北の街−夢の終わり編−
僕はずり落ちてくるサングラスを指で軽く押し上げると小さく溜息をついた。
代わり映えのしない日々にやや飽きがきているのだ。
周りを見渡しても何も面白いことはない。
コンクリートでしっかりと固められた白い壁に、一定間隔をおいて作られている赤い扉。
そしてたまにすれ違う、どこの誰ともわからない自分とまったく同じ格好の人々。
この建物の中はそれがすべてといっても過言ではない。
部屋に入ればそれぞれの部屋で風景は変わるが、用のない部屋に入ることは禁止されている。
決まった部屋から決まった仕事場へ。
建物から出ることもなく続くそんな生活が僕は嫌だった。
「もっと楽しいことないかな・・・。」
そういいながら僕は自分が来ている服をみた。
黒いスーツに黒いネクタイ、そして黒いサングラス。まさにMIB(メン・イン・ブラック)といった感じだ。
これは僕達の制服であるらしい。
黒は影に同化するという意味で存在感を消し、
サングラスは視線を隠すことで、その人の意思を隠し1人の個人だということを忘れさせる。
後は同じ姿を皆に強いることで個性を埋没させる、という狙いがあるようだ。
ちなみに個性を発揮する必要がある僕達のずっと上の上司はそれぞれが思い思いの服装をしているらしい。
もっとも僕は実際に見たこともないけれど。
せめて服装が違えばもっと周りの環境も変わるだろうに。
そんなことを考えながら僕は赤い扉の横についている機械にカードを通し鍵を開けた。
「遅いぞ、トラ。」
僕が扉をくぐると聞きなれた声が聞こえた。
画面をにらみつけ、キーボードを叩く指の動きはそのままに僕の上司が言ったのだ。
「どうせ早く来たってすることもないんですし構わないでしょう?」
あくび交じりにそう答えるとようやく彼は手を止めてこちらを向いた。
年のころは30代前半、そろそろオヤジと呼ばれても反論できないような時期に差し掛かっている。
頭はうっすらと禿げてきており、それを隠すために彼はいつも髪を短く刈っている。
黒いスーツで覆われたごつい体は大きな岩のようにも見える。
「お前なあ。そんなことだからろくに仕事もできねえんだ。わかってんのか?」
半ばあきらめたように僕に説教を垂れる。
彼は昔本で読んだようないわゆる『江戸っ子』気質だ。
多少頑固なところがあるが扱いやすい人物には違いない。
いつものように僕は話題をそらしてやることにした。
「それはそれとして、どうなんです?プログラムのほうは。」
彼の目の前にあるディスプレイとまったく同じ画面が白い壁に大きく投影されている。
僕はそれを横目で見ながら部屋の隅にあるコーヒーメーカーのスイッチを入れた。
「むぅ・・・。理論上では完成しているはずなんだが・・・。」
「そう言い続けてもう2ヶ月以上たつじゃないですか。」
コーヒーができるのを待ちながら僕は再び画面に目をやった。
そこには1人の獣人の姿がCGで立体的に描かれている。
その獣人は目を閉じたまま水中に浮かんでいるかのようにその場にたたずんでいた。
「彼もそろそろもたないんじゃないですか?」
そういいながら僕は画面の左側に視線をずらす。
そこには、CGと寸分たがわぬ姿の獣人が透明の筒の中に漂っていた。
大きな体に無数の傷があり、特に左目を跨ぐようにしてついた大きな傷がとても目立っている。
「いくらこのポッドが生命維持機能に優れているといっても、
『彼女』に捕らわれて3ヶ月以上もった試しはないんでしょう?」
部屋の隅でコーヒーメーカーが音を立て、コーヒーが出来ていたことを告げていた。
「そうなんだよなあ・・・。いい加減なんとかしねえと。」
そう言って彼はディスプレイから視線を上げ、大きく投影された画面の右側に視線をやった。
そこには獣人が入っているのと同じポットがある。
『彼女』はその中で何年も眠りつづけていた。
「翼の生えた眠り姫か・・・。」
僕にしか聞こえないくらいの大きさで独り言を呟いた。
正式な名前は知らない。
僕が知っているのはこのポッドに何年も眠っているということ、
そして彼女の背中からは翼が生えているということだけだ。
「いつもはこんなに苦労しねえんだがなあ。ナニが違うっていうんだ?」
そういって彼は再びキーボードを叩き始める。
僕はそんな彼にコーヒーを入れると机のそばまで持っていってやった。
「先輩の腕が落ちたんじゃないですか?」
コーヒーを渡しながら軽くおどけてみせる。
彼もその言葉を本気にすることなく、僕の頭をかるく叩くふりをして見せた。
「彼の脳内電気信号はほぼ正常に読み取ることが出来ているし、
そこから復元された感覚・感情は今までのデータにのっとって処理され
擬似人格プログラムとしては十分に確立しているはずだ。
それで出来ないってことは・・・。」
そう言って先輩は角砂糖を5つほど掴み取るとコーヒーの中に放り込んだ。
「電気信号から読み取った感情なんかを処理する過程で必要なサンプルデータに問題があるんじゃないですか?」
むう、と一言うなり彼はコーヒーをすすった。
「『彼女』に捕らわれる前の彼の感情を元に作ったデータだ。
彼に適応できないはずはないんだが・・・。
それに捕らわれる前の彼の感情データからは同じサンプルから擬似人格を形成することは可能だったんだ。
死滅することを除けば脳内のニューロンネットワークにはそう簡単に変化が起こらない。
反応が確認できている脳細胞が以上死滅しているはずはないし、
適応できないはずがないんだが・・・。」
そう言って再び角砂糖を5つほどコーヒーに放り込みながら、先輩はポッドに浮かんでいる獣人を見つめた。
「・・・『彼女』に捕らわれているから擬似人格として確立できない?」
「時間の変化はもちろん伴っているが、それを除いた場合変数として考えられるのは
『捕らわれているか否か』
の一点のみだ。
ならば捕らわれているからこそ彼の電気信号と感情が一致していないという状態になっているんじゃないかと考えられるんだが・・・。」
僕の疑問に先輩はコーヒーを飲みながら答える。
こんな議論はもう一ヶ月も前から続いている。
先輩の仕事である、獣人の脳から電気信号を読み取り擬似人格プログラムとして再構築する作業がずっと停滞したままであるためだ。
『彼女』に捕らわれた場合、捕らわれた者の内部では一体何が起こっているのか?
