もしも願いが叶うなら




「ねーねー、一つだけお願い事が叶うなら何にするー?」
「お金!お金ほしい!百万円!」
 小学生か、中学生か。
女の子の集団がそんなことを話しながら俺の横を通り過ぎていった。
そういえば俺も子供の頃に友達とそんな話をしていた気がする。
はっきり覚えているわけじゃないが子供の話だ、大抵は大金が欲しいとか世界が欲しいとか非現実な話だった気がする。
もちろん「願いが叶うとしたら」という前提自体が非現実なのだから回答がそうなるのはある程度しょうがない。
それでも、だ。
『おまえさー、いい加減決めちまえよー。』
 そういう「もし」が現実になった身としてはそうも言っていられなかった。





「うるせえな、そうそうあるわけないだろ?」
 俺は周りのヒトに聞こえないように気をつけて呟いた。
俺の右後方にぷかぷかと浮いた、小さいオヤジ顔の悪魔が不満そうに頬を膨らませる。
…気持ち悪い表情だな。
自慢なのか、ひょろりと生えたドジョウヒゲを撫でながら悪魔は考えた表情を見せた。
『・・・お金とか?』
「そりゃさっきの子供の話だろうが!」
 俺のツッコミに周囲のヒト達がいっせいに振り向く。
この悪魔の言うことが本当ならば、コイツの姿は俺にしか見えていない。
はたから見れば俺が一人で騒ぎ出したように見えるだろう。
俺は軽く咳払いをして、大慌てでその場を離れた。
ごまかせた気はしないが、とりあえず痛い視線を感じなくなったのでよしとしよう。
「とにかく、悪魔にタマシイ売ってまでかなえて欲しい願いなんかねーの。」
 その言葉に悪魔は顔をしかめた。
どうやらコイツは俺の願いを叶えないと魔界だかなんだかに帰れないらしい。
俺としては知ったこっちゃないんだが、ずっとついてくるのは鬱陶しい。
なにか、追っ払ういい方法はないかなあ…。
とはいえ下手なこと命令したらそれを願いとして、タマシイもっていきそうだし。
ひょっとして一生付き合うことになるんだろうか。
冗談じゃない。
俺が一生付き合っていいと思うのはただ一人。
この間付き合いだした最愛の彼氏。
…まあ付き合うたびにそう思ってるわけだから、もう何人も居たんだけど。
「いいか、デート中は話しかけるなよ。」
 念のためにと思い、俺は悪魔に釘をさした。
これから待ち合わせしてデートだっていうのに、合間に話しかけられたらたまったもんじゃない。
『それ、願いか!』
「ちがうわ!」
 悪魔の言葉に再びツッコミを入れる俺。
最近はなんだかこんなやり取りばかりしている気がする。
まったく、頭が痛い。
 そうこうしている間にも、俺は待ち合わせの場所に近づいていた。
足を止めて、横にあったショーウィンドウに姿を映してみる。
 寝癖もない、服もお気に入りのジーンズでばっちり決めてある。
ポケットにはプレゼントもしっかり用意した。
完璧だ。
俺はガラスに向かって頷くと改めて歩き出した。
『自分に頷くといいことあるのか?』
 そういいながら悪魔が俺の真似をして鏡にむかってぶんぶん首をふっていた。
こいつ、わかってるのかわかってないのか。
とりあえずムカツク。
首の一つでも絞めてやりたいが、触ることはできないんだよな。
こういう場合は無視するに限る。
『なんだ、ツッコミなしかよ。』
 やっぱわかっててやってるのかよ!
思わずツッコミそうになるが、もう待ち合わせまで時間がない。
時間に正確なあいつのことだ、既に待ち合わせ場所に立っているだろう。
少し早足で待ち合わせ場所へと急ぐ。
 曲がり角を曲がると、待ち合わせの時計が見えた。
だがその下にあいつの姿はない。
ふと視線を横にずらした。
人だかりと救急車。
交通事故だろうか。
俺は恐る恐るその人だかりへと近づく。
いつだったか読んだ漫画にこんなシーンがあった気がする。
俺は脳裏によぎる嫌なイメージを、頭を振ることで追い払った。
それでも体は人ごみを掻き分け、その中央へと歩み寄っていく。

