1/生命
春も近い陽気な日の商店街。
タテガミも生えない獅子の少年がぼんやりとした顔で金物屋の店先を眺めていた。
「なんだお前、刃物が欲しいのか。」
たくさんの食品を抱えた、目つきの悪い獅子が後ろから少年に話し掛けた。
年のころは20前後。
とても二人でたべるとは思えない量の荷物を1人で軽々と抱えている。
彼に名前はない。
正確には、あったかもしれないが誰も知らない。
街の住人は「失敗作」という意味をこめて彼をフェイル、と呼んでいた。
少年はフェイルの言葉に首を横に振る。
言葉を喋れない少年は、ジェスチャーと拙い筆談だけがコミュニケーションの手段だった。
少年が首を横に降るのを見て、いくぞ、と言葉を残して青年はさっさと歩き出す。
少年もまた、その後につづいて小走りに駆け出した。
向かう先は、彼らが暮らす孤児院。
フェイルもまた、孤児院を運営する教会にボランティアという形で住み込んでいた。
突然ぐい、とフェイルの服が後ろからひかれる。
少年は声を出せないため前をあるくフェイルに声をかけるにはこれしかない。
フェイルもなれているようで、当然のように振り返り少年をみた。
「どうした?」
少年は振り返ったフェイルの手から荷物をあずかろうと必死で手を伸ばす。
少年の意図を察しって彼は笑った。
「バカ野郎、これくらい何でもねえよ。」
そう言ってフェイルは少年の手の届かないところまで荷物を持ち上げる。
荷物に手を伸ばそうと必死で跳ねる少年。
どて、と音を立ててその場にしりもちをついた。
尻の土を払いながら立ち上がる少年をフェイルは笑顔で見守る。
「ほら、こけないようについてきな。」
そう言って歩こうとするフェイルの服の裾を、
少年は再びつかんだ。
いぶかしげに振り返るフェイルの服を、少年はめくりあげた。
両手がふさがっているフェイルは咄嗟に抵抗することもできない。
少年はフェイルのわき腹を指差した。
そこにはふさがって間もないと思われる丸い傷痕。
この世界には、本来あるはずのない傷痕。
銃創がそこにあった。
「もうふさがってんだ、平気だよ。」
そういうが少年はフェイルの服の裾をつかんで放さない。
しょうがなくフェイルは荷物の三分の一ほどを少年に渡した。
仕事を手伝いたい年代ということもあるのだろう、
とフェイルは少年の後姿を見ながらぼんやりと考えた。
正確な年齢はわからないが、見る限りでは10代前半というところだろう。
大人にあこがれ背伸びをしたくなる年代。
そう思うと少年の背中がとても可愛く見えた。
「おーい、かえったぞー。」
教会の裏手から居住部分に直接入っていく。
それを出迎えたのは、若い神父と修道女。
それに、若い狼と年配の虎。
「なんだ、サンタども。来てたのか。」
そう言いながらフェイルはテーブルの上に荷物を置く。
1人で荷物に置こうと四苦八苦していた少年の荷物も、
少年の手から取り上げると自分の置いた荷物の隣に並べる。
「どもはねえだろ、どもは。」
子供達が体中にしがみついたままでサンタと呼ばれた狼は反論をする。
「じゃあどうしろってんだよ。
まさか今更俺に上品な言葉使いとか求めてるんじゃねーだろーな。」
フェイルもまけじと言い返す。
顔を合わせれば軽く口ゲンカするのがこの二人の挨拶のようなものだった。
もう1人、サンタと呼ばれた年配の虎はその光景を見ながら微笑んでいる。
「お前達はあんなになるなよー。」
子供を抱えながらケンカする二人をみて虎は談笑していた。
その間にも神父と修道女は帰ってきた二人のためにお茶とお茶菓子を用意していた。
少年は出されたお茶を1人ですすっている。
マイペースな三人は虎や子供達のさらに外側から騒動を眺めていた。
「だいたいお前普段から遊びに来すぎなんだよ!」
「うるせえ、子供達に会いに来て何が悪い!」
そんな騒動を子供達までもが温かく見守っていた。
彼らなりのコミュニケーションであることを皆がわかっているのである。
そんな日常を、少年はぼんやりと眺めていた。
「あら…。」
そんなときに呟いたのは、マイペースな修道女。