それを知るために捕らわれたものの擬似人格を作ろうとしているわけだが・・・。
「先輩・・・。」
「ん?」
カップの中で揺らめくコーヒーを見つめながら僕は素朴な疑問を口にした。
「捕らわれる、って何なんですか?」
その疑問に先輩がカップを置いてこちらを見た。
いつになく真剣な表情だ。
「それを知るために擬似人格を作ろうとしているんだ。」
「でも今は擬似人格を作るために、捕らわれるということの意味を理解する必要がでてきています。
これでは本末転倒じゃないですか。」
僕の言葉に先輩も言葉に詰まった。
しばらくの沈黙。
そして、先輩が口を開いた。
「物理的な面、他人が客観的に確認できることを総合するとこうだ。
何者かはわからないが、翼の生えた女性がずっと眠りつづけている。
そして『彼女』は、自分の波長の合ったものを捕らえる。
つまり、波長の合った相手も自分同様眠らせる、ということだ。
波長の合う合わないが何によって決定されているのか、
一体どのようにして『彼女』は他人を捕らえているのか、
捕らわれるとどうなるのか。
これらが主に考えられている謎だ。
そして俺たちの部署では一番最後、『捕らわれるとどうなるのか』を研究している。
そのためにこうやって捕らえられた獣人をサンプルとして色々と調べているわけだ。」
先輩が僕達が仕事をはじめるきっかけになったことを簡単にまとめて説明してくれる。
だがそんなことは今更説明されなくとも百も承知だ。
「でも擬似人格を用いる方法はもうずっと失敗しているんでしょう?
他の方法を用いてみたらどうなんですか?」
さすがに痛いところを疲れたらしく先輩は開きかけた口を閉じ、
視線をそらすと気まずそうに頭をかいた。
「そら確かに成果は上がっていないが・・・。
他に方法がないんだよ。他の方法も試すには試したんだが、
それだとどうしてもデータの信頼性が限りなく0に近づく。
そんなデータを取ったところで意味はないだろう?」
たしかに、信頼性のないデータに意味はない。
「・・・じゃあ結局このまま擬似人格をプログラムする以外ないってことですか。」
「ま、そういうことだわな。」
僕の口から大きなため息が出た。
結局いつだって結論は変わらない。
いつもと同じことをいつもと同じように繰り返す。
それだけだった。
捕らわれるということは一体何なのか?
捕らわれることで獣人の中でどのような変化がおこっているのか?
答えの出ない疑問は一つの輪となって、僕の周りをまわりつづけていた。
「くうぅぅっ!」
僕はベッドの中で大きく伸びをした。
今日もつまらない一日が始まる時間だ。
続いて小さく溜息をすると僕はベッドを出ていつものスーツに着替える。
何か面白いことでも振って沸かないかな、とこの時間はいつも淡い期待を抱いてしまう。
そんなこと、起こるはずもないのに。
どさ。
・・・?
背後で何かが落ちる音。
続いて
がらーん!!
金属が床に叩きつけられる音が部屋の中に響く。
し、心霊現象?
恐る恐る後ろを振り向くと、床には鉄の板と獣人が1人、のびていた。
「・・・振って沸いた。」
思わず振り向いた形で固まったまま僕は呟いた。
とりあえず獣人に近寄ってみる。
意識がないだけで命に別状はないらしい。小さなうめき声も聞こえてくる。
どうしようかと少し悩んだ挙句、とりあえず僕のベッドに寝かせてやることにした。
なんとか獣人をベッドに放り込むと、とりあえず獣人は置いといてもう一つ落ちていた鉄の板に目をやる。
鉄の板といっても格子状になっていて、むしろ鉄の棒が何本も並んだもの、といったかんじだ。
これは・・・通風孔の蓋?
