2/男達の決断
「はーい、朝ごはんですよー。」
昨晩の残り物を暖めなおした、あつあつのシチューがあふれそうなほど入った鍋をナオミが持ってくる。
テーブルの上に並べられた皿に順番にシチューを入れていく。
皿と鍋を比べれば、シチューの量が皿の20杯ぶんくらいはあることがわかった。
ナオミはシチューをテーブルの真中に置くと、少年の正面の席に座った。
少年の隣には虎のジル、その向かいには牛のバズも既に座っている。
この家にいる四人が全員そろっていた。
「いただきますっ!」
手を合わせて牛が叫ぶ。
言葉とほとんど同時に皿を抱えると、バズは凄い勢いでそれをかきこみ始めた。
ナオミはスプーンを使って、上品に一口ずつ飲んでいる。
ジルはといえば、猫舌なのだろう。
スプーンを使ってぐるぐるとシチューをかき混ぜていた。
3人のそんな様子を眺めながら少年もゆっくりとシチューを口に運ぶ。
「ねえライオンくん。」
食事の手を休めてナオミが口を開いた。
少年もスプーンを置いてナオミの顔をみる。
「うちに来てもう一週間にもなるし…。
今日あたり散歩にでも出てみようか。」
その言葉に少年は俯いた。
ナオミがずっと引きこもっている自分を心配していることは、
少年にもよくわかっている。
ただ、安易に外に出ることはやはり危険に思われた。
「お、出かけるのか?
俺も休みだし一緒に行こうぜぇ。」
牛のバズが満面の笑みを浮かべながら間に入ってきた。
ナオミも笑顔で頷いている。
いつまでも引きこもっているわけにも行かないし、
力の強そうなバズがいればいざ襲われても平気かもしれない。
少なくともナオミと二人よりはずっといいだろうと、少年も頷いた。
「いいよなあ、気楽で。」
いまだにシチューをスプーンでかき回しているジルが呟いた。
ジルは今日も仕事である。
「なんかジル忙しそうだよね。
なんかあったの?」
「さあ…。
ほら、街の北に砦部分あるだろ。
なんかあそこの補強やるらしくてな…。」
そう言ってジルは大きく溜息をついた。
石屋をしているジルはおかげで大忙しらしい。
「まあ仕事だししょうがないよ。
休みまで頑張って。」
そう言ってナオミは微笑んだ。
その笑顔を見てジルは溜息を一つつくと、シチューを口へ運んだ。
「あっちぃ!」
ジルは舌をおさえて飛び上がった。
その日の午後、少年は久しぶりに町を歩いていた。
ずっと部屋にこもりきりであったため、日の光を浴びること自体が久しぶりである。
少年は光から身を隠すように、バズの後ろに隠れながら歩いていた。
もちろんなるべく目立たないように、という意図なのだが
こそこそと隠れるような動きはむしろ逆に目立っていることに少年は気づかない。
ナオミもバズも、少年の様子をみながら苦笑を浮かべるがあえて何も言うことはしなかった。
とりあえず少年の好きにさせてあげたい、という思いからである。
それでも周りからの視線に、ナオミは少し顔を赤らめていた。
「えーと、どこか行きたい所ある?」
ナオミの問いに少年は首を横に振る。
ある程度予想していた答えにナオミは笑顔で頷く。
「じゃあとりあえず大通り、歩いてみようか。
気になる場所があったら適当に寄って行けばいいし。」
そういってナオミは少年の手をそっと握る。
握られた手に戸惑いを覚え、少年はナオミの顔を見上げた。
視線に気づき、ナオミは少年に笑顔を向ける。
少年はその笑顔をぼんやりと見上げていた。
「これ、可愛くないかなあ。」
パンダのイラストがプリントされたシャツを、
少年の胸元に合わせながらナオミは言った。
少年はよくわからないが、とりあえずナオミに言われるままに動く。
バズといえば、はなから理解を諦めているのか
片っ端からナオミの言葉に頷いている。
「…こっちの方がいいかな?」
こんどは原色にカメレオンのイラストがアレンジされたシャツを持ち出してくる。
「さっきのよりこっちのがいいかなー。」
完全に少年を着せ替え人形にしながら、ナオミは1人で呟いていた。
少年もバズも既に心ここにあらず、である。
ナオミの言葉を適当に聞き流しながら、少年は視線を店の外に移した。
人ごみから突き出るようにして、大きな翼が存在を主張していた。
背中から大きな翼を生やしたその人物は、長い黒髪を垂らしている。