「楽しそうなところごめんなさい。
フェイルさん、頼んだバターが足りないんですけど。」
口ゲンカをやめて、フェイルが修道女を見る。
しばらくそのまま考え込んだ後、ごまかすようににたっと笑う。
「悪い、もっかい行って来るわ。」
そういって財布をもったフェイルに、少年が無言で続く。
「おまえもくるか。」
フェイルの言葉に少年は大きく頷いた。
蹴り開くような勢いで扉を開けると、二人はそのまま外に出た。
「あ、雨が降りそうですから傘を…」
神父の言葉が終わる前に、二人の姿は小さくなっていた。
空を見上げればどんよりと重そうな灰色の雲。
いつのまにか、空全体が暗い雲に覆われていた。
「雨に、遭わなければいいのですが…。」
心配そうな顔で神父は空を見上げた。
今にも雨が降ってきそうな空は、いつになく暗かった。
「いいかー、男に必要なのは、
一に勇気、二に勇気、三・四がなくて、五に色気。」
妙な標語を語りながらフェイルは歩く。
少年もその言葉を真剣に聞きながらその隣を歩いていた。
この話をするのは何時ものことで、今回はじめて聞く内容でもない。
それでも少年はいつも真剣にその話に耳を傾けていた。
「そして何より重要なのは――――。
…まあ、お前は頭がいいから言わなくてもわかるか。」
何事か言いかけて、フェイルはその言葉を飲み込んだ。
少年の態度はいつも変わらなくても、やはり聞き飽きただろうと思ったのだ。
何時もはそんなことも気にせずに語りつづけるが、
なぜだか今日はそんな気になれなかった。
言葉をかける代わりに、少年の頭をなでる。
短く、生えそろわないタテガミがくしゃりと小さな音を立てた。
その手をおろすと、少年がそっと手を握ってきた。
どう見ても仲のよい兄弟にしか見えない二人は、
のんびりと商店街に向かって歩いていた。
先に気がついたのは少年の方。
一瞬怯えたような、助けを求めるような目でフェイルを見上げる。
どうした、と声をかけそうになってフェイルも気が付いた。
自分達とは別の足音が、すぐ後ろから聞こえていた。
商店街からは少し離れた裏通り。
人通りは少ないうえに、道は酷く入り組んでいる。
自分達と同じ道をたどるその足音は、
尾行しているものだと簡単に予測がついた。
逃げるべきか、戦うべきか。
尾行している相手に心当たりが会ったフェイルは、迷わず逃げを選んだ。
角を曲がった瞬間に、少年の手をひいて全速力で走り出す。
少年とは足の長さが違うのでどうしても少年が遅れがちになってしまう。
だが、相手が狙っているのはおそらく少年の方。
置いていくわけにはいかなかった。
入り組んだ裏路地を右へ左へと走る。
フェイルは街の中でも特に裏路地に詳しい方だ。
袋小路に行き当たらないように、
なるべく追いかけてにくいように、
道を選んで走っている。
にもかかわらず足音は一定距離を保ったままついてくる。
土を踏みしめる音をこれほど憎らしく思ったことはなかった。
角を曲がる際に咄嗟に振り返ってみるが、
人影は見えるものの薄暗さもあいまって相手の正体がわからない。
とにかくできる限り逃げるしかなかった。
フェイルの隣から聞こえる息がどんどん荒くなっていく。
普段からあまり体を動かさない少年は体力がない。
思っていたよりもタイムリミットは早くきそうだった。
「 。」
少年が声を出さずに、息を切らしたままで上を見上げた。
フェイルが何事かと問いただそうとした、ちょうどその時。
彼の鼻に大きな雨粒があたる。
「雨か…。」
足音は大きくなるが、それを補って雨音があたりに響く。
それに雨がふれば姿も隠しやすくなるだろう。
追跡者から逃げる二人にとって幸運であるといえた。
あっという間に振り出した土砂降りの雨にまぎれるように、
二人は何度も角を曲がる。
そして、フェイルは一軒の建物に入ろうとしている熊の少年を見つけた。
「え…?」
熊の声だけを路地に残して、三人はその建物に飛び込んだ。
もちろん咄嗟に建物の扉を閉めることも忘れてはいない。
フェイルは肩で息をして、少年はその場に崩れ落ちる。