天井を見上げると、案の定通風孔の蓋が外れてぽっかりと口をあけていた。
獣人もここから落ちてきたらしい。
でもなんで通風孔に獣人が・・・。
「ううう・・・。」
ひときわ大きなうめき声が聞こえる。
どうも獣人が目を覚ましたらしい。
獣人の顔を覗き込むと、ゆっくりと目が開いた。
一瞬驚いたように目を見開き、周りを見回す。
「僕、あそこから落ちたんですか・・・。」
天井にある通風孔の穴を見つけて弱々しく獣人が呟いた。
その発言に対して僕が頷くと彼は溜息をついた。
「すいません、ご迷惑をおかけして。」
彼が深々と頭を下げた。
「いや、それはいいけど。
この建物って部外者立ち入り禁止だよ?」
というよりは入れない様になっているはずである。
この施設は崖に埋め込まれる形で作られており、一般の人たちは普通存在に気づかない。
通風孔も崖側にその出口がありそうやすやすと入ってこれる場所じゃない。
実際、今まで侵入者があったなんて話は聞いたことがない。
「すいません。
でも、この辺りに僕の探している人がいるんじゃないかと・・・。」
下を向いたまま彼は弱々しくそう言った。
「探してるって・・・誰?」
人を探している、という言葉に僕の耳がぴくりと動く。
面白そうな臭いだ。
僕はできるだけ好奇心を隠しながら尋ねると彼は突然顔を上げた。
「イスズって言う、女の人・・・。
見たことありませんか、こんな顔の・・・あれ。」
彼はしゃべりながら腰の辺りに手をやるがそこには何もない。
「ベルトに挟んどいたんだけど・・・。
なくしちゃった・・・。」
そう言って彼はまたうつむいた。
なんだか少し可愛そうになって僕は椅子を通風孔の下に運び、中を覗き込んでみる。
だが目の届く範囲には何も落ちてはいなかった。
やや気まずい沈黙が漂う。
「とりあえず、この建物の中歩いてみる?
イスズさんて人が見つかるかも知れないし・・・。」
僕の言葉に獣人が顔を上げてこっちを見る。
目で、いいのかと問い掛けてきていた。
純粋な瞳で見つめられては断ることもできない。
なによりこんな面白そうな話、放っておくわけにはいかない。
「僕の言う通りにしていれば多分ばれないから大丈夫だよ。」
そういいながらにっ、と口の端を上げて笑ってみせる。
心なしか、彼の瞳に恐怖の色が浮かんだ。
僕はもう一度身なりを整えると彼―――ルーブと名乗った獣人を連れて部屋を出た。
ルーブ君は下を向いたまま目の焦点も合わず、ぼんやりとしたまま僕の後ろをついてくる。
僕は後ろに誰もいないかのように振舞い、仕事場へ向かうふりをして建物の中を歩き回る。
こうやってすれ違う人の中にイスズさんとかいう人がいないか探していくのだ。
知り合い自体が少ないため適当に歩いていても特に不審がられる事はない。
「あ、トラ君。」
と思っていたら突然声をかけられ僕は少し慌てて声のした方向を振り向いた。
「あ、オハヨウございます。」
一部発音が変になるが、なんとか返事を返す。
部署は違うが、何度か顔を合わせたことのある女性だった。
軽くウェーブのかかったブロンドの髪が美しく、印象に残っている。
髪だけでなく、サングラスをかけていてもその下の美しさが窺い知れる。
軽くサングラスを下ろし、上目遣いにこちらを見る仕草は僕を赤面させた。
「ちょうどダイゴ君に渡すものがあったの。
頼んじゃっていいかしら?」
そう言って彼女はポケットから一枚のディスクを取り出した。
ダイゴ、というのはうちの先輩の名前だ。
そう言えば彼女って先輩のことが好きだって噂聞いたんだけど、どうなんだろう・・・。
「あ、はい。」
そんなことを考えながら手渡されたディスクを受け取ると、簡単に挨拶をして彼女と別れた。
「ビックリした・・・。」
今受け取ったディスクをポケットにしまいながら僕は呟いた。
「ホントに大丈夫なんですか・・・?」
後ろからルーブ君が心配そうに聞いてくる。
「シッ!しゃべっちゃダメだってば!
あくまで実験台のふりしとかないとばれたらつまみ出されちゃうんだし。」
そう言って彼を黙らせると、僕達は再び歩き出した。
この施設は獣人を実験に使うこともあるため、
クスリで茫然自失状態に追い込んだ獣人を連れていても不自然ではない。
ルーブ君にはクスリでラリっている振りをしてもらい建物の中を歩いているのだ。
「トラ、おはよう〜。」
「あ、おはよう。」
いつもと違うルートを通ると数少ない友人・知人にも出会うものである。
朝からもうこれで6人目であった。
最初は緊張したが、誰一人気にする人がいないとこちらとしても気が大きくなってくる。
もちろん知り合い以外にも結構な人数とすれ違っているが、
ルーブ君が探しているイスズさんに出会う気配はない。
友人に手を振りながら僕は小さく溜息をついて再び歩き出した。
辺りに人がいないのを確認してから僕は小さな声でルーブ君に話し掛ける。
「いない・・・よね。」
ルーブ君は辺りを気にしてか小さく頷くだけにとどめた。
「どうしようか・・・。」
ルーブ君にアイディアがあるとも思えず、僕はぼんやりと自分の仕事場に向かって歩いた。
「ところで、ここってどういう施設なんですか?」
辺りに気をつけながら、口を動かさないようにルーブ君は呟いた。
「そうか・・・見たことないものばっかりだしね。」
考えてみれば最もなルーブ君の疑問に答えることにした。
といってもすべてを話すことはためらわれたし、なにより長くなる。
僕は、
・この施設は表社会には認知されていないものであること
・ある一部の人間(裏社会の人間)は進んだ『科学』を持っていること
・ここは『科学』によりあらゆるモノを研究する施設であること
・この『科学』の存在を知った一般人(表社会の人間)は皆殺されること
を簡潔に話した。
「ようするに秘密結社みたいなものだと思ってくれれば。
・・・規模は桁違いだけどね。」
「そんなとんでもないものが・・・」
突然ルーブ君が足を止める。
「?」
僕が何事か問いかけようとしたとき、その理由がわかった。
遠くからたくさんの足音が聞こえてくる。
ざわついた声も聞こえてきており、声の内容からするとどうも誰かが追いかけられているようである。
「走ろう。」
好奇心はあるものの、今現在トラブルに巻き込まれることはまずい。
とにかく近くの仕事場に逃げ込もうとルーブ君の手を取り走り出す。
「わっ!」
「っと!」
曲がり角で人にぶつかりそうになり、慌ててその場で立ち止まる。
一目見ただけで、追いかけられているであろう人物であることがわかった。
ぶつかりそうになったのはルーブ君と同じ狼獣人。
本来この建物の中には獣人は(実験台を除いて)いないはずである。
つまり、二人目の侵入者というわけだ。
そんな簡単に侵入できるの、ここ?