 信じたくなかった。
それでも目の前に広がる血の海と、その中央に倒れるあいつの姿をみたら信じないわけには行かなかった。
世界が止まった気がした。
見慣れたあいつの笑顔が、真っ赤に染まって見る影もない。
いつも元気そうに動いている手が、ぐったりとして垂れ下がっている。
俺は倒れるようにして駆け寄っていた。
誰かが俺を押しとどめようとする。
何か喋っているようだが、その声はまったく聞こえない。
ただあいつの元に行きたかった、行って抱きしめてやりたかった。
「トオルーッ!」
 自分の叫びで、耳が麻痺しそうだった。
押しとどめられるのを必死で潜り抜け、あいつの手を握り締めた。
なんの反応も返さない。
力を抜くと、俺の手からするりとあいつの手が滑り落ちた。
そこには何の意志もない。
「嘘だッ!」
 必死で俺はトオルを抱き起こそうとする。
だが今度こそ、俺は押さえ込まれた。
「動かしちゃダメだ!」
 救急隊員が叫ぶ。
そんなことはわかっている。
いや、わかっていないのか。
もう自分がわからない。
ただ、トオルの傍にいてやりたかった。
トオルがストレッチャーに乗せられ、救急車の中に連れ去られる。
慌てて俺はそれを追いかけた。
中では救急隊員が慌しくトオルに管をつなげていっている。
俺はそれを呆然と見つめていた。
『こりゃあ助からねえなあ。』
 そんな声が聞こえた。
振り向けば、悪魔がこちらをのぞきこんでいる。
いつものようにのんびりとドジョウヒゲをいじるその姿に、俺は思わず殴りかかった。
悪魔をすり抜けた俺の手は、そのまま救急車の壁を殴る。
その音に一瞬救急隊員は振り向くが、すぐにトオルの方へと向き直った。
「なんとかならねえのかよ…。」
『なるさ。』
 それはまさに悪魔のささやきだった。




『どんな願いでも叶えてやる。
ただし、それには相応の対価というものが必要だ。』
 悪魔がゆったりとした口調で言う。
初めてコイツに会ったときに言っていた言葉だ。
『お前は勝手に魂だなんて決め付けてたが、別に魂じゃなくてもかまわない。
俺が望むのは、「お前の一番大切なモノ」だ。
今お前が心に描いている一番大切なモノを俺はもらう。
それで、あの男を助けてやるよ。』
 そう言いながら悪魔はちらりとトオルを見る。
つられてみれば、先ほどよりも白くなったトオルの顔。
本当に、このままでは危ないのだろうか。
心なしか隊員たちの顔にも焦りが見える気がした。
『さあ、どうする?』
 悪魔が俺の顔を覗き込んできた。
俺はその顔を正面からにらみつける。
「本当に…本当に助かるんだろうな!」
 俺の言葉に悪魔はニヤリと笑い、大きく頷いた。
悪魔から視線を外し、俺はトオルを振り返る。
「なんとかするよ。」
 先ほどの俺の叫びを自分たちに向けられたと思った隊員が、こちらを振り向かずに返事をした。
だがトオルの顔からはどんどん生気がなくなり、逆に隊員の顔は焦りの色が濃くなっている。
その姿をみて、俺は強く拳を握り締めた。
「心臓マッサージ!」
 隊員の叫びが響いた。
トオルが助かるのなら、何を失おうとかまわない。
「あいつを助けてくれ!
俺の大切なものならなんだってやる!」
『心得た!』
 意を決した俺の叫びに、悪魔が嬉しそうに答えた。






