復興中のイシュガルドを背景とし、職人気質の冒険者アディスと幽霊のスノーの交流を描く。

まず最初に目を引くのはタイトルである。
ピアノフォルテとビブリオフィリア。
ピアノフォルテは楽器であるピアノの正式名称だ。
ピアノ(弱い音)からフォルテ(強い音)まで出せるということを意味する言葉である。
フォルテピアノとも呼ばれる。
このピアノフォルテは、楽器のピアノがストーリーの主軸にそって常にあることから考えても自然である。
まさに伴奏のように最初から最後まで寄り添ってくれるキーワードである。
対してビブリオフィリアとは何か。
単純に直訳するなら「愛書家」「活字好き」当たりになる。

だが我々FFXIVプレイヤーはここであることに気づく。
ピアノの音が特徴的な曲として「ビブリオフォビア」という曲がFFXIVにあるのだ。
「フォビア」は恐怖症であるから、「活字恐怖症」というのが本来の意味である。
この曲は人気も高く、プレイヤーなら名前を聞いたことはあるだろうし、
メインクエストに絡むID「グブラ幻想図書館」といえばおおよそのイメージはつくだろう。
(ただし「ビブリオフォビア」がかかるのはハードの方である稀書回収であり、
ノーマルである禁書回収のBGMは「万世の言葉」である)

だが本作のタイトルは「ビブリオフィリア」。
意味が全く反転してしまっている。
「ビブリオフォビア」を知っているプレイヤーならまずここであれっ、と思うだろう。
しかし作品のタイトル、顔としてつけられている言葉である。
反転するだけの意味があるのだろうと飲み込んで本文を読んでいただきたい。

もともとイシュガルドが舞台である蒼天のイシュガルドはダークファンタジーをイメージして作られたとのこと。
それを反映してか、イシュガルド全体がうらぶれた雰囲気を醸し出している。
雪がつもり、場合によっては吹雪に閉ざされる国。
戦争に巻き込まれボロボロになり、かつての住人も死んでしまった街。
そんな中に、自分の腕前に自信を持てない冒険者のアディスがやってくる。
冒頭部だけでもわかるこの雰囲気こそがこの作品の持ち味である。
この作者の書く物語は決してエネルギッシュとは言い難い。
だがしっかりとした芯を持ち、確実に歩みを進める語り口だ。
それこそ吹雪の中を歩くように、夜の家をろうそくの明かりだけで歩くような文章である。
そしてその文章がイシュガルドの復興しきれていない、戦争の爪痕が残る街と非常にマッチするのだ。
このテーマ選びだけでも、この作品は成功しているといって過言ではない。

だがもちろん冒頭部だけでこの作品の魅力は終わらない。
アディスはここで一人の女性と出会う。
彼女もまた影を持った人物である。
突如夜中に家に侵入してきた割にはおだやかに話す彼女。
彼女は自覚のある幽霊なのだ。
スノーと名乗った彼女は毎夜現れ、アディスと交流を深める。
二人とも激しい感情をあらわにすることなく、穏やかな会話。
もともと病弱だった彼女と、戦いに自信を持てない冒険者の彼とは気が合ったのだろう。
その二人の穏やかさもまた、この舞台やこの文体ともマッチしている。
全ての要素が互いの良い面を引き出しながらストーリーを作り上げていくのだ。
彼らが楽譜を手に入れピアノの練習を始めるころには、この作品の色にすっかり魅了されているころだろう。
彩度は低いものの優し気な色合いのストーリー、穏やかで柔らかな手触りの物語。
それこそがこの作品の魅力だと私は信じている。