「え、あっ・・・。」
どうしていいかわからない狼獣人をみて、僕は咄嗟に彼の手をつかむとルーブ君と二人を引き連れて走った。
職場の扉は目の前である。
僕は自分の職場に通じる赤い扉をあけ、部屋の中に飛び込んだ。
扉を閉めると同時に無数の足音が扉の向うから聞こえてくる。
・・・・・。
扉の向こうの足音が収まったのを確認して僕は溜息をついた。
もう大丈夫だろうと扉から離れ、二人のいた場所を見る。
だが僕のすぐ後ろにいたはずの二人の姿がない。
「あれ?」
部屋の中を見回すと、二人はポッドの前に立ちすくんでいた。
ルーブ君は部屋の右端にある、『彼女』の入ったポッドの前に。
名前の知らない獣人君は部屋の左端にある、虎獣人の入ったポッドの前に。
二人とも小さく震えているように見えた。
声をかけようと僕が口を開いた瞬間、それより早く名前も知らぬ獣人君が叫んだ。
「ロック!」
そう言ってドンドンと虎獣人が入ったポッドを力いっぱい叩く。
僕は慌てて彼を羽交い絞めにして動きを止めた。
「ちょ、ちょっと!壊れちゃうって!」
そう言って彼を抑えているうちに部屋の反対側でもルーブ君がポッドを殴り始めた。
「こらこら!」
獣人君を放り出して必死で彼を取り押さえる。
「イスズ、イスズ・・・。」
ルーブ君は僕を振りほどこうと暴れながら、
ポッドに浮かんでいる『彼女』を見つめ小さな声で呟いていた。
『彼女』がイスズ?
そんな疑問が頭をよぎったが、余裕もなくすぐにそんなことは頭から飛んでいく。
その間に獣人君が再び虎獣人の入っているポッドを叩き始める。
ひ、1人じゃ手におえない・・・。
「やめなさい!その虎さんが死んでもいいの!?」
さすがにこの一声は効いたらしく、獣人君は驚いた顔をしてこちらを向いている。
ハッタリのつもりで叫んだ言葉だが、あながち嘘とも言い切れない。
『彼女』に捕らわれて危険な状態に入っている彼をポッドから引きずりだすような真似をしては本当に死ぬ危険がある。
なんとか二人の動きを止めて、軽く溜息をついた時だった。
「そうだな、確かに死ぬ危険がある。」
どこか感情のこもらない冷ややかな声。
突然聞こえた声に僕は慌てて扉の方を振り向いた。
ルーブ君も獣人君も突然現れたその人物に呆然と視線をむけている。
僕だけは、彼が何者かすぐに察しがついた。
この建物の中で黒いスーツに身を包まない人物は1人しか思い当たらない。
つまり、この施設の最高責任者。
「どうして・・・」
驚きで言葉が後に続かない。
この部屋に、彼が来るはずはないのに・・・。
だが彼は僕の一言で言いたいことを察したようであった。
「侵入者があったんだ、探すのが普通だろう?