 ベッドの上で、あいつが体を起こして弱々しく笑う。
「なんとか、九死に一生を得たよ。
一度は心臓が止まったそうだけど、なんとか息を吹き返したらしくて。」
 笑い事じゃないだろう。
そう言ってやりたかった。
だがそれは俺の役目じゃない。
「おいおい、笑い事じゃないだろう。」
 そういって『俺』がトオルの頭を撫でる。
迷惑そうなふりをしながらも、トオルの顔は笑っていた。
胸が痛む。
その笑顔は、俺だけに向けられるはずだったものだから。
「ヒロキくんもありがとうね。
救急車で付き添ってくれたんだって?」
 その言葉に俺はハッとなった。
ヒロキは、今の俺の名前だ。
「あ、ああ…。」
 俺の方をみて『俺』が笑う。
それはトオルの彼氏であるカズキ。
本来なら、そこに居るのは俺であるはずだった。

 願いは叶えられた。
『トオルを助けて欲しい。』
その言葉どおりにトオルは目を覚ました。
だが代わりに失ったものはあまりにも大きい。
対価として支払ったものは、「俺の立場」。
周りの皆が、俺を俺として認めない。
俺は以前の「カズキ」でなく、その弟の「ヒロキ」として扱われていた。
両親も、友人も、そして目覚めたトオルですらも俺を「ヒロキ」としてみていた。
 そして本来俺が居るはずの場所に、もう一人の『俺』がいる。
悪魔云々に関する記憶がないことを除いて、ほぼ俺のコピーらしい。
今もトオルと2人で手をつなぎながらこちらを見ている。

 どうしようもなく悔しかった。
その手を握るのは俺の役目だ。
その隣の椅子は俺の場所だ。
なのに、そこには違う『俺』が座っている。
名前も顔も声も、そいつを構成する要素は間違いなく『俺』だ。
でも、それは俺じゃない。
俺は間違いなくここに居るから、トオルの隣に居るのはやはり別人なのだ。
 記憶を訂正してやろうかとも思った。
だがそれは悪魔に止められた。
『大切なものを取り戻すのなら、願いも無に返る。』
 悪魔はそういって消えた。
俺が『俺』を取り戻すのは、つまりトオルの死を意味する。
トオルの笑顔が見たいのなら俺はこのままでいるしかないのだ。

「退院したら改めてどっか行こうぜ。」
 そういって『俺』であるカズキが笑う。
その言葉にトオルは笑顔で頷いた。
「しばらく無理は出来ないだろうし。
そうだね、ゆっくりできるところがいいかな。」
 2人ですすめられるデートの計画に、俺はいたたまれなくなって席を立った。
椅子が床を引っかく音に、2人の視線がこちらに集まる。
「あ、その…。
俺、先に帰るわ。」
 その言葉にトオルは優しい笑顔を向ける。
「うん、わざわざお見舞いありがとう。」
 トオルは間違いなく俺を見ていた。
恋人ではなくなってしまったかもしれない。
もう俺の思いは届かないのかもしれない。
それでもその笑顔は俺だけに向けられたものだと思えば、俺は少し勇気がわいた。
「おう、帰れ帰れ。
恋人同士が居るときは遠慮するもんだ。」
 そういってカズキが俺を追い払うように手を振る。
俺は不満そうに鼻をならして病室を出た。
後ろ手に扉を閉め、俺はその場から立ち去ろうとする。
見えてしまった。
小さく開いた扉の隙間から。
2人がキスする瞬間が、確かに見えた。





 それから数日、ほとんど俺はベッドの中ですごした。
まともに歩くこともせず、一日に一度腹が減ったら冷蔵庫まではいずるように歩いて、適当なものをかじる。
仕事も新しい『俺』に奪われた以上俺にはすることがない。
そんな怠惰な生活でもなんら支障はなかった。
強いて言うなら、毎日のように母親がうるさかったくらいだろうか。
それでも俺は腐ったような日々をすごしていた。