髪の黒と翼の白のコントラストが美しかった。
少年は走り出した。
確かに翼を生やした人間、というのは珍しい。
少年も見るのはそれが初めてだった。
だが少年が駆け出したのはそんなことが理由ではない。
強いて言うならば、”におい”。
二人を置いて店から飛び出し、少年はあたりを見まわす。
探すまでもなく、翼はすぐに見つかった。
少し先の角を曲がる後姿が見えた。
人ごみをぬうようにして少年は走る。
ただ直感にしたがって少年は走った。
逃がしてはいけない。
これが、最後の糸。
何かに繋がる糸。
「ん?」
少年に着物を捕まれて、その女性は足を止めて振り向いた。
翼を持った女性の視線が少年を射抜く。
「私に何か用か?」
突然引き止められても、怒った様子も警戒した様子も見せぬままそう言った。
隣で一緒に歩いていた狼の少年も立ち止まって不思議そうな顔で少年を見つめている。
用があるのか、少年本人にもわからない。
全力で走ってきたため、大きく肩で息をしている。
「どうした?」
女性の言葉に、少年はやはり答えない。
もちろん答えたくても少年には答えられないが。
何も答えようとしない少年に、女性と狼は怪訝な顔をする。
「用が無いのならば、放してくれぬか?」
困った顔で言う女性に、少年は首を横に振った。
放すわけにはいかない。
「すいませーん。」
後ろからナオミの声が聞こえてきた。
追いついてきたなナオミが少年を抱き上げる。
「ほら、放して。」
ナオミの言葉にも少年は首を横に振った。
少年を囲んで、四人が困った顔を見せる。
ナオミが怒ろうと口を開きかけたその時、翼の女性が何かに気づいた。
「ん…ぬしは…。」
今度は皆の視線が女性に集まる。
「イスズ、知り合い?」
狼が不思議そうな顔でたずねる。
その問いにイスズと呼ばれた女性は首を横に振った。
「だが…。
場所を変えるぞ、ルーブ。
獅子の少年も来るがよい。」
そう言ってイスズは少年の手を取って歩き出した。
ルーブは一瞬あっけに取られた顔をして、慌ててイスズの後に続く。
ナオミとバズは困った表情を浮かべて顔を見合わせた。
「ぬしらも来い。
少年ひとり、連れて行かせるわけにもいくまい。」
イスズの言うことも最もである。
バズとナオミはしょうがなくイスズ達についていく事にした。
大通りから少し離れた場所にある小さなアパート。
ルーブとイスズが暮らすその家で、五人はテーブルを囲んでいた。
イスズの希望と思われるその部屋は、狭い部屋に畳が敷かれていた。
湯飲みの熱いお茶が入れられ、少年達の前に出される。
「さて…。」
熱いお茶を飲んで一息ついたイスズが口を開いた。
真剣なまなざしが少年に向けられる。
「いきなり本題に入るが…ぬしも”私と同じ”か?」
イスズの問いに皆が理解できないといった顔を見せる。
ただ1人、少年だけはゆっくりと頷いた。
「なるほど…。
それに気づいて私を引きとめたのだな。」
その言葉にも少年はゆっくりと頷いた。
さすがに何のことかわからず、ルーブが口を挟む。
「えっと…何のことかわかんないんだけど…。」
ルーブの言葉にイスズは少し考え込む。
そのままの表情でナオミやバズを眺め、意を決したように口を開いた。
「ルーブには、私が人に造られた存在であることは話したな?」
その言葉にルーブは頷く。
ナオミとバズはいまだついていけない表情でイスズの顔を見つめている。
「私に両親はおらぬ。
科学、とかいう怪しげな技術を用いて人間が私を造ったのだ。」
今度はナオミとバズに説明するように、イスズが話した。
造られた、という言葉に二人は怪訝な表情を浮かべる。
「それは…魔法とは違うんですか?」
ナオミの言葉にイスズは首を横に振った。
「魔法とは違う。
才能などは関係ない。
決まった材料をそろえて決まった方法を取れば、誰でも同じ結果が得られる。
それが科学というものだ。」
バズは頭を抱えて必死で考え込んでいる。
ナオミは少し考えたように視線をそらし口を開いた。
「例えば…水を火にかければ沸騰する、というような?」
「そうだ。
それと同じように…より難しい条件をそろえれば、
私のように生物を造ることも可能であるらしい。
私は、そうして生まれた。」