もっとも、二人もいるとは思わなかったが。」
そう言って言葉以上に冷ややかな笑みを浮かべながら彼は中指で眼鏡を押し上げた。
僕も、ルーブ君たちも何も言えずにいるとその場でスーツの内ポケットに手を入れる。
「しかし・・・どうやら君達はそこの実験台達の知り合いのようだな。」
そういえば、と僕はルーブ君を放しながら後ろを振り向きながら考えた。
ルーブ君は『彼女』をみてイスズ、と言っていた。
ルーブ君が探していたイスズ=『彼女』ということだろう。
そして獣人君は虎獣人をロックと呼んだ。
彼もまた、虎獣人を探してこの施設に侵入したのだろうか。
「私も鬼じゃあない。1人ぐらいは君達に返してやろう。」
そう言って冷酷な笑みをこちらに向けた。
「『彼女』・・・イスズと言ったか。『彼女』もそちらの虎獣人も、もう長くない。」
その言葉にルーブ君の体が凍りつく。
こちらからではわからないが向うの獣人君も衝撃を受けているようである。
「『彼女』を救いたいのなら、今すぐそのポッドを壊すことだ。
そこから救い出せば『彼女』が生き残る可能性はある。」
ルーブ君が後ろを振り向く。
「だが、仮に虎獣人が入っているポッドを壊せば彼は死ぬだろう。
彼を生きたまま救うには『彼女』を今目覚めさせてはいけない。」
獣人君が後ろを振り向く。
「もう私達に二人は必要ない。
連れて帰りたくば連れて帰ってくれても構わない。
もっとも、『彼女』を連れ帰るなら虎獣人は死ぬだろうし、
虎獣人を連れ帰るにはもう少し時間をおく必要がある。
つまい、『彼女』を命の危機にさらす―――あるいは殺す必要があるが。」
残酷な選択だ。
だが、彼の言っていることはおそらく間違っていない。
今すぐ虎獣人を目覚めさせればおそらく彼は死ぬ。
今まで『彼女』に捕らわれたままの人物を無理に目覚めさせて生き延びた試しはないから。
しかし、『彼女』を目覚めさせないと今度は『彼女』が危ないだろう。
『彼女』が眠りだしてからどれ位たつのかはわからないが、
明らかに生命反応は弱くなってきている。
先日などは一度エマージェンシーが鳴り響いたほどだ。
二人の獣人は顔を見合わせたまま動かない。
どうするか決めあぐねているのだろう。
そして先に動いたのはルーブ君の方だった。
『彼女』が入っているポッドに向かって体当たりをはじめる。
「やめろっ!」
獣人君が必死に止めに入る。
だがルーブ君の方も負けてはいない。
彼だって必死なことには変わりないのだ。
獣人君の制止を振り切り再びポッドになぐりかかる。
「やめろぉ!」
さらに大きな声をあげ、獣人君はルーブ君になぐりかかった。
ルーブ君もポッドよりも先に獣人君に殴りかかる。
「邪魔するなぁっ!」
ルーブ君のパンチをよけて、獣人君がボディを打つ。
ルーブ君は小さくうめき声をあげて崩れ落ちる。
だが、獣人君の足にしがみつくようにして必死になぐりかかる。
獣人君も足を捕まれてはかわし様もなく、二人はもつれるようにしてその場に倒れこんだ。
二人の壮絶な殴り合いが始まろうとしたその瞬間。
「やめろっ!!」
僕の声が響き渡った。
その声にも二人は動きを止めようとはしない。
しかし次の言葉に、二人は凍りついた。
「二人とも救う方法だってある!」
一瞬の沈黙。
そして・・・
「その話に興味はあるが・・・、せっかくのゲームを邪魔するような無粋な真似はしてはいけないよ。」
そういって、扉の前にたたずむ男は内ポケットに入れっぱなしだった手を引き抜いた。
その手には黒光りする拳銃。
その銃口がゆっくりとこちらに向けられる。
「悪いが・・・」
その先は、轟音でかき消された。
世界が
揺れる。
突然の大地震に誰もがその場に崩れ落ちた。
立っていた僕や銃を構えていた彼だけでなく、四つ這いになっていたルーブ君たちも。
誰も状況を把握できず、その場に留まっていた。
歩くどころか、体勢を変えることすら出来ない大地震。
その大地震もやがて収まり、辺りに静寂が戻った。
一番に動いたのは、獣人君だった。
ルーブ君の下から素早く這い出ると、そのまま扉のそばで倒れている男に向かって走り出す。
銃声が響いた。
ぱあん、とあっけないほどに乾いた音をたてて。
そして、獣人君はその場に倒れこんだ。
肩で息をしながら男が立ち上がった。
「あまり邪魔をすると、こういう結果になるんだ・・・。
もういい、みんな死ね。」
そういいながら銃口を再びこちらに向ける。
顔には明らかに苛立ちの表情が浮かんでいる。
彼はキれている。
そして二発目の銃声が響いた。
ゆっくりと、男がその場に崩れ落ちる。
その後ろから現れたのはいつもの見慣れた姿。
「先輩!」
「トラ・・・お前なにしてんだ。」
あきれた顔でこちらを見ている。
握りこぶしをしているところを見ると、どうやら先輩が男の後頭部を殴りつけたらしい。
足元でぐったりしている男を跨いでこちらにやってきた。
「できれば状況を説明してほしいんだが?」
疲れた表情を見せながら僕の腕を取り引き起こす。
その視線は気絶している男だけでなくルーブ君や獣人君にも向けられていた。
「そうだ、獣人君!」
先輩の言葉を無視して僕は獣人君の元に走りよる。
抱き起こしてみると右肩から流血しているが、命に別状はないらしい。
苦しそうな表情で、小さくうめいているがとにかく無事であればよいだろう。
僕はハンカチを取り出そうとポケットに手を入れた。
指に当たる硬いもの。
そう言えば、今朝ディスクを預かったことを思い出した。
だが今はそれよりも止血だ。
僕はハンカチを取り出すと獣人君の肩を縛り、止血をした。
獣人君の出血が弱まってきたのを確認して、先輩に向き直る。
僕は手短に、今までのことを説明した。
「簡単に言ってくれるな・・・。
虎獣人を起こせ、と言われても今までそう上手くいった試しはないんだぞ。」
二人とも救う方法。
それは今すぐ虎獣人の彼を目覚めさせることだ。
そうしなければ『彼女』はそう長くはもたない。
「先輩なら、なんとかできるでしょう?」
僕の言葉に先輩はしかめっ面を見せる。
「出来ないこともないんだが・・・。俺に何か届いてないか?」
その言葉に僕はポケットに入れっぱなしだったディスクを取り出した。
「これ・・・ですか?」
ついさっきまで存在自体をすっかり忘れていたディスク。
これが役に立つというのだろうか。
「お、あるじゃねえか。これさえあれば、なんとかなるかもしれねえぞ。」
そう言って先輩はニヤリと笑う。
「本当ですか・・・。ロックは、助かるんですか。」
ルーブ君に肩をかりて獣人君が僕の後ろに立っていた。
「ロックって・・・あの虎獣人だろ。
このディスクが本物ならなんとかなるはずだ。」
そういってコンピューターを立ち上げ、ディスクを本体に差し込む。
「先輩、そのディスクは一体・・・。」
「話では、捕らわれる条件の一部がわかったらしい。」
そういいながら先輩は画面から目をそらすことなくキーボードを叩きつづける。
ディスプレイに次々と表示される情報は僕やルーブ君たちには到底理解できないスピードで上へ上へと流れていく。
地面が小さく揺れた。
まだ余震が残っているらしい。
あれほど大きな地震だったのだ、余震だからといってバカにはできない。
「こんな単純なことだったのか・・・。」
キーボードを叩く手を止め、先輩は呆然と呟いた。
「トラ、お前『彼女』に捕らわれた奴を何人知ってる?」
ディスプレイを睨んだまま先輩はそう呟いた。
突然の質問に僕は驚きながらも記憶を探る。
「2人か3人・・・。」
「そうだな、たぶん俺もそんなもんだ。
その中に、女はいたか?」
女・・・?
