FFXIVには「床をなめる」という表現が存在する。
これはプレイヤーキャラクター(PC)が戦闘不能になった際に床に倒れ込む様子を表現したものである。
転じて戦闘不能≒(ゲームとしての)死亡を表すスラングだ。
(念のために言っておくが死亡といってもキャラロストはないし蘇生魔法で起きることもできる。
ついでに言えば種族によって倒れ方が違うので、あおむけに倒れる種族も存在する)
この「床の味」という作品は、つまりPCが戦闘不能になることをテーマに書かれた作品だ。
主に舞台となるのは黒衣森、国で言えばグリダニアと呼ばれる場所である。
もちろん実際にPCが土を食べたりする描写も、そのような方法も存在しないのであるが、
ゲームとしてでなく現実問題に落とし込めば、意識を失うレベルで倒れれば確かに口の中に土が入ることはそうおかしな話ではない。
そしてその味と、苦い思い出を直接結びつけているのだ。
この話は、PCの手記として綴られる。
PCから読者に対する語りかけから始まり、徐々に回想としてPCの心情が語られていく。
現在の力量は不明であるが、少なくとも語られているタイミングではこのキャラクターは駆け出しの冒険者である。
彼が初めて戦闘不能になったときのことが少しずつ語られる。
黒衣森には様々な魔物や動物たちが暮らす。
そしてたくさんの木々やキノコが生える肥沃な大地だ。
最初に床をなめるという表現から戦闘不能というテーマを引き出し、実際に味を語ることでその世界の一部を説明する。
やや奇異な語り口からはじめることで読者の興味を引き、徐々に一般的な話に落とし込む手技はこの作者の得意技である。
読者の出鼻をくじき、自分のペースで物語に引き込んでいくのだ。
そして読者にはぜひそのまま引き込まれてほしい。
そうして世界とヒトとを理解していけば、スムーズに次の会話に移れることだろう。
ここではミューヌと呼ばれる女性が登場する。
彼女はグリダニアの冒険者ギルドの代表だ。
だから語り手のようなかけだし冒険者の面倒をみるのも仕事の一つといえる。
だがここで語られる彼女のフォローは決して仕事としてのそれだけではないだろう。
そもそもそういった面で面倒見がよいから冒険者ギルドの代表として祀り上げられているとも見れる。
話を戻そう。
ここで彼は自分の初めての冒険を語る。
おそらく語り口から考えるに、語り手の彼はグリダニア出身ではあるまい。
森の様子に驚く描写も見られるから、飛空艇できたのかあるいはチョコボキャリッジのような屋根のある乗り物で来たのかもしれない。
そして冒頭で一人オレンジジュースを飲んでいるところから見ても、やはり知り合いはいないのだろう。
初めての冒険がうまくいっている間はいいが、失敗したとたんに不安になるのは人のサガである。
特に突然魔物の群れに囲まれたとあっては自分が出来ること、出来ないことすら混乱してわからなくなっても不思議ではない。
普段ならできるようなことも、力量を出し切れずにやられてしまう。
その失敗――苦さを土の味と表現しているのだ。
土を食べたことをある人は少なくても、口に入ってしまった経験がある人は少なくないだろう。
あるいはにおいや手触りからある程度想像もできる。
食・味という根源的な記憶と、語り手の体験を結びつけることで感情移入を助けているのだ。
「苦い思い出」という言葉がある。
過去の失敗体験や苦しい思いをそう呼ぶのだが、ここではその思い出と土の味がリンクしている。
つまり床の味(戦闘不能)と土の味(倒れていることの婉曲的な表現)がリンクし、
土の味(苦味)と苦い思い出(苦しい戦い)がリンクし、
そして苦い思い出(苦しい戦い)と床の味(戦闘不能)がリンクする。
この三つの要素が循環するように意味がつながっているのだ。
これにより一つの言葉で、他の二つも自然と思い起こされる。
土の味というだけで戦闘不能になったことも、苦しい思い出も紐づいて出てくるようになっている。
こういう仕掛けが実にうまい。
たとえば、この語りは食事を行いながら話されている。
そして語りながらとる食事は甘いオレンジジュースと香ばしいバターの香り。
苦い土の味と対極のものを持つことで、この場が安全であることを暗に示している。
これも先ほどの三つの要素のリンクを用いることでわざわざ文章に示さなくとも、感情移入ができていれば肌で感じ取れるのだ。
だがこの作者はそう簡単には済まさない。
そこで一つだけ、料理の素材をキノコにしているのだ。
キノコは自分を倒した魔物でもある。
こうして同じ素材をほんの少し残すことで、連続した緊張感や時系列の続きであることを示す。
安心できる場所なのに、暗い思いが影を落としている。
そしてこの料理はさらに次の仕掛けにつながっている。
