誓いの言葉




 黒い空が広がっていた。
そこに、ぽっかりと穴が開いたように存在する青。
俺はその小さな青空を見上げながらタバコの煙を吸い込んだ。
肺の中に空気ではない、異質なものが充満していく。
そういえば、いつからタバコなんか吸うようになったのか。
ため息とともに吐き出される煙が、黒い空へと消えていく。
俺は視線を下げ、青い空からそこへ伸びる塔を眺める。



トコヨミの塔。
俺たち死神の間で、その塔はそう呼ばれていた。
中に何があるのかは知らない。
それは、死者が登るための場所だから。
「う…。」
 俺の足元からうめき声が聞こえた。
ようやく気がついたらしい。
俺は手にしていたタバコを咥え、しゃがみこむ。
「よう。」
 辛そうに目を開ける顔を覗き込み、俺は声をかけた。
突然のことに驚いたのか、それとも俺におびえているのか。
目を覚ましたばかりのそいつは、あわてて俺から距離をとる。
俺はそれを見て、タバコを横に咥えたまま大きくため息をついた。
「別にとって食ったりしねえよ。
目つきが悪いのは認めるけどな。」
 そうぼやきながら俺はそいつの姿を改めて眺めた。
まだ若い―――20代前半といったところだろうか。
どこにでも居そうな平凡な顔立ち、高くも低くもない服装、無難に着こなした特別お洒落でもない服装。
まさに平均的な成人男子。
特徴がないのが特徴になりそうな男だ。
「あの…」
 男が申し訳なさそうに口を開く。
「どちら様、ですか…?」
 自信なさげに発せられた声に、俺は思わず顔をしかめた。
それを見た男がびくり、と体を震わせる。
俺のことがわからないってことは、おそらく自分の状況も把握していないのだろう。
まあ、若者に限って言えば理解しているほうが珍しいが。
「あー…。」
 俺は頭をボリボリかきながら言葉に詰まる。
こういうデリケートな話は苦手なんだよな…。
少し悩んだあと、結局はっきり言うことにした。
どうせ結論は変わらないのだ。
「俺は死神。
あんたは死者。
自分が死んだって、わかってる?」
 俺の言葉に死者は呆然とした表情を浮かべた。
口が開き、目の焦点も合っていない。
相当ショックだったのだろう。
まあ、気がついたら死んでいたのだから当然か。
「なんだ、その…」
「そんな…。」
 慰めの言葉をさがす俺の声を遮って、死者は呟く。
「そんな、そんな!」
 呟きはやがて大きな叫びへと変わり、死者は頭を抱えた。
まあ若いし…色々あるんだろうなあ。
そう思って俺はその場に立ち上がる。
「約束、したのに…っ!」
 すっかり短くなったタバコを捨て、足で踏みつけた。
苦悩なんてものは吐き出してしまえばいい。
すっきりすればいずれ落ち着くだろう。
そう考えながら俺は新しいタバコを取り出し、それに火をつける。
「お願いします!」
 突然死者が俺の脚にすがりついてくる。
予想外の事態に俺は目を見開き、男を見下ろした。
「俺、俺…!」
 いくら待っても、その続きはでてこなかった。
まあ生き返らせてくれといわれても困るんだが。
俺の仕事は死者をあの世に連れて行くことだ。
早々にあきらめてもらわないと困る。
「どうした。」
 俺の言葉に死者はうなだれた。
そろそろ落ち着いてきたのだろうか。
「大切な人が、いるんです。
何があっても守ると誓った、大切な人が。
なのに俺は――――」
 死んでしまった。
男の呟きは今にも消え入りそうだった。
俺は黒い空を見上げる。
死者は過去の記憶にすがる。
だが、それだけだ。
後は死神に従うしかない。
死者に意思などないのだから。
それが、死者というものだ。
「行こうか。」
 俺の言葉に男が立ち上がる。
歩き出した俺の後を、ゆっくりとした足取りでついてきていた。
生気のない顔はまさに亡者と呼ぶにふさわしい。
互いに何も喋らず、ゆっくりと歩く。
15分ほど歩いた頃に、大きな建物が姿を現した。
建物というには語弊があるかもしれない。
それは、ただの大きな円柱だった。
どこにも入り口などない、太い柱。
俺はその場で足を止める。
「これは…?」
 死者が尋ねた。
俺はその背中を押しながら答える。
「ブレインウォッシャー、脳を洗う場所。
記憶を洗い流して、楽になって来い。」
 俺の言葉に死者は恐怖の表情を浮かべた。
必死にもがき、逃げ出そうとするがもう遅い。
一度つかまってしまえば抜け出すことは不可能だ。
やがて死者は円柱の中に吸い込まれていった。
少しかわいそうだが、これで終わりだ。
次に出てくる頃には記憶もキレイになっていることだろう。
「まったく…」
 俺は一人で呟いた。
「死神なんてやるもんじゃねえな。」