僕が知る限りは全員男性・・・って・・・。
「まさか・・・?」
「そうだ、『彼女』に捕らわれる奴の条件の一つは『男であること』。
つまり、女であれば捕らわれることはないんだな。」
「でもそれがわかったからってどうやって助けるんですか?
事実彼は男です。まさか性転換させるわけにもいかないし・・・。」
ポッドに浮いている虎獣人をちらりと見る。
その股間には信じられないほど逞しい性器がぶら下がっていた。
「変えてやろうじゃないか、女性に。
最も、体を変える必要はないだろう。
『彼女』が捕らえる時の基準にしている部分を女性化させればいいんだ。
わかるな?」
僕は首を横に振った。
彼女と波長が合えば捕らえられる、ということは波長をずらせばいいんだろうけど。
その波長ってのがよくわからない。
「あったろう?変わってないはずなのに変わってるものが。」
「・・・?
あ!脳波!?」
そう言えば彼の脳波を測定して作った擬似性格プログラムが、現在の脳波と適合しないという話だった。
つまり・・・。
「外から電気刺激を加えて脳の活性状態を微妙に変えてやろう。
それが女性的になれば・・・うまくいけば」
「助かるんですね!」
後ろから獣人君が身を乗り出して叫んだ。
話の内容がわからなくとも彼を助けられそうなところはわかったんだろう。
「助かる。
もっともそれには女性の脳波のサンプルデータがいるんだが。」
聞きなれない言葉に獣人君は眉間に皺を寄せる。
「要するに、女性の協力が要るってことだよ。」
僕がそう説明すると獣人君はがっくりと肩を下ろす。
「女性なら、誰でもいいんですね・・・。
今からでも、探してきます。
すぐに見つけますから、待っててください。」
そう言って走り出そうとする彼を僕は押しとどめた。
「先輩、僕の脳派でいいんですか?」
「ああ。」
そう言って先輩はどこからか先がシール状になっている電極を引っ張り出し、
僕の額に一枚ずつずれないように丁寧に張り始めた。
「サンプルを取るほうには全く危険はないからな。
リラックスしててくれ。」
僕は小さく頷いた。
「トラさんって・・・女性だったんですか・・・。」
ルーブ君の呆然とした声が聞こえる。
「ああ、本名は虎姫。あれでも列記とした女だよ。」
先輩の声が聞こえた。
あれでも、ってどう言う意味だ・・・。
湧き上がりそうになる怒りを抑えつつ僕はルーブ君に話し掛けた。
「全然気づかなかった?」
「・・・すいません。」
肩を落とす。
「ま、僕はしゃべり方も男っぽいし、よく間違えられるよ。」
「胸もないしな。」
「うるさいっ!」
先輩の茶々に大声で文句を言いながらサングラスを投げつける。
すこし緊張がほぐれた気もする。
「いくぞ。」
先輩の言葉に僕は目を閉じて応えた。
僕自身はすることはないが、やはり緊張する。
先輩がキーボードを叩く音と、電子音が部屋に響く。
「ロック!」
獣人君の叫び声が聞こえた。
目を開け、ゆっくり振り向くとポッドの中で虎獣人は目を開いていた。
あっけないほどに虎獣人が目を覚ました。
先輩の手が一旦止まり、再びキーボードを叩く音。
そして、虎獣人が入ったポッドがゆっくりと開いた。
中に充満していた液体が流れ出す。
「ロック、ロック!」
獣人君が彼のもとに走りよる。
意識がはっきりしないのか、彼はぼんやりと獣人君の顔を見つめた後ゆっくりと彼を抱きしめた。
続いて、もう一つのポッドが開かれる。
「イスズ!」
今度はルーブ君の番だ。
『彼女』がポッドから解放され、ゆっくりとその場に崩れ落ちる。
ルーブ君は急いで駆け寄り、彼女を抱きとめた。
「イスズ・・・やっと、やっと会えた・・・。」
彼の目には涙が浮かんでいる。
「これで一軒落着、なんですかね?」
僕は額に貼った電極を外しながら先輩の傍に歩み寄りそう言った。
思わず笑みがこぼれてしまう。
だが対照的に、先輩は渋い顔をしていた。
「まあ、確かに二人とも目的達成はしたんだろうが・・・。」