「おふくろー。」
 そんな日々を打ち破ったのは、カズキの能天気な声。
隣の、カズキの部屋の前で2人が話しているのが聞こえてきた。
「トオルのことなんだけどさー。」
 トオルは付き合う前からちょくちょく俺の家に来ていた。
何度も泊まったことがあるから、もちろん母親とも顔見知りだ。
入院したと聞いたときには母親もずいぶんと心配そうにしていたものだ。
「結構早く退院できるみたいなんだけどさ、一人暮らしだろ?
しばらくうちで面倒みようかと思うんだけど。」
 俺は一瞬気が遠くなった。
トオルがうちに来る…。
毎日トオルの顔が見れるのはいい。
問題は、その横に常にカズキがいることだ。
今にも飛び出して反対したかった。
だがその前に母は答えていた。
「ああ、もちろんいいよ。
病み上がりで一人は何かと大変だからねえ…。」
 母親のヒトの良さそうな声が今ほど呪わしく思えたときはない。
今から飛び出していって、反対することもできる。
だがそれはトオルを一人で放り出すということだ。
それに…それにトオルは間違いなく『カズキ』に惚れている。
それを邪魔するのは、あいつが悲しむことになる。
あいつが泣いているところだけは、見たくない。
俺は血が出るほど強く唇をかみ締めた。
涙がこぼれそうだった。
それでも「その方がトオルが幸せなんだ」と必死で自分に言い聞かせて、耐える。
それしか道はないんだから。
そう決意すると俺は立ち上がった。
トオルは優しい奴だ。
俺がこんな生活をしていたらきっと心配する。
重い体にムチを打って、俺は荒れに荒れた部屋を片付け始めた。
笑って迎えてあげよう。
あいつが心から安心できるように。
それには、俺が腐ってちゃダメだ。
頑張らなくちゃいけない。



「おかえり。」
 そう言って俺は笑顔を浮かべた。
誰も見ていないところで必死に練習した。
何があっても笑っていられるように、鏡を見て何度も練習した。
その甲斐あってか、トオルの顔をみても俺は笑顔を浮かべていられたようだ。
トオルと、隣に付き添ったカズキが安心した笑みを浮かべる。
「ただいま。」
 杖をつきながらトオルは家に入ってきた。
上がり框を上る際に、俺は手を差し出す。
トオルは自然にその手を握って、ゆっくりとした足取りで上がってくる。
「ありがと。」
 そう言ってトオルがすれ違いざまに俺の頭を優しく叩いた。
思わず俺の動きが止まる。
それはトオルのクセだった。
同い年のトオルが年上ぶりたいときに見せる動き。
そして俺はそれが好きだった。
「どした?」
 俺の顔をカズキが覗き込んでくる。
慌てて俺は笑顔を作り直した。
「いや、けっこう大変そうだなって思って。」
 そういいながら俺はトオルを振り返った。
勝手知ったる他人の家とはこのことだ。
トオルは迷うことなくカズキの部屋へと向かっている。
慌ててカズキが俺の隣を走りぬけ、トオルの隣についた。
2人で肩を組みながらゆっくりと階段を上っていく。
「あ、ヒロキ。
おふくろ帰ってきたら教えてくれ。」
 ちらりとこちらを振り返ってカズキがそういった。
返事をする前に、2人は階段を上っていく。
俺はただ黙ってその背中を見つめることしかできなかった。
肩を組んで歩くその姿は、2人で生きていく姿に見えたから。