全力疾走しつづけて、もはや二人はへとへとだった。
「すみません、開店時間までもう少しお待ちいただけませんか。」
下を向いて息を整えていたフェイルに声がかけられる。
顔を上げてみれば、やや年を食った初老と思われる猫獣人。
何か言い返そうにも呼吸が整わないことには何も言うことができない。
その間にも二人の足下には大きな水溜りができていた。
「いいですよ、店長。
この雨の中外で待てって言うのも酷ですし。」
そう言って熊は手にしていた傘をたたみ、壁に立てかける。
「…まあ、お前がそういうなら。
じゃあお客さん、こちら―――ビッグでよろしいですか。」
とりあえずかくまってくれるようであるならフェイルに異議はない。
とにかく頷いているとそのまま奥の部屋に通された。
フェイルは自分の服を脱ぎ、少年の服を脱がせ借りたタオルで体を拭く。
ビッグと呼ばれた男娼の部屋で二人はようやく一息ついた。
フェイルが飛び込んだのは、開店間近であった娼館。
走っていた路地の近くには娼館が多くあり、咄嗟に隠れるには最適だと判断したのだ。
それに、娼館なら客のプライバシーも守られる。
特に彼らが飛び込んだのはそう言ったところに気を配ることでも有名な、
「ソドム」という名の娼館であった。
もっともフェイルがこの娼館を選んだのは単に扉が開きそうだったから、という単純な理由にすぎない。
彼はここでも幸運を手にしたのだ。
「悪いな、たすかったぜ。」
少年の体を拭き終え、自分の体を拭きながらフェイルは言った。
その間に少年は部屋にあった大きなベッドに潜り込んでいる。
「別に、理由を聞こうとは思いませんけどね。
変に巻き込まれたりはゴメンですよ。」
歯に衣着せぬビッグの言葉にフェイルは好感を抱いた。
「なに、ちょっとしたストーカーみたいなもんさ。
ほっときゃどっかいくだろ。」
頭をタオルでこすりながら、フェイルはにやりと笑ってみせた。
その顔を見てビッグは苦笑してみせる。
「それと、あまり若い頃からこういうところにつれてこないほうがいいですよ。」
ビッグはベッドに腰掛け、あまり年の変わらぬ少年の頭をなでてやる。
一瞬怯えたように体を振るわせた少年は、
何かを伺うようにフェイルを見上げた。
視線に気づき、フェイルは優しく微笑む。
それに安心したのか、少年はビッグに頭をなでられるままに任せていた。
「しょうがねえだろ、緊急事態だ。」
ふてくされたようなフェイルの声にビッグは肩をすくめてみせた。
「テロリストとケンカでもするって言うなら手伝いますけど。」
もちろんビッグも本気でそんなことを心配しているわけではない。
ありえない、くだらない話で時間をつぶす。
今のフェイルには一番ありがたい会話だった。
かつてフェイルは謎の男達に襲われたことがある。
見慣れない黒いスーツをきて、真っ黒なサングラスをかけた男達。
「失敗作」といわれた獅子を探していた男達。
男達が探している「失敗作」が、今ベッドで小さな寝息を立てている少年のことであるとその時にフェイルは察した。
そして咄嗟に嘘をついた。
同じ獅子である自分が「失敗作」だと男達に告げたのだ。
街の連中は「失敗作」の意味でフェイルとよんでいる。
あながち嘘でもなかった。
その結果、彼は大怪我を追った。
なんとか一命は取り留めたものの、教会に厄介にならなければ生活していけないほどであった。
おそらく、奴らがまた来たのだろう。
フェイルはそう考えていた。
どこで知ったか知らないが「失敗作」が生きていると知られたのだ。
自分か、あるいは少年か。
どちらかの命が狙われているのだろう。
自分であればまだ良いが―――。
「で、どうするんです?」
ビッグの声でフェイルは現実に引き戻された。
「え、ああ、なんだっけ。」
「だから、時間ですよ。
長居すると料金高くなっちゃいますよ。」
なんだか不満そうな顔でビッグは呟く。
正確な時間は計っていないが、娼館にはいっておそらく二時間以上。
料金はもらえるとはいえ、彼にしてみれば仕事を邪魔されている気分なのだろう。
「そうだな…。」
フェイルは閉められたカーテンを少し開けると、