この料理=安心を育んだのはこの森の土。
つまり土の味を知って、それでも今の安心=うまい料理につながっている。
苦しい思い出を糧にして成長できるということをミューヌは示しているのだ。
そしてそれにこたえるように彼は料理を食べきる。
先輩冒険者に励まされ、周りをみて、彼はキノコを食べつくす。
この場から、苦い過去がすべて消えた瞬間だ。
ここで語り手である彼に落ちていた影が消える。
失敗によって落ち込んでいた気分もようやく平常に戻るのだ。
こうして思い出・戦闘不能・味という不思議なみっつのリンクはそれぞれに他者を呼び起こし、
その三角形の中で語り手の心情を表現していく。
ここで話の前半部分が終了だ。
後半では、心情的にではなく物理的な成長が描かれる。
彼は再び黒衣森えと足を踏み入れる。
引き受けた依頼をきちんと終了させるため、そして過去を乗り越えるため。
ここでのクエスト完了報告はあくまできっかけに過ぎない。
彼が本当にするべきは、以前の失敗を取り返すことだ。
そしてそのチャンスは早々に訪れる。
クエストを完了させ、報酬を受け取り気分がよくなったところで、再びキノコの魔物と相まみえるのだ。
だが今回は魔物は他の冒険者と戦っている。
これにより、彼にも心の準備をする余裕がとれた。
かつて負けた相手でも落ち着いて戦えば勝てるのではないかという思いがわいてくる。
しかも戦っている先輩冒険者で、自分の有利な戦い方を思い出した。
本来の力量を絞り出せれば勝てるのではないか。
それはつまり、腕としての実力ではなく精神としてのレベルの問題である。
どんなに強くとも、戦いのたびに慌てていてはその実力は出し切れない。
FFXIVプレイヤーなら身に覚えがあるだろう。
木人を割れても、ギミック処理に慌てていては出せるDPSも出せないものだ。
語り手は恐怖を乗り越え、戦いの世界へと再び舞い戻る。
見た瞬間は逃げようとしたが、わずか一日の間に彼は自信を取り戻したのだ。
目の前の冷静に戦う冒険者の姿、成功したクエスト、そして食べきった料理。
落ち着いて敵から距離を取りながら弓術士としての戦いをする。
格好悪くても、確実に勝つために。
時間をかけて、距離を取って、戦い続ける。
最後には日が暮れて、街から離れたところまできて彼はようやく勝利を収めた。
(蛇足ながら、彼が移動した距離はおよそ400〜500m程度に過ぎない。
光の戦士=PCは足が速いことで有名だが、我々でも十分とかからない距離である)
読者にしてみればこの勝利は当然の帰結だ。
昨日の失敗を乗り越え、クエスト成功で自信をつけ、冷静さを覚えて力量を出し切る。
ここまでして勝てないはずがなかろう、とすら言える。
だが当の本人は必死だったことが文章から読み取れる。
その証拠に、彼の口の中にはまた土が入っている。
だがここでの土の味は思い出とも戦闘不能ともリンクしていない。
過去使っていたリンクをここで破壊しているのだ。
そして、「悪くない味」と彼は評する。
土の味と戦って勝ったというよい思い出がリンクした結果である。
以降、彼はそれを「魅力的」と表現している。
つまりここからの戦いの歴史を彼は肯定しているのだ。
「蒼き霞吹く煙管。
紅く燃ゆる火酒。
全て飲み込む漆黒の珈琲。」
彼は以降の冒険をすべて味と関連付けて記憶している。
FFXIVプレイヤーならすぐにピンとくるだろうが、ここでの色は追加ディスクの色と対応している。
蒼天のイシュガルド、紅蓮のリベレーター、漆黒のヴィランズ、である。
それらを全て味わうもの、のむものとして表現している。
(最近では煙草は「吸う」が多数派だが、昔は「のむ」と言うのが一般的であった。
漢字表記は諸説あるが「喫む」が有力か)
床を舐める、という表記からは確かに食べるというより飲むほうがよりイメージしやすいだろう。
そして物語は第二章――続編を感じさせながら終結する。
無事に戦いに勝利をおさめ、爽快な気分で終わりながらも、最後は「手記はここで破かれている」のである。
その不穏さを感じさせながらの終了に、読者はほんの少しの緊張感を持つ。
これは塩で甘みを引き立たせるようなもので、最後に読者の感情をゆさぶろうという仕掛けだ。
爽快感を感じていたところに、急に不穏さを感じさせると強い印象を残す。
ホラー映画の最後で、怪物が蘇るような描写が入るのと同じものである。
かくしてこの物語は読者に強い印象を残したまま終結する。
単語の意味をリンクさせ鮮やかに語り手の心情を描写し、最後に一滴のインクで強い印象を残していく。
この展開はまさに作者の得意とするところといえるだろう。
全体を通してその表現のレベルはすさまじく、安心して読める一作であると胸を張って言える作品である。
瓶太