 …なら、それでいい。
俺はきっとトオルを幸せにする。
『俺』といて幸せになるのなら、俺はそれを応援しよう。
トオルが俺を見なくても、俺はきっとトオルを守ろう。





 その日の夜、俺はカズキの部屋を覗いて思わずため息をついていた。
騒がしいと思ったら、二人で宴会をしていたらしい。
小さい机の上にはすでに空いた缶がいくつも並んでいる。
「お前なあ…けが人に飲ますなよ。」
「うぇあー?」
 俺の呟きにカズキが意味不明な言葉を返す。
すっかり出来上がってしまっているらしい。
まったく、俺はこんなに情けなくないつもりなんだがな。
「まあまあ、退院祝いだよ。
ほら、ヒロキくんも。」
 そういってトオルが俺に缶ビールを差し出した。
思わず俺はそれを受け取る。
そういや、こいつも酒好きなんだよな…。
トオルに誘われて断れるはずもない。
俺はその場に腰を下ろすと、ため息をついてプルタブをあけた。
プシュッ、と小さな爆発が手元で起こる。
あけたばかりの缶から白い気体が舞うのが見えた。
俺はそれに口をつけ、少量を胃の中に流し込む。
アルコールなんか微塵も感じない。
これは酔えそうもないな。
「そおいやよおお。」
 カズキがでれでれした顔でトオルにもたれかかった。
思わず俺はむっとするが、トオルは気にした様子もない。
まあ恋人同士なら当然か。
「お前と初めて会ってのって、いつだっけえ?」
 え?
俺は耳を疑った。
この『カズキ』は俺のコピーのはずだ。
おそらく記憶だって同じものを持っていることだろう。
だとしたら今の質問はおかしい。
俺は、2人の出会いを覚えているんだから――――。
「えーと…どこだっけなあ…。
事故からこっちどうにも思い出せないことがいくつかあって…。」
 そういってトオルは頭を抱える。
トオルはそういうことを忘れる奴じゃない。
ということは、本人が言ったとおり事故のショックで記憶が飛んでいるんだろう。
実際そういうところは俺との関係以外にも、いくつか見受けられた。
「んーーー。
ま、いいかあ。」
 そういってカズキは笑った。
トオルも釣られるようにして微笑む。
カズキの腕が、トオルの首に絡みついた。
2人の顔が一瞬で近づく。
俺は思わず目をそらした。
その続きが容易に想像できたからだ。
いまだに脳裏に焼きついている、病院でみたあの瞬間が。
今、目の前で再現されていた。
「ごめんごめん。」
 そういってトオルが笑う。
視線を戻せば、幸せそうに笑うトオルとその胸にしなだれかかるカズキの姿があった。
俺は無理やり顔をゆがめて、困ったような笑みを浮かべてみせる。
そこで会話は途切れた。
既に酔ったカズキはむにゃむにゃ呟きながらトオルの膝の上に頭をおいて、半分眠りに入っている。
トオルは優しい顔でそれを見下ろしながら頭を撫でていた。
俺は所在無げに手にしていたビールをあおる。
ほとんど残っていたビールを一気に胃の中に流し込んで俺は立ち上がった。
「俺、明日早いから寝るよ。」
 そういった俺の言葉でようやく気付いたようにトオルは顔を上げた。
そこにあるのは他人に向ける優しい微笑み。
「ああ、うん。
ごめんね。」
 謝るなよ。
その言葉を飲み込んで俺は背を向けた。
何も言わずにカズキの部屋を出る。
きっと今喋れば、声が震えているのがばれてしまう。
俺は逃げるようにして自分の部屋へと駆け込んだ。