外の様子をうかがった。
時間的にはとうに日も沈んでいる。
雨が降りつづけていることもあって外は真っ暗だった。
「…いくわ。
悪かったな、仕事の邪魔して。」
そう言いながらフェイルは少年を揺り起こす。
眠そうな目をこすりながら少年はフェイルを見上げた。
いくぞ、と声をかけるとフェイルは少年を担ぎ上げる。
「悪いな、ツケといてくれ。」
「え…?」
ビッグが言葉の意味を把握する前に、フェイルは少年を抱えたまま窓から身を躍らせた。
「ちょっ…!」
ビッグの部屋があったのは2階。
思わず静止の声をかけようとするが、既に遅かった。
呆然とした顔で、ビッグは開いたままの窓を眺めていた。
娼館を出たフェイルは少年を下ろすと、街を取り囲む塀に向かって走っていた。
ここ、アティクアは城塞都市という名を持つ。
北から攻めてくるであろう異民族に対して作られた都市。
それがゆえに外側からの侵入を防ぐ城壁が街を取り囲んでいた。
だがそれも外側からの話。
乗り越えることを想定していない内側からであればいくらでも脱出の方法はあった。
「いいか、この街から出るんだ。」
フェイルの言葉に少年は不安そうな顔を見せた。
自分に優しかった神父や修道女。
同じ年代の少年・少女やよく遊んでくれるサンタと呼ばれる大人たち。
彼らとの突然の別れに不安を覚えたのだ。
「少なくとも俺はいくぜ。
お前だけ残るか?」
少年の不安を感じ取り、フェイルは足を止めてそう言った。
間髪いれずに少年は首を横に振る。
フェイルは少年が自分から離れるはずがない、とわかっていてたずねたのだ。
「よし、いくぞ。」
あたりに人がいないのを確認して、フェイルは近くの倉庫から失敬した脚立を城壁に立てかけた。
脚立だけで2mほど、さらにその上にフェイルがたてばプラス2m。
少年がフェイルの肩に足をかければ、簡単に城壁の上に手が届いた。
雨で手を滑らせている少年を下から押し上げてやり、無事に登ったのを確認してフェイルも城壁の上によじ登る。
古傷が引きつって軽い痛みを覚えたが、
もともと身の軽いフェイルには城壁に上るなど簡単なことだった。
「さて…どこから降りるかな。」
5m以上はあると思われる城壁。
さらに地面はごつごつとした岩場ばかりだった。
先ほどのように少年を抱えて飛び降りるのはムリだろう。
少年に身を低くするようにジェスチャーで伝えながら、城壁の上を歩く。
バシャバシャと足下の水を跳ねさせながら二人は城壁の上を歩きつづけた。
「そんなに隠れなくてもいいじゃねえか。」
声が聞こえた。
やや離れたところから聞こえた声に、フェイルは慌てて振り向く。
城壁に最も近い家の屋根。
そこに1人の男が立っていた。
黒いスーツにサングラス。
以前見た男と同じ服装であった。
だが、緩められたネクタイやきちんと止められていないボタン。
ズボンからでているカッターシャツが、フェイルにラフな印象を与えた。
「お前達が逃げ回るから、俺までびしょぬれだぜ。」
そう言って自分が来ているジャケットをつまみ、ふってみせる。
ジャケットの裾が体に当たるたびに、びちゃびちゃと湿っぽい音が聞こえた。
「男に追いかけられて喜ぶ趣味はもってねえんだよ…。」
なんとかそれだけひねり出す。
少年を後ろにかばいながら、フェイルは男を睨みつけていた。
「つれないねえ…。」
暗い中で見えにくいのだろう。
サングラスを何度もいじりながら、ふざけた口調で男は言った。
「雨の中せっかく来てやったんだぜ。
自分からケツふっておねだりくらいしてくれたっていいんじゃねえか?」
そういって、男は一歩を踏み出した。
屋根の端に立っていた男が一歩を踏み出せば、間違いなく屋根から落ちる―――はずだった。
男はそのまま空中を踏みしめ、階段を上るようにもう一歩を踏み出す。
男の体は完全に宙に浮いていた。
「魔法…か。」
フェイルも噂程度には聞いたことがあった。
この街にも数名、あるいは数十名の使い手がいるという話も聞く。
だが、フェイルが魔法を見るのはこれが初めてだった。
「そんなに珍しいか?