そして二人は楽譜をもとにピアノの練習を始める。
職人としての腕を見せつけたアディスは、ここで初めて新しいことに挑戦する。
それは危険が伴うダンジョンではない。
だが人生においてそれは間違いなく冒険なのだ。
「新しい挑戦こそ冒険者の本分だ」とアディスは言う。
冒頭では「冒険者としてまだ未熟」とモノローグで語っていたころから考えればようやく自覚が出てきたといってもいいだろう。
最初からそういう気概があったとしても、それを実践するだけの強さはまだ見え隠れする程度だった。
それが自分の言葉ではっきりと他人に見栄をはる程度にはそう言えるようになったのである。
スノーとの出会いは、アディスにとって成長のきっかけだったのだ。
そして彼はさらに足を延ばし、様々なダンジョンへと向かう。
プレイヤー間でIDと呼ばれる場所、本来はパーティを組んで攻略する場所へ。
(余談だが、カルン、カッターズクライ、ブレイフロクス、ハルブレイカーアイル、フラクタル・コンティニアムだと思っている)
そして彼は各地で楽譜を集める、もちろん彼女のために。 敵と戦い、モンスターを倒し、宝箱を開けてスノーのために楽譜を集めているのだ。
復興中のイシュガルドなら仕事ができるだろうと考えていた冒頭から考えれば大きな変化だ。
ここでの楽譜収集はアディスの成長やスノーへの愛情を示すとともに、後半の伏線にもなっている。
それに関してはまた後半に語ろう。

そしてある日スノーが気づく。
自分がクリスタルの影響により見えているのではないかと。
エーテルを用いて顕現する神、ヒトの思いを形にしたもの。
それは蛮神と呼ばれるものだ。
FFXIVのメインストーリーの大半は蛮神との闘いだ。
蛮神は人を洗脳し、周囲のエーテルを食い荒らす。
物理的にも人的にも資源を奪いつくしていく存在だ。
スノーはひょっとしたら自分がそうではないかと言っているのだ。
もしそうであるなら、冒険者であるアディスにとってみれば戦うべき相手である。
街中に蛮神でも現れようものならそれこそ大惨事にしかならないからだ。
だがプレイヤーである読者は同時にわかっている。
クラフターが使う程度のクリスタルでは本来蛮神は呼べないし、
そもそもスノーと出会うまでアディスは彼女に気づいてすらいなかった。
つまり蛮神となるのであれば、幽霊であるはずのスノー一人分の願いしかかなえられていない。
ゲームでは例外的に一人で蛮神を読んだギルガメッシュも存在するが、
彼女がそこまでの強さを備えていないことは明らかだろう。
だから「自分が蛮神ではないか」という思いは気にする必要もないレベルのものだ。
読者にはそれが分かるし、すでに彼女に好意を抱いているアディスにしても取るに足らない問題だろう。
だが自分が他人を害するかもしれないと、少しでも可能性があると気づいてしまったスノーにとっては切実な問題だった。
アディスの説得でその場は収まったものの、二人の間にいずれ別れの時が来るという問題が発生した。
そしてそれはそう遠くないだろうということも。

次に訪れる転機は、外部からもたらされる。
二人の閉ざされた世界に、初めて第三者が現れるのだ。
もっとも正確には昼の時間帯、スノーが現れないタイミングである。
そこにスノーの大姪を名乗る女性が現れる。
彼女は必要以上に詮索せず、スノーの生前について少しだけ語り、そしてキーアイテムとなる「白雪」という童話に触れる。
狂言回しとしては適切な引き際といえるだろう。
ここで彼女が「大叔母に会いたい」と夜の世界に足を踏み込んでくれば、また話の方向がブレてくる。
アディスが暮らす雲霞街の管理をしている立場のキャラクターであり、血縁という設定も近すぎないことで深入りを防ぐ。
見ようによっては都合がいいと取られるかもしれないが、物語とは多かれ少なかれご都合主義の塊だ。
どの程度の「偶然」を使うのかは作者の匙加減であり、その匙加減が作者の力量になるのだろう。
先ほども述べたように話の方向をブラさず、スムーズに進ませるためにはこの程度がもっとも適切といえるだろう。

