移動や傾斜が多くなっていた。
もちろんそれは屋内に留まらず、屋外でも同じで。
「女湯は上かあ。」
大神くんが山肌を見上げながら呟いた。
既に全裸で、細長いモノをぶらぶらとさせている。
身体の方はというと、細身でありながらしっかりとした筋肉があるのが、毛皮の上からでもよくわかる。
なるほど、しっかりとしたアスリート体系だ。
あれなら普段の身のこなしも頷ける。
「おお、いい眺めだなあ。」
対するランスは逆に山を見下ろしている。
こちらは腰にしっかりとタオルを巻いていた。
とはいえ、普通のハンドタオルでは巻くのが精一杯といった感じだ。
かろうじて結ばれた結び目は今にも解けそうで。
しっかり止まっている現状でも、太ももが半分以上はみ出している。
隠さないよりも卑猥なんじゃないだろうか。
そして見慣れた身体は、大神くんよりもどっしりとした印象だ。
筋肉が太く、全体的にごついラインをしている。
大神君がアスリートなら、こちらは格闘技といった感じだろうか。
いや、俺格闘技しないから知らないけど。
「他の客はいない、な?」
風神さんが確認しながら入ってくる。
熊のままで。
「脱がないんですか…?」
「俺にはこれが裸だ。」
いや、普段から服着てないじゃないか。
あのまま湯に使って気持ちいいのだろうか。
風呂の時くらいメイクとればいいのに。
しかし、それはそれでいい体をしている。
改めて見るまでもなく、がっちりとした柔道体型。
…三人が三様にいい身体をしている。
なんだか自分の中肉な身体が恥ずかしくなった。
「どうした?」
なんか今日はランスに心配されてばっかりだな。
「なんでもないよ!
ほら、いい景色!」
言いながらランスが見ていた方向を指差す。
山肌は雪が積もって、一面銀色に染まっていた。
広々とした青空と、きらきらと輝く銀の山肌。
ほんとうに絶景だった。
「もう少し上から見たらもっと綺麗なのかなあ。」
「そうだろうな。」
ここからだと街並みが良く見える。
もっと上からなら、きっともっと山景色が見えるのだろう。
かといって上は屋根があって良く見えな…。
「大神君?」
大神君が、山肌にしがみついていた。
「何やってるんだ、お前は。」
ランスも隣で呆れた様に呟いている。
まあだいたいしたいことは判るけれど…。
「決まってるだろう。
覗きだ!」
振り返り、ぐっと親指を立てる大神くん。
つまり、女湯に向かうところらしい。
なんと突っ込むべきなのか…。
とりあえず風神さんを振り返る。
一人で湯につかり、ちゃぷちゃぷと波を立てて遊んでいる。
完全に、我関せずといった顔だ。
「馬鹿だろ。」
俺が悩んでいる間にランスが的確かつストレートなツッコミを入れた。
ホントに、大神くんの時は厳しいなあ。
まあ厳しくしないと伝わらないっていうのも判るけど。
「何が馬鹿だ!
男のロマンだろうが!」
まあ確かにそういって憚らない人種がいることは確かだけど…。
犯罪だよ、それ。
それに今覗いたら風花がいるわけで。
それはある意味自分から地獄に落ちるようなものなのだけれど。
「判ってても、やらなきゃならないことってのはあるんだ…!」
大神くんは拳を握りながら力説する。
そんな目をキラキラさせていわれてもなあ。
とりあえず止めようか。
困った様にランスを振り向く。
視線を交わし、頷き合った。
「あ、こら。
邪魔するな!」
止めようとする俺たちをうまくかわし、ひょいひょいと山肌を昇っていく大神くん。
「こらじゃねえ、お前が待て!」
ランスが叫びながらその後を追う。
俺もなんとか辺りの木にしがみつきながらその後に続く。
あ、このアングルだとランスのタオルの中見える…。
そんな事を考えていたからだろう。
「あっ…。」
思い切り、足を滑らせた。
「ヨシキ!?」
ランスの声が聞こえる。
だが伸ばされた手は遠く。
「ああああああああ…。」
思い切り山肌をずるずると滑る。
知らない間にずいぶんと上って…じゃない!