バズは既に理解を諦めたようで、お茶と一緒に出された煎餅を1人でバリバリと音を立てて食べだした。
バズが煎餅を食べる音だけがしばらく響く。
「この子も、貴女と同じだと?」
「そうだ。
本人もそう認めている。」
イスズの言葉に、ナオミは少年に視線を向けた。
少年は俯いて、じっと床を見つめている。
ナオミからは少年の表情を伺うことはできない。
「じゃあ…ライオン君が喋れないのはその辺に原因があるのかな?」
優しい声でナオミがたずねる。
だが、少年にもその答えはわからなかった。
生まれたばかりの頃についてはほとんど覚えていない。
しかし、自分の声を聞いた覚えは一度もなかった。
ルーブが立ち上がり、バズの湯飲みに新しいお茶を注ぐ。
その熱さにも構わず、バズは喉を鳴らしてお茶を飲み干した。
間。
「えっと…。」
会話が止まってしまい、言い出しにくそうにナオミが口を開く。
「ライオン君の生まれがわかったのはいいけど…。
それで…?」
たずねるように視線を向けられてイスズは言葉に詰る。
「む…。」
イスズもまた言葉に詰る。
イスズが気になって家まで連れて来たのは自分と同じ生まれと気づいたからである。
そのこと自体は少年本人も簡単認めたので、イスズが気にしたことは解決したとも言えた。
「そもそもは、ぬしが私を呼び止めたのではなかったか?」
そう言ってイスズは少年に視線を向ける。
少年は頷くが、言葉が出ないために言いたいことも説明できず
下を向いたまま黙り込んでしまった。
「これ、使っていいよ。」
そういってルーブがペンと紙を少年に渡す。
少年はそれを受け取ると必死で紙に文字を書き始めた。
ペンが紙の上を走る音を聞きながら、全員が少年を見つめる。
そして少年が書き終わった紙をイスズに渡した。
「む。」
少年に渡された紙を見て、イスズは思わず一言漏らした。
それ以来何も言わないイスズをみて、ルーブも横から覗き込む。
ナオミはそれをみながら苦笑し、バズは相変わらずお茶とお茶菓子をむさぼっていた。
「読めないや…。」
ルーブが残念そうな顔でそう言った。
イスズとルーブは困ったように顔を見合わせる。
「私たちもコミュニケーションが取れなくて困ってるんですよ。」
ナオミが困っている二人をみてそう言った。
「なんだ、ぬしらは一緒にくらしておるのではなかったのか。」
イスズの言葉にナオミはなおさら困った顔で首をひねる。
しばし考え込んで、口を開いた。
「私が彼に出会ったのが、この間の雨の日なんです。
それ以前はまったくわからなくて…。
両親もいないようだしどうしたらいいのか…。」
そういって隣にいるバズを横目で見る。
バズはすでにお茶菓子を食べ終え、暇そうに辺りをきょろきょろと見回していた。
「あ、そうだ!」
ルーブが突然声を上げた。
それに驚いたイスズとナオミ、それにバズの視線がルーブにあつまる。
「ねえライオンくん、絵を描いてみてよ。
字はかけなくてもそれならいけるんじゃない?」
そういってルーブはペンと紙をポケットにしまうとさらに大きな紙と色鉛筆を引っ張り出してきた。
「ふむ、その可能性もなくはないな…。」
イスズはそうつぶやくと少年の動きを静かに見つめた。
ナオミとバズも思いつかなかった可能性に息を呑んで見守る。
およそ五分後。
「ダメだな。」
出来あがった絵をみてバズがつぶやいた。
その言葉に全員が苦笑を浮かべ、少年は申し訳なさそうな顔になる。
「バズ、はっきり言いすぎ。」
ナオミが少年の表情に気付いて小さな声でとがめた。
言われて少年に気付いたバズは、申し訳なさそうな顔で口をつぐむ。
「これ、ひまわりかなあ…。」
ルーブとイスズは必死で少年の絵を解読しようとしていた。
描かれた絵は真ん中にぽつんと二本の棒らしいものが描かれている。
一本は、ルーブが言うようにひまわりそっくりだった。
「この部分が茎で…この左右にちょっと出てるのは葉っぱ?」
その言葉に少年は力なく首を横に振った。
それを見てルーブは再び絵に視線を戻す。
「…ひょっとすると、これは獅子ではないのか?」
ルーブが指差していた『ひまわり』をみてイスズは言った。
「あ、言われて見ればイスズが描いたライオンにそっくりだね。」
「わ、私のことはどうでもよい!