そして彼はグブラ幻想図書館へと足を踏み入れる。
しかもおそらく、IDとしては(HARD)とつく敵レベルの高い方である。
タイトルから連想されるビブリオフォビアはハードの音楽であるし、
後に描写されるボスキャラの描写もハードのキャラクタばかりだ。
「冒険者としてはまだ未熟」と言っていたアディスはそこにはもういない。
彼は自分のため、彼女のため、来るべき別れを納得して受け入れるために。
哀しみを受け止める準備としてそのダンジョンに踏み込む。
格闘士として定型のない敵を苦手とする彼であるが、命がけで自分たちの未来をつかみにいくのだ。
やがて図書館の主のようなフクロウと邂逅するアディス。
(蛇足ながら、ボスキャラ名としては「ストリックス」という。
意味はそのままフクロウの一種だ)
そこで「白雪」――スノウホワイトの本を渡される。

この本には二つのギミックがある。
一つは間から出てくる紙――楽譜である。
さんざん古い楽譜を集め、その修復をしてきたアディス。
それゆえに、見るだけでそれが楽譜であることを理解できるのだ。
これがピアノの練習を始めた辺りからの伏線である。
本来そのままでは使えないものを、彼はもはやそのままでもスムーズに読める。
この楽譜こそが、ビブリオフォビアである。
彼はそれを譜面台に置き、ピアノを奏でる。
ぜひ、ここでは曲を聴きながら読んでいただきたい。
アディスの思いを受け取るスノーとしての感情が盛り上がること請け合いである。

そしてもう一つ。
この本の表紙には白い石が意匠としてついている。
やはりここでもプレイヤーとしての直感が働く。
「クリスタルにしては色が濃い」、と言われるこの石。
そして幽霊=エーテル体であるスノー。
であればエーテルを保持する性質をもつ白聖石が思い起こされる。
白聖石は暁の賢人たちが作ったものではあるが、その賢人たちは本来シャーレアンの出身。
そしてこのグブラ幻想図書館もシャーレアンの施設である。
ならばここに白聖石に似たものがあっても不思議ではない――と理屈を考えるのも野暮な話だ。
現実問題として、エーテルをため込むであろう石がそこにあることの意味。
そして職人としてのアディスは錬金術師としての知識からその石の正体を見抜く。
ここにきて、彼はようやく幸せな未来への道順を理解する。
なりふり構わず自分の全力を出して新しいことへ挑戦し。
そして新しい道を切り開いたのだ。
これが立派な冒険者でなくてなんだというのだろう。
そして彼は胸を張って、自分の思いを伝える。
彼女のことをどう思うのか、そしてどんな未来を望んでいるのかを。
そしてそれに彼女は答えを出した。
白雪姫、スノウホワイト。
これはそのままスノーの物語。
軟禁状態であった彼女は王子様に助けられるのを夢見ていた。
だが現実に王子様は訪れず、彼女は命を落とす。
しかし、忘れてはいけない。
白雪姫の物語は、姫が亡くなってから王子が現れるのだ。
そして白雪姫は王子とともに旅に出る。

スノー自身がアディスに何を願ったのか。
そしてエピローグで旅に出たアディスのもとに存在する本は。
その答えは、きっとスノウホワイトの中にあるのだろう。

そしてここまできて、ようやくビブリオフォビアとビブリオフィリアの違いが理解できる。
曲としてのビブリオフォビア、物語を愛したスノーとしてのビブリオフィリア。
だがそれだけではない。
今やアディスは誰よりも「白雪」の本を愛している。
これ以上のビブリオフィリアはいまい。
ビブリオフォビアを演奏する愛書家。
それがこの、「ピアノフォルテとビブリオフィリア」という物語の形だったのだ。

先にも述べたが、文体と舞台、そしてテーマが見事に合わさったこの一作。
十分に傑作と呼べるレベルのものであるが、惜しむらくはプレイヤーでなければこれらの仕掛けに気づきにくいことだろう。
だが二次創作とはそもそもそういうものであり、加えてそれを差し引いても、今作は完成度の高い作品であるといえるだろう。

瓶太