男湯に戻るだけだと思ったら、どうやら滑る方向がずれているようで。
浴場を横目にずるずると滑り落ちていく俺。
ていうか痛い痛い。
そんなことを他人事の様に考えながら。
「ランスううううぅぅぅ…。」
俺はざりざりと音を立てながら、雪の上を滑り落ちて行くのであった。
「大丈夫か?」
ようやく止まり、なんとか起き上がった頃。
ランスも雪の上を滑りながら降りて来てくれた。
「うん、とりあえず…。」
お尻と背中がとても痛いけれど。
「結構落ちたなあ。」
ランスが見上げながら言う。
つられる様に視線を上げれば、男湯が小さく見えた。
なるほど、確かにこれは数mなんて単位ではなさそうだ。
「歩けそうか?おぶったほうがいいか?」
「ん、大丈夫。
歩けるよ。
歩けるけど…。」
身体としては大丈夫だ。
歩ける。
ただ問題は。
結構な急角度だってことだ。
ちょっと俺の足でこれを昇るのは厳しい。
ランスに関してもそれは同様だろう。
いや、ひょっとしたら昇れるのかもしれないけど俺を抱えて可能かと言われるとやはり難しいのではないだろうか。
「とりあえず迂回路を探そう。」
そっと俺の手を握ってくれる。
ああ、暖かい。
…やっぱりおぶってもらえばよかったかな。
どうせ人目もないのだし、強がる必要もないのではないか。
しかし一度大丈夫と言った手前、やっぱりおぶってくれとは言えない。
ここで足を怪我するなりしもやけになるなりすれば言い出しやすいんだけど…。
さすがにそんな事を期待するわけにもいかないだろう。
というか、普通に痛いのは嫌だ。
山肌を少しでも昇れるように歩いていく。
が、どうも男湯からは離れて行っている気がする。
うーん…。
「ねえランス、こっちで大丈夫なのかなあ。」
と聴いたところでランスにも判らないだろう。
ただ不安だから言葉にしただけだ。
「ひとまず上にいかないことには始まらん、と思ってこちらに来たが…。」
いいながらランスは上を見上げる。
まだ男湯は遠い。
横の距離に至っては遠くなっている気がするから、結局直線距離ではかわっていない、ということになる。
うーむ…。
恥を忍んで一旦下に降りるべきだろうか。
「あ、ヨシキ。」
ランスが不意に声をあげた。
なにごとかと顔をあげてみれば。
「あ…。」
立派な横穴がそこにはあった。
なんというか、RPGにでてくる洞窟みたいだ。
もっとも俺達が入るには若干小さいけれど。
「…入ってみるか?」
少し迷う。
どこかに繋がっている可能性は低い。
そもそも防空壕の名残だとか、そういった可能性もあるのだ。
でも、少しだけ気になった。
「行ってみようか。」
なかばやけくそ気味なのは認める。
ただ、せっかくの非日常。
少しくらい冒険したっていいだろう。
自分にそう言い訳しながら、横穴へと足を踏み入れる。
「わ、寒い…。」
日が射さないせいだろう。
その横穴の中はひんやりとして肌寒いくらいだった。
「大丈夫か?」
そっと肩を抱いてくれる。
ふかふかとした毛皮が暖かい。
だがそれもすぐに離れる。
道幅が狭くなったのだ。
「天井も低いな…。」
ランスは既に中腰になっている。
これでは肩を抱いて歩くなんて難しいだろう。
「あ、ここ出っ張ってる。
四つん這いなら通れる…かな?」
「俺が先にいくよ。」
大きなでっぱりが天井から突き出ている。
ランスはもちろん、俺もそのままでは通るのは難しいだろう。