少年、これは獅子だろう?」
ルーブの言葉に顔を真っ赤にしながらイスズはごまかすように少年に詰め寄った。
獅子、という言葉を聞きなれていなかったのか一瞬少年はきょとんとした顔を浮かべる。
そして力強く、何度も頷いた。
「やはりそうか…。
ではこちらの小さい獅子がぬしだな?」
そういって隣にある小さな棒の絵を指差す。
少年は再び頷いた。
「ふむ…一人ではなく同じ獅子と一緒にいたということか。
両親ではないのだな?」
その言葉に三度少年は頷くと、二枚目の絵を描き始めた。
「よくわかりましたね…。」
ナオミは関心したように少年の絵を眺めた。
「絵が下手なもの同士通じるところがあるんだねえ。」
「ルーブっ!
いい加減にせんかっ!」
イスズは顔を真っ赤にして怒鳴った。
二枚目。
先ほどと同じ、大きなライオンと小さなライオン。
それ以外に黒い塊のようなものがひとつ。
そして今度は全体に紗がかかっていた。
「ふむ、これは雨の中だな。」
イスズの言葉に他の三人は感心したように頷く。
だが流石に黒い塊はイスズでもわからなかった。
「生ゴミ…ではないな。
おそらくこれも人物なのだろうが…。
何者かまではわからんな。」
そういって諦めるようにそっと二枚目の絵を置いた。
三枚目。
今度は最初と同じように二人の場面に戻っていた。
違うところは、大きなライオンが横になっているということ。
そして、その周りが真っ赤に塗られていること。
「これ、夕焼けかな?」
ルーブが横から覗き込んでそう言った。
「紗がかかっているということは雨がふっているはず。
この紅が夕焼けのはずがない。
おそらくは…血だな。」
そういって少年を見た。
出来れば違っていて欲しいと思うイスズの思いと裏腹に、
少年はゆっくりと頷いた。
「そうか…。
その一緒にいた獅子を亡くしたのだな。」
少年は下を向いたまま、顔を上げなかった。
ぽたり、と畳の上に水滴が落ちる。
ナオミはそっと少年を抱き寄せた。
声を出すことなく、少年は泣いた。
少年は、自分のせいでフェイルが死んだのだ、と自分を攻め立てて泣いている。
呵責の念にかれれた少年は一人、泣き続けた。
自分のせいでフェイルが死んだのだと。
自分がフェイルを殺したのだと。
少年は自分をなじった。
そんな少年の心に、誰一人気付くことはなかった。
「えと…とりあえず晩御飯でもどうかな。」
少年が泣き止むのをまってルーブがいった。
「そうだな、もう日も暮れた。
三人とも食べていけばよい。」
イスズの言葉にナオミはバズを見上げた。
ジルのことが気にかかったが、最近は仕事で帰りも遅い。
それまでに帰ればいいだろう。
「じゃあ、折角ですからご馳走になります。」
胸に抱えた少年を見下ろしてからそう言った。
泣き止んでも、少年はナオミから離れようとしていなかった。
イスズとルーブは並んで台所に立つ。
「ルーブ、少し気になるところがあるのだが。」
イスズは三人に気取られぬよう、小さな声で言った。
ルーブもそれを察して声を出さずに目で問いかける。
「最初は二人で、その後三人になり、その次の場面では一人が死んでいる。
それはつまり…」
「その『三人目』に殺された、ってこと?」
イスズの後をルーブが続けた。
あまり考えたくはないが、おそらくそれが一番説明が付くだろう。
イスズはそう考えていた。
「じゃああの子は…。」
「おそらくはあの『組織』に追われているのだろう。
詳しいことがわからぬ以上確かな判断は出来ぬがな。」
その言葉をきいて、ルーブは昔を思い出した。
まだイスズが『組織』に追われていたころ。
「そうか…そういえば、あの黒い塊みたいな人影もトラさん達の服と同じだね。」
イスズは神妙な面持ちで頷いた。
「もし私の想像が正しければ厄介な状況だ。
奴らはどんな手段を使ってもあの子を捕らえるだろう。
それにあがらうには、闘うか逃げるか。
いくら闘えども、奴らの人数にはきりがない。
いくら逃げようとも、奴らは地の果てまでも追ってくる。」
イスズの言葉にルーブは少年を振り返った。
まだ年端もいかぬ少年がそのような過酷な運命を背負っているとは到底思えなかった。
「じゃあ、どうすれば…?」
「あの時と同じだな。
…頭を潰すしかあるまい。」