まあ俺にはこの程度が精一杯だがな、暗殺業には結構役立つぜ。」
そう言ってちゃかすように手を広げ、ひらひらと羽ばたいてみせる。
その間にも男は一段ずつ階段を上るようにフェイルたちに近づいてくる。
一定の距離を取って、男は立ち止まった。
ポケットから二本のナイフを取り出して、一本をフェイルの足下に投げ捨てる。
「さあ、選ばせてやるよ。
殺されるか?それとも――――死ぬか?」
男の顔が大きく歪んだ。
殺人を純粋なゲームとして楽しんでいる顔。
醜く歪んだ顔がそこにあった。
フェイルはそれをみて、足元のナイフを拾い上げる。
「いいか。」
男から目をそらさないように注意しながらフェイルは少年に囁く。
「生きろ。それが、お前のすべきことだ。」
今までにない真っ直ぐな、真面目な言葉。
その意味を悟って少年はフェイルを止めようとした。
だがフェイルは少年を突き飛ばすと少年から離れるように走り出した。
バシャバシャと大きな音が、少年から離れるたびに次第に小さくなる。
「いいぜ…無駄な抵抗ってヤツは大好きだ!」
男もフェイルに向かって空中を走る。
空中を駆ける男に足音はなかった。
勝負は一瞬だった。
なれないナイフを手に走るフェイルの元に、男が一気に間合いを詰める。
咄嗟に後ろに飛ぶフェイルを、男は更に追っていた。
フェイルは自分の右側に男の影を見た。
咄嗟に振り向いた時に、男の顔が見えた。
ずり落ちたのかずらしたのか、サングラスの下の目が見えていた。
血を映すその瞳は、酷く冷たく見えた。
ばしゃり、と音を立てて足元の水溜りにフェイルが倒れこむ。
ナイフに貫かれた胸からは、どくどくと血があふれていた。
フェイルを中心に、水溜りがどんどん赤くなっていく。
「あっけなかったな。」
手の中でナイフをもてあそびながら、男は開いた片手でサングラスを押し上げた。
不満そうな顔でフェイルを見下ろす。
「今回ばっかりは…もうダメだな。」
誰にも聞こえない声でフェイルは呟いた。
彼の視界には黒い雲と、自分に向かって降り注ぐ雨。
どこにも光は見えなかった。
突然、黒い影が視界に割り込み、顔に雨以外の液体が降り注ぐ。
少年の泣き顔が見えた。
「さあ、次いこうか。」
男の冷酷な声が聞こえる。
自分の手からナイフが奪われるのをフェイルは感じた。
「やめろっ…。」
その声がどちらにむけられたものかはわからない。
だがこれから行われるだろう殺し合いを、フェイルは止めたかった。
その願いは、叶えられることになる。
「そこまでだ。」
その声は少年の後ろから聞こえた。
ナイフを持った男と同じ、黒いスーツにサングラス。
だがこちらの男はネクタイもシャツも、きちんとした形で身に付けている。
「遠野、ひくぞ。」
その言葉にナイフの男は明らかに不満の色を見せた。
「ふざけるな、まだガキが残ってる。」
先ほどあげたサングラスを片手でズリおろし、殺意のこもった目でもう1人の男を睨みつける。
だが睨みつけられても、その男は気にする様子もなかった。
「上からの命令だ。
引け。
それとも…俺とやるか?」