 翌朝。
なんとか笑顔を作れるようになったことを確認して、俺はベッドから立ち上がる。
さすがにいきなりこの状況になれるってのは無理だ。
それでもトオルの幸せのためには、俺が応援しないとな。
なんとか自分に言い聞かせ、俺は扉をあけた。
部屋を出ようとして、目の前に驚いた顔のトオルが居ることに気付く。
「うお。」
 思わず声が出た。
「あ、おはよう。」
 その声で気がついたようにトオルが挨拶する。
驚いた表情も消え、いつもの笑顔だ。
それに俺も笑顔で答える。
トオルの笑顔が見れるのは、素直に嬉しい。
「ヒロキくんは今日暇?」
 笑顔のまま、トオルが尋ねてきた。
思わず俺はどきりとする。
トオルのクセで、どこか遊びに誘うときは必ずまず相手が暇かどうかを尋ねる。
相手の予定を聞いてから誘うのはそう珍しいことでもないけれど、
トオルの場合はわかりやすいほど必ず聞いてくる。
ひょっとして、「一緒にどこかに」なんて話なんだろうか。
「こいつがよ、一緒に映画でもどうかって。」
 突然、隣から声がした。
振り向くまもなく、カズキが俺の視界に入ってくる。
腕をトオルの首に巻きつけ、いかにも仲がいいといわんばかりの行動だ。
俺、こんなことしてたのか…?
「ほら、最近話題の『渡り鳥の故郷』とかいうの。
面白そうだなーって思ってさ。」
 俺は一瞬言葉に詰まる。
また忘れているのか。
まだトオルが元気だった時に、一緒に見に行った映画だ。
『感動した』なんて言って涙まで流してたのに。
そう思いながら、俺はカズキを見た。
「まだ見てなかったんだ?」
 目をカズキに向け、そう問いかけた。
自分に声が向いたのがわかったのか、トオルにもたれていたカズキの頭がこちらに向く。
「おお。」
 短く、それだけ答えた。
覚えていないのか、わざわざ説明していないだけなのか。
俺には判別がつかない。
悪魔がトオルを蘇らせる際に失敗した部分が、俺のコピーにも影響がでているんだろうか?
「んー、俺もうみたからいいや。」
 そういって今度はトオルに笑いかけた。
そうか、と呟いてトオルが残念そうな顔をする。
その表情は、俺と出かけたかったと思っていいのか。
俺が一緒に居ないことが寂しいと、そうとっていいのか。
トオルが残念に思っているはずなのに、俺はその事実だけで胸が温かくなった。
 突然、トオルの腕が伸びて俺を抱き寄せる。
俺もカズキも予想外の出来事に動くことはできなかった。
「ヒロキくん。
何か悩みがあるなら言ってね。
相談にのるから…。」
 トオルは俺を心配してくれていたのだ。
ずっと笑顔を作っているつもりだったけれど、俺を見て様子がおかしいことに気がついていてくれたんだ。
嬉しい。
俺を見て、俺のことを考えてくれることがこんなにも嬉しいなんて。
「うん、ありがとう…。」
 そういって俺は軽くトオルを抱きしめる。
ああ、俺はこの体を知っている。
この体の太さも、耳の後ろの臭いも。
誰よりも俺はこの体を知っている。
俺が手を離すのと同時に、トオルも俺から離れた。
トオルの優しい微笑がそこにはある。

 ずっと自分に言い聞かせていたことだけど、俺はようやく身をもって知った。
この笑顔があれば、頑張れるんだと。






 その日一日、俺はぼんやりと過ごした。
近くの小さな山の中腹にある、こじんまりとした公園。
少し足を伸ばせば大きな公園があるので子供たちも遊びには来ない。
満足な遊具もなく、ただベンチと砂場と古臭い滑り台があるだけ。
そこは誰も訪れない、時が止まったような場所。
俺はここが好きだった。
トオルと初めてあったのも、ここだから。
俺はベンチに座り、柵の向こうに広がる町並みを眺めていた。
 なんとなくポケットに入れていた携帯を手に取り画面を開く。
ボタンを操作して呼び出したのは古いメール。
トオルからの熱いラブメールだ。
それを一通一通読み返す。
次々と脳裏に蘇る思い出。
トオルとすごした日々、トオルの笑顔、トオルの声。
些細なことでも、すべてが思い出せる。
俺は携帯をしまい、目を閉じた。
これからはすべてが俺に向けられるわけじゃない。
むしろ減っていくことだろう。
それでも、俺はきっとトオルを見ていれば生きていける。
トオルが笑ってくれれば俺は幸せになり、
トオルが怒れば俺は悲しむ。
そうやって一喜一憂しながら、俺は彼の幸せを考えて生きていくんだ。
ひょっとしたらいずれ離れることになるかもしれないけれど、それでも。
それでも、一緒にいることができる最後の瞬間まで俺はあいつを大切にしよう。
きっと幸せになってもらおう。