しょうがなく俺たちは四つ這いになる。
うわあ。
ランスは相変わらず腰にタオルをまいただけの姿だ。
それで四つ這いになればどうなるか。
うん、丸みえ。
大きい玉も、その向こうにある太い竿も。
さ、触りたい…。
「ぐ、狭いな…。」
ランスは呻きながらさらに姿勢を低くする。
ほとんど匍匐前進だ。
幸い俺は四つ這いのまま進む事が出来そうだ。
もっともいい眺めは終わってしまったけれど。
「お、開けてるぞ。」
言ってランスは不意に立ち上がる。
そのまま振り返り、俺に手を差し伸べてくれた。
もちろん見上げる姿勢だから、タオルの中は相変わらず見えている。
…なんか今日は覗いてばっかりだな。
竿を握りそうになるのを必死で堪え、差し伸べられた手を握る。
「中は意外と広いな。」
ランスが安心した様に言った。
なるほど、たしかに広い。
「暗い…。」
とはいえ、暗くて良く見えないというのが本音だ。
さて、どうしたもんか。
「ほら、行くぞ。」
ランスが再び肩を抱いてくれる。
あ、そうか。
ランスは虎だから暗くても見えるのか…。
「ごめん、俺良く見えないんだ。」
その言葉にああ、とランスは小さく呟いた。
肩を抱く腕にきゅっと力が込められる。
一緒に歩いてくれるつもりなのだろう。
俺もそっとランスの腰に腕を回した。
尻尾が優しくその上を押さえてくれる。
若干歩きづらいけど、これで怖くはない。
「若干勾配になってるな…。」
ランスが言いながら歩く。
確かに、少し上り坂になっているようだ。
「これで上に繋がってたらいいんだけどねえ。」
流石にそう上手くは行かないだろうか。
「まあ出られないってことはないだろう。
最悪、夜には戻れるさ。」
確かに、引き返してゆっくり昇ればそれくらいの時間だろう。
風花に怒られる気がするから、できるだけそれは避けたいけれど。
「おっと…。」
足元のでっぱりに躓く。
こけそうになる前に、ランスがそっと抱きとめてくれた。
やっぱりこの道危ないなあ…。
「おおーい。」
不意に声が聞こえた。
どこからだろうか。
思わず俺はランスを見上げる。
もっとも暗くて、怪しく光るランスの眼くらいしか見えなかったけれど。
「おーい…。」
聞こえてくる声はどこか不安げだ。
向こうも道に迷っているのだろうか。
声と共に足音が近づいてくる。
良く言えば渋い、悪く言えばおっさんくさい声。
「どこ行きよったんじゃ、ホントに…。」
その口調もどこかオヤジくさい。
いや、ここまでくるとジジむさいというべきか?
やがて足音は少し手前まできて。
「お?」
どうやら向こうもこちらに気づいたらしい。
もっとも俺にはその姿は全く見えなかったけれど。
「貴方は…?」
ランスが不思議そうに呟く。
「おお、ヒトに会えるとは…。
いや、スマン。
連れとはぐれてしもたんや。」
こんな場所で?
「…こっちでは誰にも会ってないですよ。」
「そうかあ。
ほな、あっちの分かれ道かなあ。
ああ、ありがとなぁ。」
それだけ言うとそのヒトは早々に立ち去ってしまった。
なんだったんだ、いったい。
「ヨシキ。」
「ん?」
「今の、見えたか?」
もちろん見えるわけがない。
そう伝えるとそうか、とランスは小さく溜息をついた。
なんなんだろう。
「今の獣人だったぞ。」
「へ?」
思わず間の抜けた声を出す。
だって獣人って…。
「大神くん…?」
「いや、もちろん別人。」
三人目…?