 どれだけ時間がたっただろうか。
円柱にもたれウトウトしていた俺は、死者がでてくる音で目が覚めた。
足元の砂利を踏みつけ、肩で息をしながら男はそこに立っていた。
糸が切れたように、男はその場に腰を下ろす。
荒い息遣いと、砂利の音だけが響いた。
「まだ…」
 死者が口を開く。
「まだ、覚えてる…。」
 震えながら、死者は自分の手をじっと見つめていた。
俺は耳を疑う。
あらゆる記憶は消えるはずなのに。
「大切な―――何より大切な人なんだ。
絶対に、忘れない。」
 耐えたというのか。
その人のために。
男は俺を見上げる。
まっすぐな瞳の中に、あるはずのない意思を感じた気がした。
「なら、登ってみるか。」
 意識しないうちに、俺の口は動いていた。
死者は不思議そうな顔で俺を見ている。
自分でもなぜこんなことを言っているのかわからない。
さっさと仕事をすませないと、面倒なだけだというのに。
それでも俺は振り返り、そこにある塔を見つめた。
青い空の下に立つ、美しい塔。
「現世への入り口、トコヨミの塔を。」
 俺は、男の記憶が見たかったのかもしれない。






 トコヨミの塔。
それは死者が登る現世への入り口。
無事に最上階にたどり着けば、生き返ることが出来るといわれている。
だが挑戦する人数は決して多くなく、成功した人間にいたっては一人も居ない。
「何だ、登るのか。」
 塔の入り口には門番の死神が立っていた。
俺とは違い、黒いローブに大きな鎌、そしてドクロの顔。
典型的な死神像だ。
俺はその死神に頷いて答えた。
「消えるだけだと思うがなあ…。」
 そういいながら死神は懐から取り出したノートに何かを書き込んでいく。
事務的な手続きだろう。
その間に俺は死者に説明をしてやる。
「さっき話したように、上まで行けば生き返る。」
 振り返りながら俺は口を開く。
塔を見上げていた男は、真剣な表情のままこちらを向いた。
「だが、失敗すれば―――塔の試練を乗り越えられなければ、お前の存在自体が消える。
それでもいいか?」
 今更のように俺は確認した。
すでに手続きは進んでいる。
そして本人も生き返るつもりでいる。
ここまできてノーはないのだ。
男は俺と向き合ったまましっかりと頷いた。
「まあ、頂上までは付き合うさ。」
 そういって俺は自嘲気味に笑う。
俺の言葉に、死神が反応した。
「なんだ、お前も登るのか?」
 ドクロ面だから、表情は変わらない。
それでも声の調子から呆れていることはわかった。
「かまわないだろ?」
「前例はないが…まあいいだろ。」
 そういって死神は鍵を取り出し門を開く。
「さあ登れ。
悔いを残さないように。」
 その言葉に押されるように、俺たちは塔へ足を踏み入れた。