 ずっと考えていた。
同じことばかり繰り返し考えていた気がする。
昔のことに思いを馳せたり、トオルならきっとこういうだろうなんてことを考えたり。
まるで片思いだ。
そう思って笑う頃には、既に日が沈みかけていた。
ああ、もう帰らないとな。
そう思いながらも俺はそこから腰をあげようとはしない。
…タバコでも吸ってみるかなあ。
不意にそんな考えが頭をよぎる。
考え事するときには便利そうだよな。
「綺麗な夕日だね。」
 ああ、ここから見る夕日は…
「え?」
 驚いて振り返ると、すぐ傍にトオルが立っていた。
優しく微笑みながらまっすぐに夕日を見つめている。
まぶしいのか眉間にしわがよっているが、その顔は間違いなく笑顔だった。
どうしてここがわかったんだろう。
初めて会った時のことは覚えていないはずなのに。
「なんとなく、こっちに居る気がしたから。」
 まるで俺の心を読んだようにトオルが呟いた。
俺の肩に手を置いて、そっと隣に腰掛ける。
何を言えばいいんだろうか。
何を言ってもボロがでそうな気がする。

 トオルは一度死んだんだ。
「事故にあってからこっち、いくつか思い出せないことがあるんだよ。」

 だから俺が悪魔に願ったんだ、生き返らせて欲しいって。
記憶に欠損はあったけど、それでもトオルは戻ってきた。
「目が覚めて、カズキに会って、とても安心した。」

 その代わり、俺はもう『カズキ』じゃない。
弟の『ヒロキ』になって、トオルとカズキを見ていなければいけない。
「思い出せないことがあってもカズキは受け止めてくれた。
カズキ自身、昔のことで忘れてることもあったしね。」

 それでも頑張ろうって決めたんだ。
今朝抱きしめてもらって、俺は強さをもらったから。
「でも今朝、君を抱きしめて。
俺が忘れてるのはこれなんじゃないかって思ったんだ。」