そこで先輩は一区切りおいてこちらを見る。
「無事にここから出られると思うか?」
・・・。
そう言えば、僕達だって上司に思い切り逆らってしまった。
「逃げないとまずいですかね・・・?」
「だろうな。」
そう言って先輩はキーボードを乱暴に叩くと部屋中のコンピューターの電源を落とした。
部屋中の電源がおち、暗くなったことで再会を喜び合っていた四人もこちらに気がついたらしい。
「逃げよう。」
僕の言葉に全員が頷いた。
「いたぞ!」
「あっちだ!」
部屋を出てすぐ、僕達は見つかった。
まあ当然といえば当然だ。
裸の獣人に同じく裸の背中から翼を生やした人間。
見慣れぬ獣人二人に、制服を着崩した人間二人。
これで目立たないほうがどうかしている。
一応上司は僕や先輩のネクタイを使って縛ってきたからすぐにばれることはないと思うけど。
侵入者というだけで拘束される恐れは十分にある。
とにかく捕まらないように僕達はがむしゃらに走りつづけた。
やがてたどり着いたある一室に僕達は隠れるように飛び込んだ。
赤い扉が並ぶ中で、唯一つ見つけた青い扉。
僕も先輩も見たことのなかったその扉の中はバカみたいに広かった。
やたらと柔らかい絨毯が敷き詰められ、立派な机がおいてある。
「ここは・・・。」
「アイツの部屋なんだろうな。」
先輩が憎憎しげに言う。
まあ確かに、いくら最高責任者の部屋とはいえ僕達の部屋の
軽く十倍以上はある。
何時も部屋の狭さに辟易していた立場から考えるとかなり豪勢な部屋では会った。
そんな事を考えながらも僕達は急いで部屋の中を見まわす。
なんとか退路を見つけたいところだけど。
「あ、アレ・・・。」
獣人君(ディラックというらしい)が部屋の一角を指差す。
そこにはひっそりと扉がつけられていた。
僕達は柔らかい絨毯に足音を気にすることもなくその扉に殺到する。
扉の向うはベッドルームだった。
やたらと大きなベッドだけが部屋の真中に置かれている。
そして、壁には窓。
「窓だっ。」
ルーブ君が窓に駆け寄った。
僕達も一瞬遅れて彼の後ろに駆け寄る。
「あ・・・。」
思わず僕の口から声が漏れた。
窓の下は断崖絶壁。
とてもじゃないが降りられるような高さじゃなかった。
その時、再び僕達を大きな縦揺れが襲った。
「わっわっわっ。」
ルーブ君が慌ててその場にこける。
彼以外はなんとかその場に留まり、揺れをやり過ごした。
天井からパラパラとコンクリートの欠片が降って来る。
「ここ、やばいんじゃないか・・・。」
先輩がポツリと呟いた。
「やばいって・・・どういうことです?」
「この施設、崖に埋め込まれてるだろ?地震で崖が崩れたりしようもんなら・・・。」
先輩の言葉に皆が青ざめた。
皆が、最悪の事態を想像した。
つまり、崖ごと海へまっ逆さま。
そんな自体になったらまず間違いなく溺れ死ぬだろう。
建物はいつ崩れてもおかしくない。
外に出れば拘束されることは必死。
そんな状況でどうするか。
皆の視線が、一点に注がれた。
「ディラック。」
傷だらけの虎獣人、ロックが小さな声で呟いた。
ディラック君はその言葉にゆっくりと彼を見上げる。
「俺は、許されるような事をしたとは思っていない。
だから、お前がここまで来てくれるなんて思いもしなかった。」
そこで一息ついて、彼はディラック君を見つめた。
「ロック・・・。
いいよ、もうあの時事は。
一緒に帰れれば・・・一緒にこのまま生きていければ・・・。」
ディラック君もこらえきれずとうとう涙を流す。
「お前を守ることが、せめてもの罪滅ぼしだ。」
そう言って彼を優しく抱き上げると窓を開いた。
「ディラック、跳ぼう。」
「イスズ窓から逃げよう。羽根があるんだから、そのまま・・・。」
ルーブ君の言葉に彼女は首を横に振った。
「私の翼は風を捕らえることなどできぬ。
夢の中でしか働かぬただの飾りよ。」
イスズはうつむいたまま弱々しく言った。
「でも・・・でもせっかく会えたんだ!