 後ろで扉が閉まり、鍵のかかる音がする。
もう後戻りはできない。
辺りを見回すと、塔の中は不自由しない程度に明るかった。
石造りの床と、壁にそってある大きな階段。
それがその塔のなかのすべてだった。
らせんを描くその階段は遥か上まで続いている。
「これ、登るのか…。」
 俺はため息をついた。
外から見た塔はとても大きかった。
それを足で登るのは相当の苦労が伴うだろう。
「天井、ないんですかね。」
 言われて俺は上を見上げた。
そこからは光が差し込んでおり、最上階がどうなっているのかはわからない。
塔の中が明るいのもこの光のおかげだろう。
「行ってみればわかるさ。」
 投げやりに俺はそういって、階段に足をかけた。
男もそれに続き、一段ずつ確かめるように登り始める。
ふと、壁に松明がついているのに気がついた。
壁から生えた棒に、燃料を入れる陶製の器が載っている。
松明の芯に火をつければ、器から燃料が供給されて燃え続けるのだろう。
「いるか?」
 懐からライターを出し、松明を指差してたずねた。
男は首を横に振って答える。
確かに歩くには十分な明るさはある。
わざわざ火をつけることはないだろう。
俺はタバコに火をつけてライターをポケットへ戻した。
この先吸っている暇はないだろうから、最後の一服だ。
「そういえば…。」
 少し歩いた頃に男が口を開いた。
俺は無言でその続きを待つ。
「貴方は、外の死神とタイプが違うんですか?」
 一瞬何のことか考えて、すぐに思い至る。
頭が疲れているのだろうか、なんだかぼんやりしている気がする。
「なんつーか…あっちは古参だよ。
服装も違うだろ。」
 外にいた死神がローブを着ていたのに対し、俺は真っ黒なスーツにネクタイまで締めている。
このまま葬式にでも出れそうな格好だ。
「顔も、お前らに近いしな。」
 そういってふと気付く。
俺も時間がたてば、あんなふうに骨だけになるんだろうか?
…ならない気がする。
根拠はないが。
後ろを振り返れば、納得したようなしてないような表情で男は首をひねっていた。
「―――止まれ!」
 俺の声に驚いて、男は足を止めた。
何か聞こえる、かすかに何かが…。
「ゥゥゥゥゥ…」
 これは…うなり声?
「グアアアアァァァァァ!!!」
 かすかに聞こえていた声が、突然叫び声に変わる。
下を見れば黒い大きな影が、階段を駆け上ってきていた。
「あれは…」
「いいから、逃げるぞ!」
 男の声を遮って俺は走り出す。
あわてて男もその後に続いた。
だがスピードは向こうのほうが速いらしい。
獣の足音がどんどん近づいてくるのがわかった。
『ガアアアアアアアアアァアァァァァァ!!』
 いくつもの咆哮がこだまする。
何匹居るのか確認するために、俺は走りながら後ろを向いた。
俺たちを追っているのは、一匹だけだった。
だが声は確かに何重にも聞こえる。
目を凝らしてみれば、そこにいるのは三つ首の巨大な番犬だった。
「ケルベロス!」
 俺は思わず叫ぶ。
死者を消すのがこいつの仕事だ。
なるほど、この塔の番犬にはぴったりだろう。
だがこちらとしても捕まるわけにはいかない。
「先に行け!」
 こいつが死者を狙うなら、死神の俺は狙われないかもしれない。
そう考え、俺は足を止めて懐に手を入れる。
死神は、魂を狩る武器を持つ。
古参が鎌を持っていたように。
俺は狙いを定めることもなく、番犬に向かって何度も引き金を引いた。
三度、四度と銃声が塔全体に響く。



「ガアアアアアア!」
 銃弾を浴びたケルベロスが苦痛の叫びをあげ、その場でのた打ち回る。
2〜3メートルはあろうかという巨体だ。
暴れるたびに、塔全体が揺れているような気がした。
「今のうちだ、いくぞ!」
 足を止め、俺を見守っていた男の手を引いて俺は階段を駆け上った。
体力が持つ限り全速力で走り抜ける。
スタミナ切れと同時に、俺たちは階段の上に倒れこんだ。
「ハァ…ハァ…。」
 二人の荒い息遣いが響く。
全身の筋肉が悲鳴を上げている気がする。
それでも俺は壁にすがりながら必死で立ち上がる。
「早く…早く行かないと…」
 そこで俺の言葉は途切れた。
全身を貫く衝撃。
そのまま俺は弾き飛ばされ、正面の壁に叩きつけられる。
「もう、きやがっ…た。」
 叫び声も、足音すら消して番犬は俺たちに近づいていた。
休んでいる暇などなかったのだ。
見れば俺の銃弾を浴びたのか、中央と左の首はぐったりとして動かない。
あと首一つなのに…。
先ほどの体当たりで、俺は手にしていた銃を落としていた。
もはや手元にあるのは、口から落ちたタバコ一本だけ。
「うわああああああ!」
 男の絶叫が響いた。
いつのまに手にしたのか、男は陶器の器でケルベロスに殴りかかる。
だが奴は避けようともしない。
手にしていた器は奴の頭にぶつかり、あっさりと砕け散った。
ケルベロスはまったく意に介した様子も見せず、男に飛び掛る。
大きな牙が男の右腕を捕らえた。
「ぐぁぁぁぁぁ!」
 血は出ない。
死者だから、流れる血など存在しない。
それでも痛みをこらえるように男は絶叫した。
左手で傷口を押さえ、搾り出すように声をあげる。
そんな男をあざ笑うかのように、悠然とした足取りで番犬が近づく。
「そこまでだぜ、化け物。」
 そういいながら、俺は手にしていたタバコを弾き飛ばした。
ゆっくりと放物線を描いてタバコは犬へと飛んでいく。
男が持っていた器は、松明の燃料を入れるものだ。
それを敢えて真正面から受けたケルベロス。
奴の毛皮はたっぷりと燃料を吸い込んでいる。
「ギャアアアア!!」
 叫びとともに、ケルベロスの毛皮に火が燃え移った。
タバコで引火した燃料はあっという間に全体を包む業火となる。
熱いのか、それとも息苦しいのか。
犬は再び暴れ、そして足を踏み外し。
奈落の底へと落ちていった。