それはまさにイスズが開放されたとき。
ルーブともう一人、
別の目的を持ち同じ場所に侵入していた少年。
そしてその場でであった人たちに助けられ、イスズとルーブは『組織』の一部を壊滅に追い込んだのだ。
「奴らは頭を潰せば弱い。
例え潰せなくとも、決定権を持つのは頭だ。
会うことが出来れば何らかの活路は見出せよう。」
イスズは簡単にそういうが、もちろんそれは生易しいことではない。
少年がどこから来たのか、また奴らがどこから来るのか。
そこのボスは誰か。
そして、そのボスを説得、あるいは戦いをおこなわなければならない。
成人もしていない少年には少し辛すぎる道とも思えた。
「逃げろっ!」
イスズはとっさに叫んだ。
理由は分からないが、彼女は自分の勘の良さをよく知っている。
とにかく、直感に従った行動だった。
「え?」
だがナオミも少年も言葉の意味を理解できない。
イスズ以外に理解できたのは唯一、バズだけだった。
ナオミと少年を小脇に抱える形で、とっさに窓から飛び出した。
それと同時にドアが切り裂かれ、黒い人影が飛び込んでくる。
その人影は猛スピードで部屋の中に飛び込んだかと思うと、
そのまま足のバネを利用してバズの後を追うように窓から身を躍らせた。
何事がおこったか把握しきれていないルーブも、
そしておそらく唯一全てを理解しているイスズも。
人影に続いて窓から飛び出した。
辺りはすでに夜の帳が下りている。
そこに溶け込むように、人影は立っていた。
それに対峙するようにバズが立ち、その後に少年を抱えたナオミがいる。
「面白いじゃねえか、牛。」
そういって黒服の男は小さく笑った。
「勝負と行こうぜ。
やるか、やられるかだ。」
そういって黒服は胸の内ポケットから一本のナイフを取り出した。
その時になって、ルーブは男がナイフを握っていることに気が付いた。
「…。」
投げられたナイフを手にとって、バズが男と向かい合う。
先に動いたのは黒服だった。
もぐりこむような低い姿勢でバズの懐へと飛び込んでくる。
しかしそれを読んでいたようにバズは大きく後へ跳んだ。
それとほぼ同時に大きくナイフを横に振るう。
黒服は軽く身をそらせてそれをかわした。
再び間合いを取って二人は対峙する。
その一度だけで二人はお互いの力量をつかんでいた。
おそらくナイフの扱いにかけては黒服の方が上だろう。
だが、バズにはそれを上回る傭兵時代の経験があった。
「いいぜ、牛!
こんなに楽しいのは初めてだ!」
そう言いながら黒服は間合いを詰めてナイフを振るう。
バズはそれを紙一重でかわしながらナイフと、拳をふるった。
手数で押す黒服とそれを確実にかわすバズ。
二人は大きく動きながらも、一種の膠着状態に陥っていた。
その時、バズが大きく後へ跳んだ。
後を追おうとした黒服は足を止めてナイフを振るう。
ナイフの軌跡には、宙を舞う紙切れがあった。
「つき『刺され』!」
ナオミの言葉があたりに響く。
そして、その言葉に答えるように切り裂かれた紙切れは数本の氷柱へと姿を変えた。
黒服はとっさに大きく跳んでそれをかわした。
態勢を整え、ナオミをにらむ。
「呪符派の魔法使いか…。」
少年が持っていた紙をちぎり、そこに鉛筆で書き込んだ即興の呪符。
ナオミはすでにそれを数枚手元に用意していた。
「確か…紙に書いた文字と、キーとなる言葉の組み合わせで魔法を発動させる、
呪文派と魔方陣派の境に位置するような奴ら、だったよな。」
黒服は確認するようにつぶやいた。
もちろんナオミはそれに答えない。
「呪文派も、魔方陣派も殺したことはあったが…
呪符派は初めてだなあ。」
そう言うと黒服はにやりと笑った。
黒服の言葉に少年は目を見開く。
「よう、ガキ。
また会ったな。」
少年の視線に気がつき、黒服は言った。
近所の子供に挨拶でもするように、それでいてひどく冷たく。
「貴様が、この少年の知り合いを殺したのだな?」
イスズが言った。
黒服はそれに笑って答える。
それを見てイスズは口を閉ざした。
ルーブの腕をつかみ、彼が飛び出さないように必死で抑えている。
「さて、二対一になったわけだがどっちからいくかな。」
一瞬悩むような顔、しぐさを見せた後。
「お前だ!」
黒服はあっという間にナオミの目の前まで迫っていた。