このままここが崩れるのを待ってるわけにはいかないよ!」
ルーブ君は臆することなく正面から真っ直ぐにイスズを見つめる。
イスズは視線をそらし悲しげな表情のまま何も言わなかった。
「夢の中で働いていたなら、きっと現実でも飛べる。
信じよう。
・・・もう、行くしかないんだから。」
ルーブ君の言葉にイスズはゆっくりと顔を上げる。
「私を、信じるというのか。
一度も飛んだことなどない、風の読み方も知らぬこの私を。」
それでも、ルーブ君は大きく頷いた。
「イスズ、飛ぼう。」
先輩はその場でスーツのジャケットを脱ぐとそれを投げ捨てた。
「トラ・・・。」
僕は何も応えず、そのまま立ち尽くした。
「お前の命、預けてくれねえか。
絶対に守りきる自身なんてあるわけじゃない。
それでも・・・お前がいたほうが俺は・・・」
「もし。」
先輩の言葉をさえぎって僕は口を開いた。
「もし死んだら、化けて出ますからね。」
笑いながら、僕は振り返った。
先輩は一瞬あっけに取られた表情を見せたが、すぐににやりとしたいつもの笑顔を返す。
「そん時は俺も死んでるよ。」
そういいながら先輩は僕の方を抱き寄せ、窓の下を覗き込んだ。
「トラ、跳ぶぞ。」
そして。
僕達6人は窓の外へと身を躍らせた。
全身を叩きつけるような痛み。
耳がすぐ水に覆われてしまったのか、あまりにも大きすぎて聞こえなかったのか。
僕の耳に音は届かなかった。
覚悟はしていたものの、深い水の中に放り込まれ上下もわからずパニックになりかけた僕を
大きな手がそっと包み込んでくれる。
僕は思い切ってその手に自分を預けると、導かれるままに進んでいった。
「ぷはぁっ!」
突然僕の鼻と口に空気が流れ込んできた。
僕は必死でそれを吸い込む。
「し、死ぬかと思った・・・。」
かなりの高さから落ちたが、意外となんとかなるものである。
「みんなは・・・。」
先ほどから僕を抱きしめてくれている先輩と、僕達に送れてあがってきたロックにディラック君。
「残りの二人は?」
荒い息をしながら聞いて来たディラック君に促されるように、
海中を覗こうと大きく息を吸い込む僕の上を大きな影が通り過ぎていく。
上を見上げると、大きな翼が風を受けて空を飛んでいた。
「凄いよ、イスズ!飛んでるんだ!」
彼女に抱きかかえられるようにしてルーブ君がぶら下がっている。
彼女は確かに空を飛んでいた。
「・・・先輩。」
「ん?」
僕は空を飛ぶイスズの姿を見ながら呟いた。
「今度こそ、一件落着ですよね。」
「・・・・・・・・・無事に陸に上がれればな。」
その後、イスズがそのまま空を飛び近くの漁師を呼んできてくれた。
漁師は僕達を見て驚いていたけれど、一番驚いたのは崖崩れだろう。
結局あの後、僕達の施設があった崖は丸ごと海中へと沈んでいった。
どれだけの人が巻き込まれ、どれだけの人が脱出していたのかはわからない。
しかし、あそこまで壊滅すれば僕達に追っ手が差し向けられることもないだろう。
「これからどうするの?」
僕の問いに皆は顔を見合わせた。
「私には行くところなどない。このまま・・・」
「あるよ、行かなきゃならないところが!」
イスズの小さな呟きをルーブ君がさえぎった。
イスズは不思議そうな顔をして彼の顔を見る。
「シン・・・じゃない、アッシュはずっとイスズのこと探してたんだ。
少し前に、亡くなってしまったけど・・・ずっとイスズのことを探していたんだ。」
そう言って彼はうつむいた。
「そうか・・・。アッシュは私のことを忘れてはおらなんだか・・・。」
ルーブ君は涙を拭いながら必死で頷く。
「だから・・・せめて・・・お墓まいり、してあげよう。」
涙を必死にこらえながらルーブ君はそう言った。
イスズはゆっくりと頷くと子供をあやすように彼を抱きしめた。
「キミ達はどうするんだ?」
先輩の促しにロックとディラック君は顔を見合わせた。
ロックは少し困ったような顔をしている。
「どこへでも。ロックが望むのなら僕はどこでも付いていくから。」
そう言ってディラック君は飛び切りの笑顔でロックを見上げた。
ロックは思わず赤面して視線をそらす。
「そうだな・・・。」
照れ隠しにロックはあさっての方向を向いたまま後頭部をぼりぼりとかく。
ディラック君はロックが口を開くのをいつまでも待つようだ。
「どこか・・・山の方で人の少ないところで・・・二人で暮らそうか。」
これまでにないほど照れながら、ロックは小さな声で、途切れ途切れにそう言った。
「うん!」
ディラック君はロックの背中に飛びつくようにして抱きつきながら大きな声でそう言った。
そして。
四人の視線は僕達二人に集まる。
「まあ・・・その・・・俺は適当な街で仕事と、住む所を探すところからはじめるつもりだが。」
口篭もるようにして先輩はそう言った。
「ちょっと待ってくださいよ、先輩。
僕はどうするんですか?
先輩には、まだ僕の命預けっぱなしなんですからね?」
「は?」
僕の言葉に先輩が理解できない、といった顔でこちらを見ている。
「いったでしょう、『命預けてくれないか』って。」
先輩の眉間によった皺を指で揉み解しながらそう言ってやった。
「バカやろう、あんなの嘘だ、冗談だ、言葉の綾だ!
誰がお前の命なんかいるか!」
先輩は顔を真っ赤にしながらそう叫んだ。
真意はわかっていてもやっぱり腹が立つ。
「あ、ひどい!
こっちは先輩の言葉を信じて預けたんですよ!
たとえ言葉の綾でも責任は取ってもらいますからね!」
先輩に負けないくらいの勢いで僕は言い返す。
その言葉にルーブ君がポツリと呟いた。
「それって・・・結婚?」
改めて指摘され、僕は思わず先輩と顔を見合わせる。
先輩の顔がみるみる赤くなる。
そして、それをも上回るスピードで自分の顔が赤くなっているのもわかった。
「〜〜〜!」
言葉も出さずに僕と先輩は顔をそらせる。
『違うッ!!』
僕と先輩の言葉が見事にハモる。
僕達をさわやかな笑いが包み込んだ。
完