その言葉に遠野と呼ばれたナイフの男はナイフをポケットにしまいこみ、サングラスをあげる。
遠野はフェイルと少年を見て露骨に舌打ちをすると、
再びなにもない場所を歩き出した。
後から現れた男は少年達をを振り向くこともせず、遠野に続く。
そして、雨の中に二人は残された。
「……キ。…い、今回は……みた…だ。」
途切れ途切れに、フェイルは言葉を発していた。
少年はそのそばに座り込み、涙をぼろぼろとこぼしながらフェイルを見守っている。
「俺の言葉…忘れるなよ。」
そう言って、フェイルはムリに笑顔を作る。
だがその口からも血があふれてきていた。
フェイルが咳き込むたびに、傷口から口から血があふれてくる。
「…じゃあな。」
それが、最後の一言だった。
覚悟を決めてしまえば、後は早かった。
目に見えてフェイルの顔から生気が失せていき、そして。
「 っ!!!!!」
少年の、言葉のない叫びは雨に溶けて消えた。
気が付いたときには、少年はベッドの中にいた。
あれからどうなったのかがはっきりと思い出せない。
必死で思い返そうとして、少年はフェイルの最期を思い返した。
流れる血。
力の抜けていく手。
生気を失っていく表情。
自然と涙があふれた。
哀しくて、悔しくて、たまらなかった。
後から後からあふれる涙を何度も拭いながら少年は泣きつづけた。
何もすることができない。
何も考えることができない。
少年にできることは楽しかった、大好きだったフェイルとの思い出を思い出すことだけ。
もう二度とあの笑顔を、あの笑い声を、あの手を。
見ることも触ることもできないのだという現実に打ちのめされていた。
流れる涙は自分の毛皮に、ベッドに敷かれたシーツにどんどん染み込んでいく。
辛くても、苦しくても声を上げることすらかなわない。
爆発してしまいそうな感情は、少年本人であってもどうすることもできなかった。
大きすぎる感情を少しずつ切り崩し、涙に変える。
それだけが、感情をやりすごす唯一の手段であった。
「どうだ、アイツの調子は?」
男の声が遠くから聞こえた。
足音とともに少しずつ大きくなってくる。
「まだ寝てるみたい。
とりあえず風邪だとか、そういったことは無いみたいだけど。」
今度は女の声。
近づいてくる足音からも、二人連れであることが知れた。
少年は包まっていたシーツから顔を出し、
涙に濡れた目で部屋を眺める。
ベッドにクローゼット、小さなテーブルと観葉植物。
部屋にあるのはそれだけだった。
ずいぶんと簡素なその部屋は、普段から手入れされている様子が見て取れた。
やがて足音は部屋に唯一ある扉の前で止まる。
遠慮がちなノックの音がして、ゆっくりと扉が開く。
少年がまだ眠っていると思って遠慮しているのだろう。
できるだけ音を立てないように気遣っているその行動はとてもゆっくりとしていた。
長い髪を垂らした、人間の女性が顔を覗かせた。
少年と女性の目が合う。
「…あ。目が覚めたんだね。」
そう言って女性は扉を開けるとベッドに歩みよった。
すぐ後に体の大きな虎獣人が続く。
「おはよう、気分はどう?