 トオルの言葉に俺は何もいえなかった。
肯定するわけにはいかない。
真実を話すことは、トオルが再び死ぬことを意味しているから。
「おかしいんだ。
俺が忘れてることは、カズキはすべて忘れてる気がする。
まるで俺の記憶に合わせたように。」
 ああ、やはりそうなのか。
俺が想像したとおり、あの『カズキ』は俺のコピーじゃなくトオルのコピーなんだ。
どうしてそんな不完全なことしたんだ。
そんなことしたらいずれ気付くに決まってる。
「なあ、俺はひょっとして間違えてるんじゃないのか…?」
 否定できない。
そのことに気付いてくれたことが嬉しいから。
記憶がなくても、別に『俺』が居てもこの俺を選んでくれたことが嬉しいから。
涙がこぼれた。
「やっぱり、そうなのか…?」
 そういってトオルは俺を抱きしめる。
馬鹿野郎。
そんなことしたら、俺は耐えられない。
次から次へと涙が溢れる。
声を必死で抑えて、俺は涙を流し続けた。
「やーっぱりばれちゃったねぇ〜。」
 聞き覚えのある声がした。
驚いてトオルから離れ、辺りを見回す。
すこし離れた滑り台の上から、小さな悪魔が滑り降りてきた。
「きっとこうなると思って、帰らずに見張ってた甲斐があったってもんだ。
いったん帰ったら、また呼び出してもらわないとこっちにこれないからネェ。」
 そういって悪魔はニヤリと笑う。
コイツ…。
「そういうことかよ。」
 俺は悪魔に向かって悪態をつく。
不完全な記憶は、わざと持たせたんだ。
「からくりに気付いて、俺たちが不幸になるのをまってやがったな。」
 思い切りにらみつけてやる。
それでもまったく意に介した風もなく、相変わらずのドジョウヒゲをなでて見せた。
「心外だねえ〜。
まさか記憶が欠損してるなんて思わなかったからサ。」
 どこまで本気で言っているのかわからない。
でもそんなことはどっちでもいい。
問題は、今このタイミングでコイツが現れたことだ。
「まあ長話もなんだしねぇ。
さくっと逝っちゃおうか〜。」
 そういって笑顔で悪魔はヤリを取り出した。
どこに隠し持っていたのか、それは明らかに悪魔の全長より大きい。
「なんなんだ…!?」
 状況がつかめないトオルが困惑していた。
俺はトオルをかばうようにして立つ。
「連れて行かせない。
トオルの笑顔は俺が守るって決めたんだ。」
 正面からまっすぐに悪魔をにらみつけてやる。
それでも意に介した様子もなく、悪魔はこちらにふらふらと近づいてきた。
「んー、じゃあ面倒だから。」
 そう言って、悪魔は俺の胸にヤリを突き刺した。
俺の胸の中心に、硬いものが押し入ってくる。
「なんだ、よけないのか。」
 そういいながら悪魔はヤリを引き抜いた。
俺の胸から血があふれ出す。
「対価として支払ったものがなくなったから…
だから俺の願いが反故になるんだっていうなら。」
 俺は力が抜けそうになる足を踏ん張りながら呟く。
後ろにいるトオルは無事だろうか。
背中まで痛みは走らなかったから、後ろまでは届いていないはずだ。
「あらためて捧げる。
俺の大切な、俺の命だ。」
 その言葉に満足そうに悪魔が笑った。
悔しいが、これは俺とコイツとの契約なんだ。
俺は対価を支払わなければならない。
「わかってるねえ。
じゃあ、先に地獄で待ってるぜえ〜。」
 そう言って悪魔はスッと姿を消した。
地獄に帰ったんだ。
これで何があってもトオルは大丈夫だと俺は確信する。
その瞬間に張り詰めていたものが切れた。
俺は一気にその場に崩れ落ちる。





「カズキッ!」
 トオルが俺を抱きかかえる。
俺をカズキと呼んでくれるのか。
「死ぬな、カズキ!」
 トオルが自分の服を脱いで俺の胸に押し当てる。
止血しようとしてくれているんだろう。
でもわかる、そんなことじゃ無駄だってことが。
「すぐに救急車を…ッ!」
 そう言って人を呼びに行こうとするトオルを俺は必死で引きとめた。
まだ伝えたいことがあるから。
「トオル…ありがとう。
思い出してくれて、俺幸せだ。」
 そういって俺は笑う。
ずいぶんと久しぶりだ、心から笑うのは。
「トオルの笑顔が見れればいいって思ってたけど、やっぱり俺トオルといたかった。
他に誰がいてもいい、でもトオルがいないのだけは耐えられなかった。」
 トオルの目から涙がこぼれるのが見えた。
俺はそれをそっと拭ってやる。
「約束するよ、トオル。
俺がきっとお前の笑顔を守る。
何があってもだ。
だから」
 俺の口から血が溢れた。
咳き込んで言葉が出ない。
それでも俺はトオルの腕をつかみ、トオルを見つめ続けた。
「カズキ…、俺だってお前がいなきゃだめなんだ。
お前の声が聞きたくて、お前に触れたくて。
俺はきっと戻ってきたんだ。
だから、お前が逝ったら意味がない!」
 搾り出すように叫ぶトオル。
俺はその頭をそっと撫でてやった。
「だから、待っててくれ。
きっと戻るから。」
 もうそれ以上言葉にはならなかった。
それでも俺はトオルの手を握り、誓う。






 ここに誓おう。
 何があってもお前を守ると。
 必ず守る。
 この手を離さない。
 そう、



 ――――たとえこの魂が二つに引き裂かれても。








                                              終