とっさにナオミは呪符を全て投げ捨てる。
「『燃え』上がれ!」
ナオミの言葉に、放たれた呪符が燃え上がる。
それらは次々と火をつけて、爆発するようにその空間に炎を撒き散らした。
熱で前髪がこげるのを感じながら、ナオミは倒れこむ。
炎を切り裂くように振られたナイフは、ナオミの胸を切り裂いていた。
「まず一人だな。」
戦いの経験のないナオミは、黒服の動きについていけなかった。
バズですら気付いていない、彼の特殊な動きに対応できなかったのだ。
それでもナオミは必死で手をのばす。
「ふき…『上がれ』!」
黒服は完全に油断していた。
もう呪符がないと完全に思い込んでいたのだ。
ある意味、それは正しかった。
描かれたのは、紙でなく地面。
いつの間にか描かれていた陣に、黒服は立っていた。
「ちっ!」
黒服の舌打ちとともに、地面がとてつもない勢いで吹き上がった。
それはさながら噴火のようで、轟音とともに黒服を宙高くまで弾き飛ばす。
そして、そのまま黒服は宙を蹴った。
何もない空間を蹴り、着地するように何もない空間にとどまる。
「ふざけやがって…。」
そう言ってナオミを見下ろす黒服の目は、先ほど以上の殺意がこめられていた。
「そこまでですよ、遠野君。」
女性の声が響いた。
少年が辺りを見回すと、イスズとルーブの後に1人の女性が立っている。
彼女もまた、黒いスーツとサングラスをかけていた。
「今の音はまずいですね。
早めに去りましょう。」
その言葉に遠野と呼ばれた黒服は、素直にナイフをしまいこんだ。
はるか高い空中にとどまったまま、遠野はバズを見下ろす。
「牛…。次はテメエの番だぜ。」
そう言うと、遠野は宙を蹴るようにしてあっという間に姿を消した。
黒服の女性もいつの間にか姿を消していた。
緊張していたイスズとルーブもそれに気付いたのか大きく息を吐いている。
少年がナオミのもとに駆け寄る。
ナオミの胸元は切り裂かれ、どくどくと血を流していた。
「ナオミ!」
遠野がいなくなったのを確認してバズも駆け寄る。
しかしその傷はすでにバズが応急処置できる状態を超えていた。
「しっかりしろ、ナオミ!
すぐ病院に運んでやる!」
傍らで涙を流す少年を見てナオミは微笑んだ。
「…私は、大丈夫だから。」
それがやせ我慢であることは誰の目にも明らかだった。
流れる血とともに、ナオミの命が流れていく。
「下がっていろ。」
イスズが、口を開いた。
ナオミを抱き上げようとするバズを制して、そっと歩み寄る。
白銀の翼を大きく広げ、イスズはナオミの胸元にそっと触れた。
「そんな悠長なことをしてる場合じゃ…!」
バズの言葉はそこで途切れた。
ナオミの傷が、ゆっくりと確実にふさがっていく。
なぜかを問うことも出来ず、ただナオミが助かるという期待感にバズはそのまま見つめ続けた。
ビキ、と嫌な音がしてイスズの羽の先端が垂れ落ちる。
まるでその部分の筋でも切り裂かれたかのように。
「イスズ!」
ルーブが思わず叫んだ。
「構わぬ。
この翼はもとよりヒトの不幸を背負うためにあるもの。
このような傷はすぐに癒える。」
そういわれて、少年はすぐに分かった。
イスズはナオミの傷を自分の翼に移し変えているのだと。
少年はイスズの持った力をうらやんだ。自分にも力が欲しいと。
そしてただ祈った。ナオミが助かるように。
治療を終えたナオミを寝室に寝かせ、ルーブはその看病についた。
居間にいるのはイスズとバズ、それに少年。
「…なぜかは知らぬが、どうやぬし自身ではなくぬしの周りの人間が狙われているようだ。」
そういってから、イスズは少し後悔した。
明らかに落ち込む少年をみて、どうしてもう少し優しくいえぬのか、と悔いた。
「少年よ、選択の時だ。」
イスズは言った。
「ぬしの前には二つの道がある。
ひとつは、戦いの道。奴らと戦う勇気があるなら選ぶがよい。
ひとつは、逃げの道。奴らと戦う気がないのなら選ぶがよい。」
静かに言ったイスズを、少年はゆっくりと見上げた。
自分が選択を求められているのだろうことはすぐに理解できた。
しかし、どうすればいいのか分からない。
自分には戦う力も、守る力もない。
逃げるしかないのか、と思えた。
少年が悩んでいると、イスズは続けて口を開いた。