私はナオミ、後ろの大きいのがジルね。」
そういってナオミはにこりと笑った。
少年は涙を流したままナオミの顔を見上げている。
ナオミも、すぐに少年の涙に気が付いた。
「どうかした?どこか痛む?」
心配そうな顔で少年の顔を覗き込む。
その間にジルは部屋の明りに火を灯していた。
あふれる涙を必死で拭い、少年はナオミの顔を見つめなおした。
心配そうな顔で彼女は少年をじっと見詰めている。
少年は視線をそらして、部屋の中を見回した。
「俺んちだよ。
雨ん中フラフラ歩いてたお前をナオミが見つけてつれてきたんだ。」
そういわれて、少年は自分の体が濡れていないことに気がついた。
ナオミが体を拭いて、着替えをさせてくれたのだろう。
少年は現在の状況をようやく理解した。
なんとか涙を拭い、ナオミに答えようとする。
だが言葉を発することができない少年は自分から説明することができなかった。
「大丈夫?」
ナオミの問いに少年は頷く。
それを見て、ナオミはベッドに腰掛けると少年を抱きしめた。
柔らかい胸が少年の顔に押し付けられる。
「無理はしなくていいからね…。」
ナオミの柔らかさ、暖かさに少年は再び涙を零した。
思わず彼女の背中に手を廻し、しがみつく。
涙を止めるのにはまだ時間がかかりそうだった。
「そろそろいいか?」
ずいぶんと時間がたってから、ジルが切り出した。
涙を流しすぎて、真っ赤に腫らした目をこすりながら少年は頷く。
胸元ををぐっしょりと濡らしたナオミは、まだ少年のそばにいて頭をなでていてくれていた。
「とりあえず…名前なんていうんだ?」
だがジルの問いに少年は何も答えない。
ジルは困った顔でナオミを見た。
「ねえ、名前は?」
ナオミが改めて聞いてくるが少年は答えることができない。
少年は自分が喋れないことを何とか伝えようと、
喉を押さえながら必死で口をうごかした。
その様子を見てナオミがようやく気づく。
「ひょっとして…喋れない?」
ナオミの言葉に少年は何度も頷いた。
ナオミとジルは一瞬顔を見合わせ、ジルが部屋の外へと出た。
やがて筆記具を持って戻ってくる。
「字は、かけるか?」
心配そうにたずねるジルに、少年は自分の名前を紙に書いてみせた。
「……よめねえ。」
「もう、何やってるのさ。
貸してごらん。」
そういってナオミはジルの手からメモ用紙を奪い取った。
ナオミの目に飛び込んできたのはミミズがのたくったような曲線。
それは決して文字と呼べないようなシロモノだった。
「……。」
「読めないだろ?」
ジルの言葉に返事もせず、ナオミはその文字をじっと見つめた。
しばらく沈黙が続く。
「…これ、ユじゃない?」
「なんで疑問系なんだよ。」
自信なさげに言うナオミにジルがつっこんだ。
実際、少年が教会の孤児院で暮らしていたときも少年の文字を読めたのはフェイルくらいのものだった。
「どうしよう、字も書けないんじゃあ…。」
困った顔でナオミは少年を振り返った。
少年は哀しそうな顔でうつむいている。
「ねえ、ライオンくん。
お母さんかお父さんと一緒にいたの?」
ナオミが少年の顔を覗き込んでたずねた。
イエス・ノーで答えられる質問なら少年でも答えられると考えたのである。
少年はナオミの問いに首を横に振った。
「じゃあ…1人で歩いてたの?」
その問いにも少年は首を横に振った。
少なくとも覚えている間はフェイルとずっと一緒にいたと少年は記憶している。
「うーん、じゃあその人のいるところわかる?」
これにも少年は首を横に振った。
フェイルが最期を迎えた場所もわからないし、わかったとしても案内したところで意味はない。
ナオミは少年の問いに少し考え込んだ。
「住んでた場所、わかるかな?」
その問いに少年は頷きそうになって、それをやめた。
彼らに頼めば教会の場所には連れて行ってくれるかもしれない。
たとえ正確に道がわからなくても彼らなら一緒に探してくれるだろうとも思えた。
だが、孤児院に帰ればあのスーツの男達がいるかもしれない。
以前から自分が住んでいた場所は、やつらに知られているかもしれない。
そこに戻ることはとても危険なことに思えた。
「どうしたの、わからないの?」
少年は、かすかに首を横に振った。
「わかるけど、自信が無いってことかな。
一緒に探してあげるから、帰ろう?」
その言葉に、今度は大きく首を横に振る。
それは日常との決別を、少年が決断した瞬間でもあった。
少年の答えにナオミは戸惑う。
少年は申し訳なさから思わずうつむく。
戸惑っているナオミに、ジルが声をかけた。
「いいんじゃないか。
オトコは家に帰りたくない時もあるもんさ。
なあボウズ?」
そういってジルはニヤリと笑ってみせた。
「…あんまり論理的じゃないけど?」
「うるせえ!」
ナオミの冷静なつっこみにジルは慌ててごまかす。
二人のやり取りを、少年はぼんやりと見上げていた。
続