そんなにポンポンといていいもんじゃないと思うんだけど。
「なんというか…雑種だった。」
「雑種…。」
正直想像がつかない。
野良犬…みたいな感じでいいのかな。
うー…。
「追いかけてみるか?」
正直気になる。
気になるが…。
「裸で…?」
あまりヒト様に見せられるかっこうではないのだ。
それに誰か知り合いと一緒だったようであるし。
「やめとくか。」
あっさりとランスは引き下がる。
確かに俺から言い出した事ではあるけれど。
ひょっとしたら元の世界に戻るヒントがあるかもしれないのに。
もちろん、一緒に居てくれるのならそれに越した事はないのだけれど。
「あ、そうだ。」
それで思いだした。
ランスに聞こうと思っていたこと。
「どうした?」
「その…。」
言い出しづらい。
なんだか今更という気もするからだ。
「その、ランスって女性は好き、なの?」
なんとなく遠まわしないい方になった。
要するに性的対象かどうかということを聞きたいのだが。
「うーん、そもそも恋愛ってのがほとんど経験ないからなあ。」
「え、そうなの?」
なんか意外だった。
ランスならモテただろうに。
「まあ、女性に恋をしたことはないし…今の所はするつもりもないよ。」
そう言いながら俺の頭を撫でてくれる。
なんだかとても安心した。
と、同時に視界の端に小さな光が見えてきた。
「あ、出口。」
「ほら、行こう。」
話を打ち切る様に、ランスは俺の手を引く。
引かれるままに俺は歩みを進め。
最初に目に入ったのは山だった。
正面に見える、銀色の山。
きらきらと光ってそれはとても美しく。
次に見えたのは青い空だった。
広々とした空には雲ひとつなく。
洞窟の出口はまるでそれらを切り取った写真のようだった。
「綺麗だねえ。」
思わずそう呟きながら歩みを進め。
一気に、視界が広がった。
出口に到達したのだ。
「うわあ…。」
正直、それしか言えなかった。
まさに銀色の平原。
どこまでも、どこまでも続いているかのような雪景色。
その中にぽつぽつと立つ、葉の落ちた木々。
景色は、見るものだと思っていた。
だけどここに至って思い知らされた。
景色は、包まれるものなのだ。
ゆっくりと視線を下ろせば、はるか眼下には雪に埋もれる様にして小さな家がぽつぽつと見える。
まるでミニチュアのようで、なんだかそこにヒトが住んでいるとは思えなかった。
視線を巡らせ、左右を見る。
もちろんそちらも銀色に包まれていて。
「どうした?」
ランスが不思議そうに聞いてきた。
ああ、ランスはこういった景色は見慣れているのだろうか。
なんだろう。
ただ雄大という言葉しか思いつかなくて。
自分の語彙の少なさに少しだけ嫌気がさして。
それでも、その圧倒感に言い知れぬ感動を覚えていたのだ。
そっとランスに口付ける。
不思議そうにしながら、答えてくれるランス。
背中に回された腕に、ぎゅっと力が込められる。
しばらくの間舌を絡めて。
俺達はゆっくりと顔を離した。
ランスの優しげな瞳が見える。
なんだか急に恥ずかしくなって。
俺はそっと身体を離した。
「あ。」
だが、それがいけなかった。
「ああああああああああ…。」
本日、二度目の落下。
「いったあ…。」
今度は気を失っていたらしい。
なんだか頭がくらくらする。
「ヨシキーっ!」
ランスの声がする。
俺はなんとか湯の中で身体を起こした。
…湯?
辺りを見回せば、どうやらそこは浴場であったようだ。
しっかりとした石の湯船に、浅く湯が張ってある。
うわ、頭打たなくて良かった。
「大丈夫か!」
ランスが心配顔で飛び込んできた。
そりゃそうだ。
こんな岩場に落ちて気を失ってれば、俺だってそうする。
「うん、お湯に落ちてラッキーだったみたい。」
とはいえあちこちヒリヒリする。
水面に落ちた時に打ったのか、それとも落ちた時にひっかけたのか。
「そう、無事で良かった。」
ああ、風花も心配してくれたのか。
まったく申し訳な…。
「…え?」
そっと振り返る。
そこにはみたくない姿があった。
湯船に立つ、裸の風花。
かろうじてタオルで隠すべき所は隠しているけれど…。
「大神くんはひょっとして来るかもと思っていたけれど。
そう、アンタたちがくるの。」
怖い。
怖い。
怖い。
「ち、違う!
事故なんだ、事故!」
「お、俺達はその!」
俺とランスは必死で弁解しようとする。
だがそんな言葉聞く暇もなく。
「股間隠してからしゃべれええええ!」
俺たちの顔面に、思いきり洗面器が叩きつけられた。
続