「もし戦うというのであれば力を貸そう。
幸い、私の知り合いには情報を持ったものもいる。」
そこで一旦間をおく。
「もし逃げるというのであれば全てを捨てよ。
ぬしはもう、誰と会うことも許されぬ。
今すぐこの場を去れ。」
それはつまり、誰も巻き添えにするなという言葉だった。
少年は動かなかった。
動けなかったのかもしれない。
だが、それはどちらでも変わらないことだった。
それが、少年の決断なのである。
「後悔、しないのだな。」
イスズの言葉に少年はゆっくりと頷いた。
間違いのない意思表示に、イスズは複雑な感情を覚えた。
少年が前に進む決心をしたのは喜ばしいことである。
しかしこの先に待つであろう茨の道を想像すると、素直に喜ぶことも出来なかった。
「…ともかく、今晩はみな泊まっていくがよい。」
「あ、いや…。」
イスズの言葉に今まで黙って聞いていたバズが口を開いた。
「いい加減帰らないと、家で帰りを待ってる奴がいてな…。」
そういって少し顔を赤らめた。
「ふむ…ならば彼女は私が預かろう。
少年も帰るか?」
イスズの言葉に少年は強く首を横に振った。
この場に残ってナオミを守るつもりなのだろう。
それを見てイスズは小さく笑った。
少年の肩を叩き、頼もしいな、とつぶやく。
「二人は私が責任をもって預かろう。
ぬしは帰ってもう一人にも注意してやるといい。」
イスズの言葉にバズは頷いた。
「今日は色々世話になった。」
そういってバズは頭を下げると立ち上がった。
「うむ、また来るがよい。
今後のことについても話さねばならんしな。」
その言葉を聴いてから、バズは部屋を出た。
「…ライオン君は?」
ナオミの声がした。
ルーブが眠りそうになっていた頭を上げると、ナオミの目が開いていた。
その目に宿る光はまだ弱々しかったが、それでもしかっりとしたものを感じ取れた。
「無事ですよ。
今イスズと一緒に隣の部屋にいます。
…バズさんはお帰りになられましたよ。」
ルーブの言葉を聴いて、ナオミは安心したように笑った。
「もう少し休んでおいた方がいいですよ。
とりあえず、僕達に任せて置いてください。」
「うん…ありがとう…。」
そういってナオミはそっと目を閉じた。
「さて…。」
イスズはその場に集まったものの顔を眺めた。
小さなちゃぶ台を囲むようにして、イスズ、ルーブ、バズ、少年が座っている。
「どうすりゃいいんだ?」
先を急ぐバズの言葉をイスズが手で制した。
「まずは目的をはっきりさせることから始めねばならん。
私たちの目的はなんだ?」
突然質問をされて、バズはすこし困った顔を見せる。
必死で頭をひねり、なんとか質問に対する答えを考えた。
「…あいつらが来なくなるようにする。」
その答えにイスズは思わず苦笑した。
バズにしては珍しく頭を使った方なのだがもちろんイスズたちにそんなことは分からない。
「そのためにはどうするか、だ。」
イスズの言葉をルーブが続ける。
「あの人たちの上司と掛け合って手を引いてもらうか、
こっちに構ってられないくらい壊滅的なダメージを与えるか、ってとこ?」
イスズはその答えに満足そうに頷いた。
「まあ話し合いで通じるとは思えぬが…
どちらにせよ奴らの本拠地に乗り込むのが大前提となるな。」
流石のバズも言わんとしていることが分かったらしい。
嬉しそうな顔を見せて口を開いた。
「つまり奴らのアジトを突き止めればいいんだな!」
「では、その方法は?」
イスズに言われて、バズは再びシュンと下を向いた。
すればいいことが分かっただけで、方法などといった細かいことには気が回らなかったようである。
イスズは少年を見た。
真剣な顔でイスズやルーブの言葉を聞いている。
「それは大丈夫ですよ。
僕達の友人にそういった情報に詳しい人がいるんです。」
落ち込んだバズを元気付けるようにルーブが言った。
その言葉をきいてバズの耳がピンと立ち上がる。
まるで百面相だな、とイスズは考えていた。
「じゃあそいつらに連絡取ればいいんだな!」
「ええ。
もう連絡はしてありますから、あとはこの町に来てくれればとりあえず一歩前進ってところですね。」
ルーブの言葉を聴いてバズは不思議そうな顔を見せた。
「それじゃあ…何を決めればいいんだ?