「大丈夫か…!」
 体を引きずりながら、俺は男の元へ急ぐ。
「う…ぐ…」
 だが男は床にうずくまったまま返事をしない。
意識があるのかどうかすら怪しかった。
俺は男の左手を肩に担ぎ、両足を脇に抱え込んで男を背負う。
「きっと、もう少しだ。だから、がんばれ…!」
 俺は足を引きずるようにして階段を登る。
何度もつまずきそうになりながら、それでも必死で先へと進む。
「大切な人がいたじゃないか。
何があっても守るって、約束したじゃないか。」
 俺は何を言っているんだろう。
まるで自分のことのように、男が口にしていた情景が思い浮かぶ。
「もう一度、もう一度会おう。
俺たちの大切な人に。」
 頭がぼんやりとする。
もう何も考えることが出来ない。
ただ背中に背負った男が生きていることだけを願って俺は喋り続けた。
突然、視界が開ける。
真っ青な空が俺たちを包んだ。
屋上に出たのだと、一瞬遅れて気がつく。
「着い…た…。」
 俺はその場にへたり込む。
ぐったりとしながら、何かが起こるのを待った。
だが、いくら待っても何も怒らない。
ただ青い空がどこまでも広がっているだけだった。
俺は耐え切れずに声を上げる。
「なんでだよ!
たどり着いたじゃないか!
ここまで来たじゃないか!
早く、早く生き返らせてやってくれよ!」
 背中からおろした男は俺の隣でぐったりと横たわっている。
もう、動かない。
でもここに居るのに。
こいつはこうして、屋上にたどり着いたのに。
『意志が来たのか…』
 声が聞こえた。
あわてて辺りを見回すが、誰の姿も見えない。
声だけが、はっきりと聞こえていた。
『記憶は…傷ついているな。
それでもいいのか。』
 何の話かわからない。
何を言っているんだ、この声は?
「…何の話だ、お前は誰だ!?」
 少し間をおいて、声が答える。
『人は、死ぬと記憶と意志に分かれる。
意志は「案内人」となり、記憶である「死者」をあの世へと連れて行く。』
 何…だって?
じゃあ。
隣で倒れているこいつが「記憶」ってことは、俺は…。
『常世見の塔は、「意志」と「記憶」が揃えば常世への道が開かれる。
常世を通れば、人は蘇ることができるのだ。
もっとも、お前の場合は「記憶」が損傷してしまっているが。』
 ようやく俺は納得した。
この塔が今まで一人も生き返らせなかった理由を。
「意志」から離れた「記憶」は、素直に死を受け入れる。
仮に生き返ることを希望しても、「意志」が死神として自我を与えられている以上同行することはない。
そう。
この男のようなイレギュラーな「死者」と、
俺のようなイレギュラーな「死神」。
両者が揃って、初めて人は蘇る。
「不完全ってのは、記憶を失うってことか。」
『部分的にだが。
それでもいいのか。』
 声は再び俺にそう尋ねた。
俺は隣の傷ついた男を見る。
おそらくこの右腕にあたる部分が失われるのだろう。
果たしてそれは全体の記憶の何割に当たるのだろうか。
そして、その中に俺たちが守りたかったモノがあるのだろうか。
いや――――。
「もちろんだ!」
 俺は叫んだ。
それに答えるように、目の前に扉が現れる。
『ならば、二人で扉をくぐるがいい。』
 ゆっくりと、扉が開いていく。
俺は立ち上がり、隣に横たわる「記憶」を抱き上げた。









 俺たちが守りたかった記憶だ。
「意志」と「記憶」が離れても、守りたかった大切なもの。
こんなことで失うはずがない。
何があっても覚えていると、固く心に誓ったから。
ゆっくりと、扉の向こうにある光へと歩みを進める。
腕の中の男が少しずつ姿を消していく。
それと共に、脳裏に浮かぶ数々の思い出。
そして大切な…何よりも大切な人の顔。
「ようやく、思い出したよ…。」
 俺の言葉に答えるように、腕の中の男が微笑んだ。
そして一陣の風とともに姿を消す。





 共に誓おう。
 今度こそ、何があっても忘れない。
 必ず守る。
 この手を、離さない。
 そう、


 ――――死が二人を別つまで。






                                             終