目的もはっきりしたし、場所もじきにわかるんだろ?」
バズの言葉に今度は少年も頷いた。
「当面私たちがすべきことだな。
奴らが襲ってきたときにどうしのぐか、を考えねばならん。」
その言葉に反応するかのようにバズは突然立ち上がった。
「あのナイフ野郎、今度来たら絶対にぶん殴ってやる!」
大きな声でそう叫ぶと鼻息も荒く虚空をにらみつける。
突然のその行動にイスズもルーブも目を丸くした。
少年はその行動に驚くこともなくバズのズボンの裾をくい、と引く。
「ん。」
バズが少年の方を見ると、少年はバズを見ながら首を傾げて見せた。
勝てるのか、ということらしい。
「おうよ、次は勝って見せるぜ!
そもそもナイフなんてしみったれたもんで勝負するからやりにくかったわけでな…。
みろ、このとおり今日は昔愛用してた斧持ってきたんだぜ!」
そう言うと脇においていた小さな手斧を少年に見せて笑った。
少年は感心するようにそれを見つめて何度も頷いている。
「ぬしは…。」
それを見ていたイスズは落ち込んだかのように小さな声でつぶやいた。
弱々しい声にバズは何事かと振り返る。
「ぬしは馬鹿か!」
「ぶもっ!」
突然あげられた大きな声にバズは思わず声を漏らしてその場にしりもちをついた。
「そのような目立つことをしてどうする!」
「で、でもよう…。
これでないとあのナイフ野郎に勝てねえし…。」
イスズの剣幕に押され、バズは弱々しい声で反論した。
「そもそもぬしが戦う必要などないのだ!」
その言葉にバズは唖然とした。
隣で聞いていたルーブもまた、予想外の答えに驚く。
「でもイスズ、今のところあの人と互角に渡り合えるのはバズさんだけじゃ…。」
「ルーブ、ぬしも勘違いしておる。
そもそも私たちは奴と戦う必要はないのだ。」
イスズの言葉を、その場にいる全員が理解できないといった顔で聞いていた。
皆考えることを諦めて素直にイスズの言葉が続くのを待つ。
「よいか、私達は奴らをやり過ごしさえすればよい。
そしてそのためには勝つ必要はない。
ただ、負けなければよいのだ。」
そういってイスズは全員の顔を見回す。
それでも、まだ誰も理解できていないようだった。
「私達のなかで、唯一命を狙われていない者がいるだろう。」
そこまでいわれて、ルーブはようやく気が付いた。
「まさか…ライオン君が?」
不安が混じった声で尋ねるルーブに、イスズはゆっくりと頷いた。
「何故かは知らぬが奴らは少年を狙わぬ。
互角に戦っていたはずのバズの横を通り抜け、ナオミを攻撃するような余裕すらあったのに
少年本人を狙う気配はまったくなかった。
つまり、狙われているのは少年ではなく少年の周り。
それは、分かるな。」
その言葉に少年は神妙な面持ちで頷く。
バズも何とかイスズの言っていることについてきているらしい。
「ならば、唯一狙われない少年。
ぬしがあの男と戦うのだ。
ぬしは奴に殺されることはないし、殺してはいかんぬしが矢面に立てば奴らもやりにくいだろう。
…もちろん、戦わないに越したことはないのだが。」
そういってバズの持つ斧を見た。
視線で目立つな、と言っていることがバズには痛いほど伝わってきた。
「じゃあ…僕達もひとまずこの家から離れた方がいいのかな。
もうこの場所知られちゃってるわけだし。」
ルーブが思い出したように言った。
「うむ。
今すぐにでもこの家を離れる。
虎姫たちとは外で合流するぞ、よいな。」
イスズの言葉に反論が出ようはずもない。
その場の人間が、全員頷いた。
続